先見えぬ途(みち)、昏(くら)き鉄壁
その四人の不器用な交わりを、すぐ傍らでじっと見つめている双眸があった。
麗しき巫女たるトトは、手渡された黍団子に一口もつけることができない。
ただ激しい頭痛に耐えながら、煤けたサルの背中を凝視していた。
大和にいた頃、トトが先見の霊力を解き放つときには、必ず全身を狂おしく震わせていた。
現世の意識を忘るるほどの、激しい神懸かりの境地。
その痛ましき儀式の果てにこそ、数々の危機を寸前で視通す「絶対の確証」を掴み取ってきたのだ。
――だが、この吉備の土を踏んでより、トトの肉体にあの神懸かりは一度として訪れていない。
霊力を高めようとするたびに、温羅の放つ赤黒い呪いが炎の粉となって脳裏を焼く。
そのたびに意識を現世へと無残に叩き落とされるのだ。
今のトトの目の裏に走るのは、神の託宣たる明瞭な光景ではない。
霧の向こうからじっとりと染み出てくる、ただおぞましき【災厄の断片】の残像に過ぎなかった。
視界の端を掠めたのは、あの山上の鬼ノ城から溢れ出た、真っ赤に鎔けた泥鉄の津波。
それが音を立てて谷底へと流れ下り、大和の兵たちを、イヌの重盾を、モモの肉体を、すべてを地獄へと焼き尽くしていく不吉な影。
(……神の目は開かない。何が起きるか、この男が何を企んでいるか、私には何の確証も視えない……!)
「モモ、私は――」
喉の奥まで出かかった声を、トトは血が滲むほど唇を噛み締めて、無理やりに飲み込んだ。
言い出せるはずがなかった。
確証なき怯えの妄言で、限界を迎えた兵たちの士気を乱すわけにはいかない。
何より――。
初めて「サル」と呼び、森彦を真っ直ぐに信じ抜こうとしているモモのあの美しい双眸。
己の不確かな恐怖だけで、その美しい絆に泥を塗ることを、トトの心がどうしても拒んでいた。
誰にも言えない最悪の予感を、独り胸の奥底へ深く沈め、トトは己の胸元を固くかきむしった。
森彦の繋がっている先にある「温羅の影」が、あまりにも深く一行の足元を絡め取ろうとしている。
トトは焦燥にその身を震わせながら、進軍を始めようとするモモの背中を、ただ祈るような目で見つめるほかなかった。
朝靄が静かに晴れゆく鍛冶場の前。モモは新しい防壁を背負い直したイヌを見据え、掠れた喉を震わせた。
「健。そろそろ出発を考えている。兵たちの様子はどうだ?」
「は。疲労が完全にとれたとは言えませぬが、長居したとて状況は悪化するばかりでしょう。ならば、速やかに移動開始すべきかと」
「そうか。では、出発する。号令をかけろ」
「はっ!」
イヌは深く首肯すると、大和の数十の兵たちへ向けて、肺腑を震わせるような無骨な声を轟かせた。
「――全軍、半刻の後に発つ。装備を取れ!」
その号令に、辻や岩陰に身を寄せていた兵たちが一斉に動き出す。
弱音を吐く者も、甲高き怯えの声も一切ない。
泥まみれの指先で槍の柄を握り直し、錆びかけた鉄剣を無言で腰に差し直す。
――半刻後。
隠れ里の簡素な木柵を背に、一行は再び死の山道へと足を踏み出した。
陽が昇るにつれて、吉備の本土はまたあの煤けた熱気を帯び始める。
先頭を行くサルの数歩後ろ。イヌは歩むごとに、己の無骨な背へと補強された重盾の「重み」を馴染ませていた。
ざらりとした強固な鹿の生皮。
割れ目をガチッと固定する生木の楔。
歩むたびに、黒い漆の独特の鼻を突く匂いが鼻腔をあぶる。
イヌは無言のまま、盾の裏の取っ手を大きな掌で一度、固く握りしめた。
異郷の職人が夜通し命を削って仕上げてくれた、新しい命の壁。
多くを語らぬ武人の胸奥に、あの不器用なサルへの、静かで確固たる信頼が深く刻まれていく。
草鞋が泥を噛む、重く鈍い足音。数十の息遣いと、甲冑が擦れ合う無骨な音だけが、死んだ谷間に低く響き渡る。
打倒・温羅へ向けて静かに牙を研ぐ軍勢の、泥臭くも力強い【鉄と炎の行進】が、ここに再び始まった。
――その連なる隊列の、最先頭。
