無言の絆、昏き追憶
モモたち一行の勝ち鬨は、死んだ谷間に遠く消え去り、奪い取った関所には、ただ鉄の煤煙の冷たい匂いだけが微かに漂っていた。
砦の片隅、引き裂かれた木柵の陰に腰を下ろしたキジへ、モモが静かに歩み寄る。
モモの視線が己の右手に落とされたのを察し、キジは何も言わず、ただ薄く苦笑いを浮かべながら、血に汚れた手を無造作に突き出した。
麗しき知将の指先は、強弓の烈しい負荷によって無残に肉が裂け、どす黒い血が煤とともに泥臭くこびりついている。
モモは言葉少なに、いや、吐き出す息の音すら潜めたまま、己の衣の懐から引きちぎった清潔な布を取り出すと、戦慣れした確かな手際だけで、その痛ましき傷口を優しく、しかし二度と弦から滑らぬよう固く縛り上げていく。
裂けた肉が軋む痛みに、キジは微かに眉根をひそめたが、その口から弱音のひとかけらも漏れ出ることはない。
戦を共にした時間は長いとはいえない。
だが、ともに死線を潜り抜けてきた二人には、主従としての絆が出来上がっていた。
いまさら大袈裟な労いも、すまないという謝意の言葉も、もはや何一つとして必要としない。
ただ固く結ばれた布の感触だけが、二人の魂の体温を静かに、確かに繋ぎ止めていた。
その二人の静かな沈漠から数歩離れた、巨門の裏――。
イヌは地を這うような低い息を吐きながら、門を押し破るために共に体を張り続けた無名の兵たちの肩や背中を、無骨な掌で一つ一つ叩いて労っていた。
兵たちの安堵の笑顔を見届けたイヌは、傍らの壁に立てかけていたもう一つの戦友――己の重盾へと、ふいに向き直る。
表面上は、何も変わっていなかった。吉備の頑強な生木に、濡れた鹿の生皮を巻き、黒い漆で完璧に塗り固められた漆黒の防壁。
温羅の尖兵どもが放ったあの猛烈な熱波と炭火を、真っ正面から耐え抜いた最強の命の壁が、そこには厳然と鎮座しているように見えた。
――だが。
夜明けの冷たい朝気のなか、漆黒の盾の表面から、まるで陽だまりの石のように、うっすらと陽炎が立ち上っていた。
炉の火床の熱を吸い込みすぎたせいか。
漆の香りが歪に焦げたその煤煙の向こうで、誰一人として気づかぬほどにゆっくりと、じわり、じわりと、内側の生皮が水分を失って縮み、強固に鍛え上げられた鉄の骨組みを、逃げ場のない力で狂おしく締め付け始めている。
それが、一度でも激しい衝撃を浴びれば内側から木端微塵に弾け飛ぶ、漆が枯れ果てるまでの、刹那の命数だとも知らず――。
イヌはただ、見事に関所を守り抜いてくれた相棒の仕上がりに、満足げに喉を鳴らした。
男は重盾を再びその無骨な背へと背負い直すと、少し離れた場所で火床の残火を遠く見つめていた森彦の前まで歩み寄り、そして生真面目に頭を下げた。
「森彦どの――いや、サルどの。そなたの仕事(細工)のおかげで、ここを制圧することができた。……改めて、感謝する」
嘘偽りのない、武人としての魂の底からの重い感謝であった。
その言葉を真っ正面から浴びた瞬間、森彦の細い肩が、ハッとしたように激しく跳ね上がる。
「……キシッ、ハッ! 何を言い出すかと思えば、これだから大和の奴らは目出度くて敵わねえや」
森彦は慌ててふいっとそっぽを向くと、喉の奥でいつものように皮肉に嗤ってみせた。
逃げるように懐から干し肉を引き抜き、奥歯でガリッと噛み砕く。
しかし、漆と煤に汚れた面の裏側では、言葉にならない昏い泥濘が狂おしく渦巻いていた。
自分の直した盾の奥底で、いまどんな呪いの火薬がじわりと火を噴き始めているか、オレは知っている。お前がオレを信じてその盾を背負い続けるほど、お前の命が確実に終わっていくのだと、オレだけが分かっているのだ。
