鍛冶師の矜持、背負いし泥濘(ぬめり)
森彦の後を追うこと、およそ二刻。
ようやく辿り着いたその場所――谷底にへばりつくように佇む隠れ里は、上空の温羅の目を欺くため、どの家屋も屋根に土を盛り、草木を植えて山肌に同化させていた。
生きている人間の気配を極限まで消したその集落の最も奥、半ば巨岩の割れ目と一体化した一軒の粗末な小屋へ、森彦は迷いなく入っていく。
戸を蹴り開けた男は、振り返りもせず、煤けた木台を顎でしゃくって言い放った。
「ちょっくら作業する。貸せ」
その無骨な要求に、イヌは多くを語らず、己の背から大破寸前の重盾を外して手渡した。
男がそれを抱えて薄暗い奥へと引っ込むと、残されたモモたちは、ようやくその場へへたり込むように腰を下ろした。
吉備の土を踏んでより初めて、張り詰めた進軍の手を緩める、つかの間の休息であった。
里の狭い辻や岩陰には、大和から付き従ってきた数十の兵たちが、互いの擦り切れた足を労り合うように無言で身を寄せ合っている。
ある者は錆びかけた鉄剣を濁った水で黙々と研ぎ、ある者は痩せた吉備の山肌を警戒しながら、泥まみれの指先で草鞋の紐を締め直していた。
弱音を吐く者も、甲高き怯えの声も一切ない、過酷な戦を前にした軍勢の、静かで泥臭い生の営みがそこにあった。
キジは懐から引き裂いた乾き肉を取り出し、モモの手のひらへとそっと分け与えた。
モモはその固く強張った干し肉を口に放り込み、モガモガと奥歯で根気強く噛み締めながら、安堵の息を深く吐き出す。
乾いた喉に肉の素朴な旨味が広がる、泥臭くも確かな生の営みが、一行の疲弊した肉体を静かに満たしていった。
――だが。
乾いた肉を噛み砕くカリ、という咀嚼音が響く中、トトだけはその喉に何一つ通すことができずにいた。
煤けた山肌を見つめるトトの麗しき双眸は、じっと、森彦の入っていった小屋の戸口へと注がれている。
大和の庵では無敵だった予知の目が、吉備の煤煙に毒されて久しい。
けれど、目の裏を焼く赤黒い炎の粉の向こう側で、トトの肌は強烈な【違和感】を捉えていた。
立ち並ぶ他のどの民家からも、そんな気配は漂っていない。
なのに、あの男が篭る鍛冶場の、歪に閉ざされた木戸の隙間からだけは――目に見えぬ呪いの煤煙と、肌をあぶるような、おぞましく禍々しい「炎の霧」が、じっとりと、大地の底から染み出てきている。
(あの小屋から、温羅の、炉の匂いがする……)
トトは激しい頭痛に耐えながら、こめかみを細い指先で強く押さえた。
男の言っていることは、盾の細工の目利きを含めて100%正しい。
けれど、あの男が盾に触れた瞬間から、小屋から漏れ出す温羅の呪術の霧が、まるで大蛇のように一行の足を絡め取ろうと蠢いている。
トトは喉の奥を締め付けられるような焦燥に震え、じっと奥歯を噛み締めた。
トトが見透かそうと目を凝らしていたその小屋では――。
外の静寂とは裏腹に、森彦は黙々と手を動かしていた。
台にドスンと置かれたイヌの重盾。森彦はそれを受け取ると、手荒に作業台へと放るかと思いきや、驚くほど静かに、いたわるように横たえた。
荒れて煤けた指先が、限界の命脈を刻む大亀裂をそっと優しくなぞる。
鉄の厚み、鍛えの密度、そして阿久良との猛攻を辛うじて凌いできた大和の技を、森彦の職人としての目が瞬時に見極めていく。
「……良い盾だ。今まで主を、守ってきたんだろうなァ」
ぽつりと、思いがけず漏れ出たような呟きであった。
さきほどまでの人を食ったような「サル」の笑みは完全に消え、そこにあるのは、鉄の生きてきた道をただ見つめる、一人の若き鍛冶師の横顔であった。
森彦はハッと我に返ったように鉢巻きをくいと上げると、すぐにいつもの歪な笑みを「キシシッ」と顔に貼り付け、生木と鹿革へと手を伸ばした。
「ま、そんななまくら、オレの細工にかかりゃ、もっとマシな鉄の壁にしてやるよ」
そこからは、ただ頑なな職人の時間が流れた。
裏山の沢で切り出されたばかりの、水分を吸い込んだ生木の楔を亀裂に幾本も打ち込み、水に浸して柔らかくした鹿の生皮を、全体重をかけて「ギリ、ギリ」と万力のように盾の周囲に固く巻き付けていく。
その上から、独特の鼻を突く匂いを放つ漆を、荒れた指先で隙間なく塗り固めていった。
これでよし、と職人としての満足感が胸を満たした――その直後、男の胸奥に冷徹な『間者』の泥がせり上がる。
(……オレは、何を本気で打ってやがんだ)
懐に隠した二条の鉄の短刀が、衣の裏で冷たく肌をあぶる。
この大和の余所者どもは、温羅様を討つとぬかしている。
もしこの盾が完璧な壁となれば、温羅様の軍勢を阻む邪魔立てになる。今ここで、このなまくらを台ごと叩き割り、こいつらの首をまとめて撥ねるべきではないのか。
脳裏をよぎるのは、温羅に逆らい、真っ赤に鎔けた泥鉄の中に突き落とされて果てた、両親のいまわの際の絶叫。
そして今なお、温羅の鉄山で過酷な使役に喘ぎ、生殺しの枷を嵌められている、かつての同胞たる鍛冶師たちの泥にまみれた顔、顔、顔。
(オレが裏切れば……あいつらが全員、なます斬りにされる)
刀の柄にかけようとした指先が、微かに、しかし屈辱に激しく震えた。オレには、こいつらに情をかける理由など、一寸たりとも無い。
従うほか無いのだ。
あいつらの命を繋ぐためには、温羅様の犬として、大和の王の首を差し出すほかは――。
その時、漆の匂いの中に、ふと温羅の居城の光景が重なった。
幾百の炉が火を噴き、万の鉄を鎔かす、あの烈火の牙城。
森彦はハッと息を呑み、己の施した補強(生皮と漆)を凝視した。鹿の生皮は、吉備の湿気には耐えるが、温羅様の城が放つ『凄まじい炉の熱気と炎』に晒されれば、一瞬で乾ききり、ひとたまりもなく焼き切れる。
(……キシシッ、そうかよ。そうだったなァ、温羅様)
胸の中で、ひび割れた醜い笑いが漏れた。自分の手で壊す必要などない。かつて両親を焼き殺したあの「炎」が、この美しい大和の重盾を、最大の決戦の場で内側から木端微塵に弾け飛ばす。
オレは、最高の『絶望の爆薬』をこの盾に仕込んでやったのだ――。
森彦は震える指先を固く握りしめると、いつもの人を食ったような歪な笑みを、その煤けた面に貼り付け直した。
楽々森彦は、イヌの重盾を修復していく。
だが、その心は、言い知れぬ闇に囚われていた。
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