鉄山に流れる血、大和の王道
最初の関所(巨門)をくぐり抜けた一行の眼下に、にわかに開けたのは、大和のそれとは根底から異なる異形の平野であった。
備中の広大な盆地を縦断する、吉備の本土大河――足守川の流域。
陽が昇るにつれて露わになったその全景は、まさに温羅の圧倒的な武力と財力を誇示する、人間の住めぬ鉄の地獄そのものであった。
天を衝くように林立する、無数の巨大な高炉(製鉄の煙突)。
その黒き巨躯から昼夜を問わず吐き出される濃厚な煤煙が、吉備の広大なる天を完全に覆い尽くし、昇りゆく太陽の光すら赤黒く、病んだ色へと濁らせていく。
谷底を渡る風下からは、関所で体感したものを遥かに凌駕する、鼻を突く強烈な硫黄の臭いと、じりじりと肌を焼くような鉄の熱気が、煙とともにどこまでも押し寄せてきた。
「……おいおい、大和の腰抜けども。あの本流の防備が視えねえわけじゃねえだろ?」
最先頭を行く森彦が音もなく足を止め、面の裏側で歪な喉鳴らしを響かせる。
サルが短刀の尖で指し示した大河の沿岸には、温羅の重い鉄の鎧を纏った数千の尖兵たちが隙間なく防壁を固め、水軍の無骨な軍船が川面を完全に埋め尽くしていた。
正面突破など、ただの自殺行為に等しい。
モモたちが声を潜めてその鉄煙の平野を睨み据えるなか、森彦はいつもの人を食った笑みを面に貼り付け直し、モモの曇りのない双眸を覗き込むようにして、北の険しき山際へとその視線を走らせた。
「正面からぶつかりゃ多勢に無勢、お前ら大和の首なんざ一瞬で鎔かされちまう。……だからよ、オレの案内に従いな。温羅様の目を盗んで、あの北の『巨大な鉄山』の中を泥臭く突っ切る隠れ路へ回るのさ」
その言葉の裏――サルの胸の奥には、すぐ西の山頂、あの「東門」の鍛冶工房に人質として軟禁されている同胞たちの顔が狂おしく去来していた。
いま正面から大和を突っ込ませれば全員がなます斬りにされ、同胞も巻き添えで皆殺しにされる。
だからこそ、サルは涙を呑んで、モモたちをまずは北へと遠回りさせる冷徹な誘導の嘘を吐いたのだ。
しかし、大王の勅を胸に秘めたモモは、サルのその隠された泥濘に気づく由もなく、不気味に広がる黒煙の盆地をただ静かに見つめ返した。
「――分かった。案内しろ、サル。お前を信じて北へ進む」
王のその曇りのない絶対的な「信頼」の一言が、サルの胸の奥に、また消えぬ重い楔となって深く突き刺さる。
森彦が皮肉に嗤って身を翻すのと同時に、一行は吉備の本土の【核心】を大きく包囲する、北の過酷な山道(迂回路)へと、迷いなく最初の一歩を踏み出すのだった。
平野の敵から身を隠すように、北の険しき【高丸山】の尾根を這うように進むこと、数刻。
不意に山林の視界が開けたその刹那、一行は足元から這い上がってくる凄まじい大地の咆哮に、思わず息を呑んだ。
そこは、山脈のただ中をすり鉢状に無残に抉り取った、巨大な露天掘りの鉄山であった。
黒々とした岩肌が幾重もの階段状に剥き出しにされ、その底へ向かって、蟻の列のような人間の群れが果てしなく連なっている。
働くのは、温羅の鉄の覇道のために強制動員された、吉備の一般の領民たちであった。
衣服はボロボロに引き裂かれ、汗と赤土にまみれた細き肉体。
幼き子供から腰の曲がった老人までもが、身の丈ほどもある重い鉄鉱石の籠を背負わされ、泥濘に草鞋をとられながら、果てのない坂道を這い登っている。
領民たちの背中には、大和のそれとは比べものにならぬほど強固な鉄の甲冑を纏った、温羅の看守の尖兵どもが容赦なく鞭を振るっていた。
乾いた破裂音。それに続く、肉の裂ける音と、声にならない悲痛な呻き。
立ち込める鉄錆の匂いと、人間の血肉の匂いが、谷底の熱気とともに混ざり合って鼻腔を最悪の形で刺してくる。
これこそが、関所の戸口でトトが、イヌが五感で察していた、吉備本土の真の姿――民の涙を鎔かして打たれる、鉄の地獄の本質であった。
「……ひどいな」
岩陰に身を潜めたモモの喉から、掠れた、けれど烈烈たる怒りを孕んだ声音が漏れ出た。
腰の至高の神剣【布都御魂の写し】の柄を握る、モモの泥まみれの指先が、怒りのあまり白くなるほど固く強張る。
「皇子。大王の勅は、この病んだ吉備の民を救うためのもの。……奴らを見捨てて征く道など、大和の王道にはございませぬ」
イヌがその無骨な巨躯をさらに低く沈め、地鳴りのような怒号を殺して具申した。
背中の重盾が、主の義憤に呼応するように小さく軋み、うっすらとした見えない陽炎をまた微かに揺らめかせる。
キジもまた、何も言わず、ただ包帯の巻かれた指先で弓の柄を固く握り締め、鋭き眼光で看守たちの配置(死角)を冷徹に数え始めていた。
大和の主従が、見捨てられた吉備の民を泥臭く救うために静かな作戦合議(密議)を始める、まさにそのすぐ傍ら――。
森彦は、面の裏側で激しい動揺に打ち震えていた。
(……バカな。何でそんな眼をしてやがる、大和の王様)
サルは最初、モモたちがこの吉備の領民たちの惨状を見ても、「俺たちの目的は温羅の首だ。吉備の民がどうなろうと知ったことか」と冷酷に切り捨てる姿を想像していたのだ。
大和の奴らも、結局は自分たちの国の大義しか頭にない侵略者なのだと、そう思いたかった。
そうでなければ、オレがこいつらを裏切って、東門の鍛冶工房にいる大事な同胞を救うという間者の「割り切り」が、内側から崩れてしまうからだ。
それなのに、モモのあの曇りのない双眸には、敵国の民であるはずの吉備の人間への、本物の、泥臭い慈悲の炎が燃え上がっていた。
(オレを揺るがすんじゃねえよ……! お前らがそんなに綺麗で優しかったら、オレは、オレはどうやってお前らを地獄(罠)へハメりゃいいんだ……!)
懐の短刀の柄を狂おしいほどに固く握り締め、サルは必死に胸の奥の泥濘を圧殺しようともがく。
だが、モモはサルのその狂おしい焦燥に気づくことなく、岩陰の狭間から、看守の鬼どもの首へとその鋭い視線を定める。
――ただトトのみが、頭痛に苛まれる青白い顔をしながら、鋭い視線を森彦へと向け続けていた。
平野の防備を避けて「高丸山の尾根」を迂回した一行の眼前に広がったのは、大地が無残に抉り取られた温羅の「剥き出しの鉄山」であり、そこで過酷な労働に喘ぐ吉備の領民たちの惨状でした。
敵国の民であっても救うのが大和の王道。モモの曇りのない「信じる」の一言は、東門の同胞のために間者を続けるサルの面の裏側を、あまりにも温かく、残酷に引き裂くことになります。
次回、第22話からは、ついにこの鉄山での潜入強襲合戦の火蓋が切って落とされます!
音もなく滑り出したモモたちの小刀と強弓が、看守の鬼どもをどう打ち崩していくのか。
そしてサルの仕掛ける次なる計算は……!
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