鉄の毒路(どくろ)と、猿(ましら)の笑み
吉備の土を踏んでより、三日の月が流れた。
吹き降ろす風は煤の臭いが混じり、喉の奥をあぶるように乾いている。
「……水だ。回せ」
僅かに掠れたモモの声に、イヌが己の腰から瓢を外し、無言で差し出す。
大和から携えた最後のみずが、四人の乾いた喉をかろうじて潤した。
一同の草鞋はすでに擦り切れ、足裏には血と泥がへばりついている。
キジは無言のまま、懐から取り出した一握りの糒をモモの手のひらに分かち、自らも一粒、カリ、と奥歯で噛み砕いた。
見上げる山肌はことごとく木々が伐り倒され、剥き出しの赤土と黒ずんだ巨岩が、まるで引き裂かれた獣の肌のように連なっている。
大和の青々とした峰とは異なる、鉄の毒に病んだ死の山道であった。
その張り詰めた静寂の中、ひゅう、と微かな音が鳴る。
それは吉備の山背の音ではない。
イヌの背負う重盾の、あの阿久良の飛斧に裂かれた大亀裂が吸い込む、悲痛な風鳴りであった。
歩むごとに「ビキ、ビキ」と怨念のように軋むその音を、一同はあえて口には出さぬ。
ナミが案内する険しき山道の先、赤黒く濁った煙の向こうに、求める「隠れ鍛冶師の里」の煙が、ようやく細く揺らめいていた。
その時、麗しき巫女たるトトが、煤けた山道に立ち尽くし、片手を痛ましげに己の額へと当ててよろめいた。
大和の庵にて、数々の謀反や危機を寸前で視通してきたその双眸が、今は酷く濁り、血走っている。
「……おかしいのです、モモ。吉備の土を踏んでより、私の『予知』の目が、何一つ前を見通せない……」
トトの細い声が、焦燥に震えた。
「ただ、赤黒い炎の粉が目の裏に吹き荒れるばかり。まるで、この土地そのものが、私の目を潰そうと呪いを吐き出しているかのような……」
「鬼の頭領の、呪術か」
キジが低く声を漏らし、背の弓を握り直す。
「いえ、それだけではないわ……」
トトは胸元をかきむしるようにして、鬱蒼とした木々の奥を睨み据えた。
「……来る。けれど、視えない。炎の霧の向こうから、何かがこちらを覗いている……!」
その直後であった。
ひゅう、と風を切る不穏な音が響き、頭上の巨木の枝から、一筋の影が凄まじい速さで舞い降りた。
「温羅の走卒ども! ここから先は、一歩たりとも通さねえええ!」
逆手に握られた、鈍く光る二条の鉄の短刀。それがモモの首筋を狙って容赦なく閃く。
――ビキリ。
阿久良からの猛攻を辛うじて凌いできた、重盾の傷跡。その限界の命脈が、強烈な衝撃に耐えかねて、ついに深く裂け目を広げる。
悲痛な破壊音が、鬱蒼とした山林に響き渡った。
「……チッ」
短刀を翻し、一匹の猿のごとく、軽やかに後方へと跳ね退いた男の姿が、木漏れ日の中に浮かび上がる。
その身なりは、吉備の鬱蒼とした山林に溶け込むような、深海のごとき濃藍の薄衣。
音もなく地を駆けるため、足元には麻の布が幾重にも固く巻き付けられている。
額には、色褪せて泥に汚れた麻の鉢巻きが巻かれ、そこから覗くのは、美豆良を結わず、野性的に後ろで乱雑に束ねられた総髪であった。
男は追撃の構えをとったまま、ピタッと動きを止めた。
その鋭い眼光はモモではなく、イヌの重盾の、風鳴りをあげる大亀裂へと注がれている。
さっきまでの猛り狂った手先の演技の目が、一瞬で、冷徹な職人の目へと切り替わっていた。
「……温羅の走卒じゃねえな。あいつらの持つ鉄は、もっと醜く、鈍く、――容赦なく黒い」
男は額の鉢巻きをくいと上げ、冷ややかな視線をモモたちへと走らせた。
「お前ら……吉備の人間じゃねえ。ただの余所者だな」
その言葉に、真っ先に眉をひそめたのはキジであった。瑞々しく上品な若き武人たるキジは、弓を引いた構えのまま、低く鋭い声音を返す。
「……なぜ、ただの余所者と判る。我らが温羅の手先や、海を渡ってきた賊ではないと、いかにして見極めた」
「見れば判るさ。そんな擦り切れた草鞋を履き、大和の美味い水で育ったような面をして、吉備の煤煙に怯えてる。おまけに……」
男の視線が、再びイヌの盾へと戻る。
「そんな見事な『大和の重盾』を背負って、死に損ないの里を目指す馬鹿は、この土地にはいねえよ」
「……大和、と、いま言ったか」
イヌが重い声を漏らし、盾を構え直す。サルは「大和」という核心の言葉を、あくまで「盾の細工の出どころ」から見抜いたフリをして、白々しく、しかし不敵に笑ってみせた。
「オレはこれでも、鉄を見る目だけは死んじゃいねえんでな。……大和の御一行様。そのなまくらを破片にしたくなけりゃ、オレの背中をついてきな。温羅の目の届かねえ、隠れ鍛冶の里へ案内してやる」
先導しようと、迷いなく泥の山道を歩み始める男。だが、数歩進んだところでふっと立ち止まると、薄汚れ、色褪せた鉢巻きを指先でくいと上げ、飄々とした笑みを浮かべて振り返った。
「そうだ、言い忘れてた。オレの名は森彦。楽々森彦ていうんだ。ま、こんなツラをしてるからよ、皆からは『サル』と呼ばれてるけどな」
そう言って、「キシシッ」と猿めいた歪な声で笑う。その不敵な物言いに、モモは掠れた喉を微かに震わせ、真っ直ぐに視線を返した。
「……俺はモモだ。森彦、かたじけないな」
「……へえ」
森彦は一瞬だけ、その細い目をさらに細め、値踏みするような光を覗かせた。
だが、すぐに踵を返すと、今度こそ音もなく地を蹴り、鬱蒼とした木々の奥、影から影へと溶け込むように先行していく。
少し目を離せば容易に見失うその危うき背を見据え、モモは確固たる決意をその双眸に宿すと、男の残した微かな気配を追って、力強く一歩を踏み出した。
楽々森彦の先導のもと、鍛冶の集落へと誘われるモモ一行。
そこで、イヌの重盾の応急修理をすることになった。
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