鬼の釜、そして火罠の現出
高丸山の尾根を後にした一行は、サルの先導のもと、足元の危うき隠れ路を息を殺して駆け下りていた。
目指すは、山壁の裏側に深く隠された西の山谷――。
陽が完全に落ち、吉備の本土が濃厚な闇の帳に包まれる頃、軍勢はようやく、わらじが泥濘を噛む鈍い音とともに谷底へと滑り込んだ。
立ち込める白き夜煙の向こう、赤々と燃え盛る数多の篝火に照らされて一同の眼前に現れたのは、大和の常識を根底から覆す異形の炊事場であった。
広場の中央に鎮座するのは、人間の背丈を遥かに超える、直径一丈もの巨大な黒鉄の塊――温羅の軍勢の胃袋を支える伝説の【鬼の釜】である。
釜の下では太き薪が爆ぜ、赤々とした猛火が鉄の底を狂おしくあぶり続けていた。
吹き出す熱気とともに、数千人分の米や干し肉がどろどろと煮える、強烈な生の匂いが白煙となって視界を白く染め上げていく。
その煮えくり返る巨大な釜の縁には、人間の腕ほどもある太さの、煤と獣脂にまみれた【長柄の木製大櫂】が何本も立てかけられていた。
底に沈んだ莫大な糧秣を、鬼の男たちが総がかりで力任せに練り混ぜるための、無骨極まる調理の道具であった。
「……へっ、驚いたかい、大和の王様」
闇に紛れ、音もなく巨岩の陰に身を潜めた森彦が、面の裏側で歪な喉鳴らしを響かせる。
「あそこの平屋の倉庫に、温羅様の極上の米や肉が山ほど眠ってら。看守どもの目を盗んで、根こそぎ強奪しな。……さあ、飯の時間だぜ」
懐の短刀を衣の裏で固く握り締め、サルは完璧な芝居の笑みを面に貼り付け直した。
この炊事場の奥には、温羅の最も凶暴な糧秣担当幹部と、イヌの重盾を漆黒の炭へと変えるための過酷な火床の熱気が待ち構えている。
大和の首脳陣を自発的に死地へ飛び込ませる、2つ目の甘い罠の檻。
しかし、明日生きるための、そして救った民たちを満たすための糧を求めるモモの双眸には、ただ冷徹な王の覚悟だけが烈烈と宿っていた。
モモは自身の顎を微かにしゃくり、背後に控えるイヌとキジの二人へ、声なき突撃の合図を送る。
闇を切り裂き、大和の軍勢が異形の炊事場へと音もなく滑り出した、まさにその刹那であった。
「――曲者だッ!!」
地鳴りのような怒号が響き渡ると同時に、夜煙の奥から雪崩れ込んできたのは、単なる兵卒ではない。
この異形なる炊事場を支配し、数千の胃袋を支え続ける、煤と獣脂にまみれた温羅の調理兵どもであった。
鬼たちは日常の生の道具をそのまま凶悪な殺戮の兵器へと変え、統制された無骨な波状攻撃を仕掛けてきたのだ。
まず先頭の巨漢どもが、吉備の黒鉄で打たれた【棘付きの刺股】を突き出し、大和の突撃の勢いを力任せに受け止めにかかる。
狭く足元の悪い赤土の床。華麗な神剣の太刀筋を塞ぐように刺股の爪がモモの衣服を引っ掻き、その肉体を容赦なく岩壁へと押し込めた。
そこへ、さらなる異形の追撃が迫る。
別の巨漢たちが釜の縁から【長柄の木製大櫂】を引き抜き、遠心力をのせて無骨な鉄槌の如く叩きつけてきた。
骨を砕かんとするその風切り音の死角から、普段は巨大な獣肉を捌いている鬼たちが、分厚く重い【肉切り包丁】をギラつかせて大和の兵たちの隙へと肉薄する。
泥をすすり、飯を奪い合う、生生しい肉体の泥仕合。
キジが強弓で応戦しようと包帯の指をかけるが、さらに奥の火床を守る鬼たちが一斉に牙を剥いた。
巨大な釜の下、赤赤と燃え盛る炉の底から、鬼たちが【鉄十能】で真っ赤に鎔け爆ぜる炭火と熱気の灰を豪快に掬い上げ、大和の軍勢へ向かって津波のようにぶちまけたのだ。
「――させんぞッ! 拙者の後ろにお隠れくだされッ!」
異形の猛火がモモたちを焼き尽くさんとしたまさにその瞬間、最先頭に割り込んだのはイヌであった。
男は地鳴りのような咆哮とともに、背中から引き抜いた新しき重盾を両腕で固く構え、その真っ赤な熱波の津波を真っ正面から防ぎ止めた。
――バチッ、バチバチバチッ!