(……親父もお袋も、こんな風に大和の奴らを信じちまったから、鎔けた泥鉄の中に突き落とされたんだ)
噛み締める干し肉の味の向こう側、森彦の脳裏に、いまも肌を焼くようなあの日の赤き熱気が鮮烈に蘇る。
腕の立つ吉備の鍛冶師の頭領であった森彦の両親は、職人としての純粋な欲のままに、大和の商人と秘かに鉄の交易を行っていた。
それが、大和の中央集権がいずれ吉備を喰らいにやってくると誰よりも予見していた覇王・温羅の逆鱗に触れた。
温羅様からすれば、技術と資源の流出は、吉備の自立を脅かす国家反逆の利敵行為に他ならなかったのだ。
温羅様は、両親の打つ鉄を誰よりも愛していた。
愛していたからこそ、大和に抗う吉備の絶対なる大義のために、涙を呑んで一族の血を鎔かした。
その非情なまでの正しさを、圧倒的な覚悟の強さを、森彦は誰よりも身を以て知っている。
だからこそ、親を殺した覇王が骨の髄まで憎いと同時に、あの御方の掲げる冷徹な現実を、森彦の職人としての理性が、どうしても否定しきれずにいた。
吉備の地で民が生き残るためには、あの烈火の如き王の力が必要なのだ。
大和の人間がどれほど美しく優しくとも、吉備の民を守るためには、温羅様の牙として動くより他に道は無い。
(オレを揺るがすんじゃねえ、大和の奴ら……。オレは、吉備の泥の中で、あいつらの命と生きるって決めたんだ)
森彦は奥歯をガチリと噛み締め、燃え殻のようなサルの笑みを面に貼り付け直した。
その痛ましき背中を、トトの鋭き双眸がただ静かに射抜いていた。
温羅の呪いの靄のせいで、森彦が人質を取られた間者であるという真実までは、トトの目にはハッキリとは視えない。
けれど、その背後に漂うおぞましい災厄の気配だけが、冷たく、一行の足元へとしがみついていることだけは確かであった。
やがて、関所の物見櫓の炉から放たれる黒煙が、昇りゆく朝陽の光すら赤黒く病ませていくなかで、モモが静かに立ち上がった。
布で固く縛られたキジの指先。
うっすらと見えない陽炎を立ち上らせる、イヌの重盾。
そして、いつものように歪な薄笑いを無理やりに面に貼り付け直した、サルの背中。
誰もが己の胸奥に割り切れぬ覚悟と不穏を抱えたまま。
一行は制圧したばかりの巨門をくぐり、温羅の支配する吉備の、さらなる深部へと足を踏み出していく。
草鞋が病んだ土を噛む、重く鈍い足音。
数十の息遣いと、甲冑が擦れ合う無骨な音だけが、再び死んだ谷間に低く響き渡り始める。これから先、どのような罠が待ち受けているのか、彼らには知る由もない。
眼前に立ちはだかる、温羅の牙城たる鬼ノ城を見上げると、やがて軍勢は泥臭く歩みを再開した。
――打倒・温羅という、大王の勅を胸に。
激しい合戦の余韻が漂うなか、言葉ではなく傷口を縛る動作だけで無言の絆を示したモモとキジ。
そしてイヌの曇りのない本物の感謝は、仕込まれた時限の罠を前に、サルの面の裏にある過去の因縁(温羅との確執)を狂おしいほどに抉ることになりました。
誰もが割り切れぬ想いを胸に秘めたまま、大王の勅を果たすべく、軍勢は再びその泥臭い歩みを再開します。
本土最初の関所を落とした一行の、本当の【鉄と炎の行進】が、ここからさらに深まってまいります……!
「モモとキジの無言の信頼にグッときた!」
「サルの過去の確執が深すぎる……!」
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