王道の代償、時限の予兆
モモが自身の顎を微かにしゃくり、音もなく巨岩の陰から滑り出したその瞬間、剥き出しの鉄山を包む夜明けの静寂が、一気に牙を剥いた。
まず動いたのは、キジである。
指先の包帯にじわりと黒い血を滲ませながら、麗しき知将は強弓の弦を、限界まで静かに、深く引き絞った。
ひゅう、と鉄煙の朝気を切り裂き、放たれた一矢は風切り音すら消されて虚空を奔る。
――かふっ。
すり鉢状の採掘場の縁を巡回していた看守の鬼が、声をあげる暇すら与えられず、その喉笛を正確無比に射ち抜かれた。
巨躯が硬い岩肌へと崩れ落ち、盛大な肉の激突音が戦場に響き渡る――その、わずか一寸手前であった。
影の如き速さで肉薄したモモが、布都御魂の写しの平(峰)で鬼の背中を音もなく受け止め、そのまま赤土の泥濘の中へと静かに寝かせつける。
声を殺し、音を消す。
大騒ぎして下の本隊に気づかれれば多勢に無勢、一瞬で圧殺される死地だからこその、冷徹な闇討ちの連鎖。
莫大な武勇を誇るモモとキジの神速の連携によって、外周を守る看守たちの目は、大和の兵卒たちが崖の上ですくんでいる間に、瞬く間にことごとく潰されていった。
だが、看守の鬼どもを完全に黙らせ、囚われていた吉備の一般領民たちの縄を解いたあとに、大和の軍勢を真の試練が襲う。
「……食え。今すぐ北の山へ逃げろ」
モモとイヌは、恐怖に怯え震える吉備の老人や子供たちへ、己の懐から貴重な干し肉を引き抜き、吉備の水を分け与えてやった。
敵国の民であっても見捨てぬ大和の王道。
しかし、数多の領民たちの胃袋を満たした代償はあまりにも重かった。
解放された民たちが北の山林へと這い逃げていく後ろ姿を見届けたとき、大和の兵たちが抱える兵糧の袋は、戦を続けるにはあまりにも危ういほどに空に近づいていたのだ。
綺麗事だけでは命は繋げない。与えすぎれば、自分たちが戦う前に飢えて全滅する。
大和の兵卒たちにじわりと焦燥の飢えが広がるなか、岩陰に身を潜めたサルの細き目の奥に、歪な悦びの光がギラリと灯った。
(……キシシッ、困り果てたな、おめでてえ大和の王様)
モモの曇りのない慈悲の炎に一度は魂を激しく揺さぶられた森彦であったが、職人としての、そして間者としての冷徹な理性が、即座にこの飢えという絶望を「最高の罠」へと計算し直していた。
お前がどれほど優しくとも、オレが裏切らなきゃ、東門の工房にいるオレの同胞たちが全員なます斬りにされるのだ。
森彦はいつもの人を食った笑みを面に貼り付け直すと、飢えに喉を鳴らすモモのすぐ傍らへ歩み寄り、その細い指先で、高丸山の尾根の向こう――遙か西側に深く落ち込んでいる、別の山谷の奥底を指し示した。
「キシシッ、上出来じゃねえか大和の王様! だがよ、飯が足りなきゃ戦どころじゃねえな? ――だったら、あの西の山壁の裏、深く隠された谷の底を狙いな。数千の鬼の胃袋を支える巨大な炊事場、温羅様の『鬼の釜』がそこにある」
サルは短刀を衣の裏で固く握り締め、悪魔の如き嘘の誘導を口にする。
「あそこへ忍び込んで鬼どもの極上の米や干し肉を強奪しな。そうすりゃお前らの腹も、さっき逃がした民どもの腹も、一発でパンッパンに満たせるぜぇ?……ここから西の谷へと一気に駆け下りる裏路がある。オレの案内に、乗るかい?」
サルのその不敵な問いかけに対し、モモは即座には答えなかった。
神剣の柄に置かれた泥まみれの指先が、微かに震える。
大王の勅を奉じた大和の王として、敵の兵糧を「強奪する」などという粗暴な振る舞いが、どれほど道理に欠ける無法であるかは誰よりも分かっていた。
だが、モモは背後で飢えを堪えて身を潜める大和の兵たち、そして、今しがた救い出したばかりの吉備の民たちの、あの痩せ細った肉体の現実を脳裏に並べた。
綺麗事だけでは命は繋げない。
王道の名誉を守るために、全員を戦う前に飢え死にさせてしまっては、本末転倒ではないか。
張り詰めた長い沈黙。
モモは喉の奥に溜まった鉄の味を一度、苦く飲み下すと、サルの細き双眸を真っ直ぐに見据え、その凛とした声を震わせた。
「……提案に乗ろう。その炊事場を強襲し、糧秣を奪い取る」
泥をすすり、不名誉を背負ってでも、明日生きるための糧を獲る。
若き王のその重き決断のもと、一行はサルの案内する西の谷底(地の子池の渓谷)へと、一気に身を隠しながら進軍を開始するのだった。
狙い通り、大和の首脳陣が自ら死地へと飛び込んでいく。
森彦が面の裏側で狂おしい薄笑いを深めた、まさにその瞬間であった。
「……ビキ」
門を叩くために体を張り、未だ熱を帯びてうっすらと見えない陽炎を立ち上らせていた、イヌの背中の重盾の奥底から――。
誰の耳にも届かぬ小さな悲鳴が、不気味に、また一つ時を刻んだのだった。
音もなき闇討ちの連鎖によって鉄山の看守を屠り、吉備の民を救い出したモモたち。
しかし、敵国の民であっても見捨てぬ王道の慈悲は、自分たちの兵糧が尽きかけるという生々しい「飢えの現実」を大和の軍勢に突きつけることになりました。
名誉を守って飢え死ぬか、泥をすすってでも全員の命を繋ぐか。
沈黙のすえ、モモが下した「糧秣の強奪」という血の滲むような覚悟の決断は、サルの用意した2つ目の甘い罠『鬼の釜の炊事場』へと、一行を自発的に飛び込ませる完璧なきっかけとなってしまいました。
次回、第23話からは、一行はついに西の隠された山谷へと向かい、温羅の巨大な炊事場への【隠密強襲合戦】が幕を開けます!
「モモの一瞬の葛藤と決断の重さにシビれた!」
「ラストの盾の悲鳴が不穏すぎて鳥肌が立った!」
と思ってくださった方は、ぜひページ最下部にある【☆☆☆☆☆(星ボタン)】や【ブックマーク】で応援していただけると、これからの執筆の特大の励みになります!なにとぞよろしくお願いいたします!