鎔けた炭火が漆黒の防壁の表面で烈しく爆ぜる。
だが、健が頑強と信じ、森彦が完璧に直したと疑わなかったその最強の防壁は、この吉備の放つ過酷な熱気の下で、目に見えぬ致命的な【綻び】をとうに宿していたのだ。
じりじりと肌を焼く圧倒的な煤煙を浴びた瞬間、重盾を美しく覆っていた黒き漆は――。
「ベキ、ベキベキ……!」
目に見える速度で醜くひ ひび割れ、焦げて剥がれ落ち始めたのだ。
内側で水分を失い、完全に乾ききった鹿の生皮が、狂おしい力で鉄の骨組みをギリギリと締め付け、盾そのものを内側から崩壊させるための最強の爆薬へと歪に変形していく。
「が、あ……ッ!! まだだ、これしきの火床の熱、オレの壁の敵ではないわッ!」
漆の焼ける異臭と熱線に皮膚をあぶられ、イヌは苦悶の声を漏らしながらも、喉を枯らして重盾を最先頭で押し出し続けた。
相棒が命懸けで防いだその盾の陰から、モモの身体が弾かれたように前方へと滑り出す。
正面から迫る、黒鉄の【棘付きの刺股】を構えた巨漢の鬼。
モモはあえて自ら間合いを詰め、布都御魂の写しの刃で敵の突きを微かに受け流しながら、その巨躯をキジの直線的な射線上へと冷徹に誘導した。
鬼が勝利を確信し、力任せに刺股を振り下ろした、まさにその刹那。
モモは紙一重の踏み込みでその一撃をひらりと躱した。
遮蔽物の消えた鬼の眉間へ、包帯の指からどす黒い血を滴らせたキジの剛矢が、寸分の狂いもなく突き刺さる。
敵が脳天を射ち抜かれて崩れ落ちるのと同時に、モモは息を吸う間もなく地を蹴り、反転――。
振り向きざま、神剣の刃が烈風のごとく夜煙を切り裂く。
それは、背後から大櫂を振り回してキジの薄い肉体を叩き潰さんとしていた、別の調理兵の喉笛を、一瞬で深く、冷徹にかっさばいていた。
噴き出す鮮血。驚愕に染まる鬼たちの顔。
だが、大和の知略の連鎖はまだ終わらない。
モモの刃の残像が消えぬ間に、キジはすでに次の矢を番え、引き絞っていた。
狙うは鬼の肉体ではない。巨大な釜のすぐ隣でグラグラと沸き立っていた、調理用の【巨大な大湯釜の薪の土台】そのものであった。
ひゅううう、と風を裂く乾いた弓弦の音。
放たれた剛矢が薪の支柱を粉々に打ち砕いたその瞬間、凄まじい地響きとともに、大湯釜の均衡が完全に崩れ落ちた。
ゴガァァァンッ!!!
傾いた大湯釜の底から、莫大な熱湯と炉の真っ赤な灰が、津波となって鬼の調理兵たちの足元へと一気に出口を求めて決壊したのだ。
「ぎゃああああああっ!」
「熱湯だッ、足が鎔けるッ!」
自らの作った熱湯に焼かれた鬼たちの悲痛な絶叫。
大混乱の渦に叩き落とされた炊事場は、彼らが防戦の態勢を整える間もなく、一瞬にして勝敗の天秤を大和の側へと傾かせた。
平屋の倉庫に眠る、大切な米俵や干し肉――【兵士と民に食べさせるための食糧】には1粒の火の粉も散らさぬまま、調理兵の本隊だけを完璧に一網打尽にする、
大和の知略の完全なる勝利であった。
森彦が面の裏側で、恐怖を通り越した狂おしい戦慄を深めた、まさにその瞬間であった。
「……ビキ」
猛火を耐え抜き、漆を無惨に剥ぎ取られたイヌの背中の重盾の奥底から――。
誰の耳にも届かぬ冷たい時限の音が、静かに、次の大破への秒読みを刻み終えたのだった。
数千の鬼の胃袋を支える巨大な炊事場「鬼の釜」を夜陰に乗じて奇襲したモモたち。
日常の道具をそのまま殺戮の凶器に変えて襲いかかる鬼の調理兵たちの波状攻撃に対し、モモとキジの死角を補い合う神速のバディ・アクション、そしてキジの機知による「大湯釜の決壊」という一網打尽の知略によって、大切なごはん(兵糧)を1粒も汚すことなく根こそぎ強奪することに完全大勝利いたしました!
しかし、調理兵たちが放った猛烈な火床の熱波を最先頭で耐え抜いたイヌの重盾は、表面の美しき漆がベキベキと焦げて剥がれ落ち、ついに隠された『火罠の現出(大破の秒読み)』が最悪の形で始まってしまいました……。
次回、第24話からは、ついに炊事場の完全制圧、そして「奪い取ったごはんの確保」という静かな勝利の余韻から幕を開けます!
満身創痍の盾を背負うイヌと、サルの胸の奥で限界まで深まる罪悪感。
そして一行は、温羅の支配する城の真裏――防備の最も薄い『北門』への過酷な這い登り(最終決戦へのアプローチ)へと、血吸川をさらに遡上し始めます。
「モモとキジの阿吽の連携アクションが熱すぎた!」
「ラストの盾の悲鳴に心臓が縮んだ……!」
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