音もなく地を蹴り、一匹の猿のごとく先行する森彦の背中があった。
背後からは、大和の兵たちの実直な足音と、あのイヌが背負う重盾が軋む音が、否応なしに耳へと届く。
森彦は前方の険しき山道を睨んだまま、喉の奥で「キシッ」と短く鼻を鳴らした。
振り返るまでもない。出発の直前、あの無骨な黍団子を分け合っていたときの、奴らの表情が脳裏にこびりついて離れなかった。
(……キシッ、揃いも揃って目出度い面してやがる)
デカブツもモモも、オレを命の恩人だと信じ切り、あの曇りのない双眸でオレを見据えていた。
あの盾に巻いた鹿の生皮が、温羅様の城が放つ凄まじい炉の熱気の前には、ただの火薬に化けるとも知らねえでな。
鬱蒼とした山林が途切れ、視界がにわかに開けた。
先頭の森彦が音もなく足を止め、岩陰に身を潜める。
追いついたモモたちが、息を殺してその眼下を見下ろした。
険しき死の坂道を下りきった、谷の出口。
そこに立ち塞がっていたのは、大和の簡素な関所とは根底から異なる、禍々(まがまが)しき『鉄の要塞』であった。
まず一同の目を射たのは、何重にも張り巡らされた無骨な【木柵】である。
切り出された巨木は一本残らず黒く焼かれ、その先端には、鋭利に研ぎ澄まされた鉄の槍頭が幾百も打ち込まれていた。
ただの侵入拒否ではなく、触れる者の肉を容赦なく抉るための凶器の壁だ。
その強固な柵のただ中央、威圧するように鎮座するのが巨偉なる【門】であった。
吉備の頑強な生木を何層も重ね、その表面はことごとく厚い『鉄の板』で覆われている。
大和の兵卒が数人がかりで丸太をぶつけたところで、びくともしないであろう鉄の盾そのものだった。
そして、その背後から天を衝くように聳え立っているのが、数基の巨大な【物見櫓】だ。
櫓の上からは、幾筋もの黒煙が吹き出していた。
監視の尖兵どもを寒気から守るためか、あるいは武器を研ぎ直すためか、物見の足元で常に赤々と炉の火を燃やしているのだ。
櫓の上では、温羅の重い鉄の鎧を纏った尖兵たちが、鈍く光る長槍を手にして、蟻の這い出る隙もなく周囲の山肌へ目を光らせていた。
彼らの冷たい視線を避けるように、モモたちがさらに岩陰に身を潜めた、その足元――。
関所の戸口や谷底からは、鼻を突く強烈な硫黄の臭いが、じりじりと肌を焼くような鉄の熱気とともに、重く煙となって押し寄せてくる。
これぞ、吉備一帯を武力で平定した覇王・温羅の本土前線基地。
大和の侵略を絶対に許さぬという、まつろわぬ民の圧倒的な【鉄の意志】が、その無骨な建造物から傲然と放たれていた。
「……あそこを、抜けるんだな」
モモは掠れた喉を鳴らし、腰の得物の柄へと手をかけた。
イヌは背中の重盾を固く構え直し、キジは背の弓から、一筋の鋭き矢を引き抜く。
トトだけは、その要塞の戸口から溢れ出るおぞましい炎の霧に、眩暈を堪えるように強く拳を握りしめていた。
最先頭の森彦は、一行のその緊張を背中で感じながら、面の裏で冷徹に「キシシッ」と喉を鳴らす。
(さあ、連れてきてやったぜ、温羅様。……大和の、最高の獲物どもをよ)
ついに、吉備における最初の激突の火蓋が切られようとしていた。
四人が泥臭く黍団子を分け合い、奇妙な絆を結んだのも束の間。
吉備の本土は、大和のそれとは根底から異なる、おぞましき『昏き鉄壁』を一行の前に突きつけてきました。
温羅の呪術によって「先見の目」を曇らされ、確証なき恐怖を独り胸に沈めるトト。
そして面の裏で冷徹に喉を鳴らす森彦……。
次回、第18話からは、ついに本土最初の合戦の火蓋が切って落とされます!
力押しでは絶対に破れぬ鉄の門を前に、モモたちはどう挑むのか。
そしてサルの仕掛けた罠がどう動き出すのか……!
「トトの孤独な焦燥にゾクゾクした!」
「いよいよ始まる本格合戦が楽しみ!」
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