命繋ぐ糧、呪霧の綻び
ひっくり返った大湯釜から放たれた莫大な熱湯が、赤土の床を白く濡らし、炊事場にはただ真っ白な湯煙の帳だけが静かに立ち込めていた。
大混乱のなかで自滅し、敗走していった鬼の調理兵たちの足音は、いまや遙か谷底の闇の向こうへと完全に消え去っている。
激しい合戦の静寂のなか、大和の兵卒たちは、その手にした無骨な腕で、平屋の倉庫から次々と重い袋を泥まみれになって運び出していた。
鬼たちの目を盗んで根こそぎ奪い取った、手付かずの極上の米俵。そして、吉備の豊かな獣肉を燻した、大量の干し肉の束。
「――運べ! 1粒たりとも吉備の泥に落とすな!」
イヌが最先頭に立ち、漆の無残に剥げ落ちた重盾を傍らに立てかけながら、地鳴りのような声を響かせて兵たちを鼓舞する。
兵糧の袋がうずたかく積み上げられていく光景を前に、それまで飢えに喉を鳴らしていた大和の兵卒たちの顔に、にわかに本物の安堵の笑みが広がっていった。
これで自分たちの腹も、さきほど高丸山の鉄山から逃がした吉備の民たちの胃袋も、残さずパンパンに満たすことができる。
綺麗事の正義を一度捨て、不名誉な「強奪」という泥をすすってでも、明日を生きるための本物の命の糧を、彼らは大和の知略の連携によって確かにその手で掴み取ったのだ。
「……食え、キジ。お前もだ、健」
モモは自身の神剣を鞘へと深く収めると、奪い取ったばかりの柔らかな干し肉を、戦友たちの泥まみれの掌へと無造作に握らせてやった。
誰もがその生の恵みを奥歯でガリッと噛み締め、喉の奥へと飲み下していく。
大袈裟な勝ち鬨など必要ない。ただ肉体を満たすごはんの重みだけが、これから征く死線への血肉となって、一同の魂を静かに、熱く奮い立たせていた。
その大和の主従の、あまりにも実直で、あまりにも逞しい生存の営みを少し離れた岩陰から見つめていた森彦は、面の裏側で、血を吐くような凄まじい戦慄にただ立ち尽くしていた。
平屋の倉庫から奪い取った米や干し肉は、ただ大和の兵たちの袋に収まるだけではなかった。
モモの命によって、高丸山の鉄山から音もなく逃がされていた吉備の領民たちが、白煙の漂う炊事場の物陰へと、怯えながらも再び呼び集められたのだ。
衣服はボロボロに裂け、骨が浮き出るほどに痩せ細った敵国の民たち。
彼らは大和の兵卒たちから手渡された無骨な器を両手でひったくるように掴むと、炊きたての温かき米と獣肉を、涙と泥にまみれながら死に物狂いで口へと掻き込み始めた。
クチャクチャと、必死に命を繋ごうとする生々しい咀嚼の音。
その泥まみれの食卓の片隅で、モモはキジが弓弦で裂いた指先へそうしたように、今度はイヌの無骨な太い腕へと向き直っていた。
温羅の調理兵が十能でぶちまけた、あの火床の烈しい炭火。
それを重盾で真っ正面から受け止め続けたイヌの両腕は、漆の焦げる熱波に晒され、水膨れを伴う痛ましき火傷を負っていたのだ。
モモは声を潜めたまま、己の衣を新しく引きちぎった布で、イヌの分厚い腕の傷口を優しく、しかし固く縛り上げていく。
飢えが満たされていく民たちの喧騒を遠くに眺めながら、モモはふう、と静かな息を吐いた。
「――これで、ひとまずは安心だな」
王としての曇りのない安堵の呟き。
裂けた皮膚が布に擦れる痛みに一度だけ奥歯を噛み締め、イヌは実直な双眸で主君を見上げ返した。
「皇子も食べねばいけませんぞ。これからの行進は、これまで以上に過酷を極めます」
主君の肉体を誰よりも気遣う忠臣の重き声音に、モモは薄く、けれど確固たる強さを秘めた笑みを浮かべ、その背中の満身創痍の重盾へと視線を落とした。
「お前もだ。――ちゃんと食べて、早く治せ」
敵国の民を泥臭く救い、傷ついた臣下の肉体を等しく労う、大和の王道の圧倒的な優しさ。
その三人の、言葉を飾らぬ実直なやり取りを少し離れた岩陰から見つめていた森彦は、面の裏側で、胸を掻きむしるような特大の後ろめたさにただ激しく打ち震えていた。
(……クソが。何でお前らは、そうやって当たり前みたいに笑ってやがるんだよ……!)
自分の直したあの重盾の奥底で、いま漆がベキベキに剥がれ落ち、中の生皮が呪いの火薬となってどれほど大破への最終秒読みを刻んでいるか、オレだけが分かっている。
お前がオレを信じてその盾を誇らしく背負い続けるほど、その優しき腕ごと、お前の命が確実に終わっていくのだ。
裏切るべき敵のはずなのに、その曇りのない光の温かさを浴びるたび、サルの胸の奥の泥濘は、狂おしいほどの罪悪感となってその魂を冷酷に抉り続けていた。
「……温羅の呪いが、弱まってきている?」
泥まみれの食卓の片隅で、激しい頭痛に耐えかねたようにこめかみを押さえていたトトが、ふいに青白い顔を上げて小さく、 掠れた声音を漏らした。
その鋭き双眸が射抜くのは、吉備の天を不気味に閉ざし続けていたあの鉄煙の朝靄の向こう側ではない。
すぐ傍らで、喉の奥を血の味で締め付けられたように立ち尽くしている、森彦の痛ましき背中であった。
トトは気づき始めていた。吉備の天を縛る温羅の呪霧とは、この土地の民たちの狂信的な同調の意思そのものなのだと。
だからこそ――大和の王道の優しさに触れ、面の裏で激しく引き裂かれている森彦自身の狂おしい【葛藤】そのものが、いま、温羅の絶対なる支配の霧を内側からじわじわと弱め、綻びを誘っているのだ。
己の未練のせいで呪いが薄れ、それによって神懸かりの機能不全を脱し始めたトトの眼の奥に、自らの「間者としての不穏な気配(罠)」がより鮮烈にクッキリと視え始めてしまっている。
その残酷な因果の皮肉を、当の森彦自身は未だ知る由もない。
「キシッ、キシシシッ! 飯も腹の底までパンパンに満ちたな、大和の王様!」
トトのその刺すような視線の気配を背中に浴び、森彦は胸の奥の泥濘を必死の力で圧殺すると、いつもの人を食った笑みを面に貼り付け直して大袈裟に声を張り上げた。
動揺を隠すように吉備の黒鉄の短刀をブンと振り回し、サルは一行を促すように、西の谷底からさらに北へと連なる険しき渓谷の闇を指し示す。
「これで飯の心配は消えたなぁ?――なら、いよいよここからが正念場だ。このままあの川の渓谷を這い上って、温羅のクソ野郎の塒へまっしぐらだ!」
森彦の口から放たれた、次なる進軍の寸法。
「正面の南門や西門は、温羅の最強の精鋭たちがそれこそ蟻の連なる隙もなく固めてやがる。だがよ、山の真裏にある【北門】だけは、地勢的にも最も防備が薄く、死角になってる場所だ。あそこから虚を突いて一気に城内へと雪崩れ込めば、温羅の首なんざ、お前らのその名剣で一発で撥ねられるって算段よ」
いつものお調子者の口調。
だが、それこそが東門の鍛冶工房にいる大事な同胞たちの命を救い出すための、森彦の面の裏の最後の冷徹な計算であった。
モモは大王の勅を胸に秘めたまま、サルの指し示す血吸川の深い闇を見つめ据え、その凛とした声を夜気へと飛ばした。
「よし。川を遡上し、北門から温羅の中枢を喰い破る。……進軍再開ッ!」
王の号令に応え、漆の無残に剥げ落ちた重盾を背負うイヌを先頭に、軍勢は再び息を殺して歩みを始める。
誰もが胸の奥に割り切れぬ後ろめたさと疑惑の火種を抱えたまま、一行の濃藍の影は、病める山河を真っ赤に染めて流れる血吸川の闇の奥底へと、重く、静かに消えていくのだった。
綺麗事の正義を一度捨て、不名誉な強奪という泥をすすってでも、明日を生きるための本物の命の糧を掴み取ったモモたち。
敵国の民にすら等しくごはんを分け与え、命を繋ぎ合わせようとする大和の王道の光、そしてそれによって引き裂かれる森彦自身の狂おしい葛藤そのものが、吉備を冷酷に縛り上げていた温羅の絶望の支配(呪霧)を内側から綻ばせていくことになりました。
お互いに「視線と挙動のファクト」で無言のナイフを突きつけ合う、トトとサルの息詰まるスリリングな心理戦。
そして一行は、サルの「温羅のクソ野郎の塒へまっしぐらだ!」という威勢のいい演技の怒号を背に、ついに最終決戦の入り口へと、再び重く静かに行進を再開します。
次回、新章・第25話からは、ついに病める山河を真っ赤に染めて流れる『血吸川(砂川)』の闇の奥底へ!
鬼ノ城の正確な地勢の死角――防備の最も薄い『北門』へ向かって這い登る、決戦直前の重厚な遡上進軍(移動サスペンス)が幕を開けます。
「イヌの火傷、痛々しい」
「トトの予知、はやく発動して……!」
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