鬼の大洞窟、闇の中の死闘
――フッ。
一歩、漆黒の人工洞窟の中へと足を踏み入れた瞬間、外で吹き荒れていた野分の暴風雨の音が、まるで嘘のように遠のいた。
代わりに一行を包み込んだのは、肌にまとわりつくような重苦しい湿気と、削り出されたばかりの荒々しい岩肌が放つ生温かい匂いである。
モモが掲げる松明の橙色の光が、不気味な岩の凹凸を浮かび上がらせる。だが、その光が届くのはわずか数歩先まで。一歩進むごとに、濃密な暗闇が一行を飲み込もうと迫ってきた。
「一の隊、足音を殺せ。皇子、松明はなるべく壁側に。光を中央に晒せば、闇の奥からの格好の標的になりまする」
すぐ隣を進むイヌが、重盾を低く構えながら囁くような、しかし芯の通った声で部下たちに命じる。
洞窟の通路は、大人二人が並んで大盾を構えるのがやっとという異様な狭さだった。
「姫様、拙者の背中にぴったりとお隠れくだされ。一歩も離れてはなりませぬぞ」
イヌが重盾を低く構えながら、背後に寄り添うトトへと囁く。
白い麻の神衣をまとったトトは、焦点の合わない瞳のまま、イヌの武骨な甲冑の背をその華奢な指先で小さく掴み、静かに頷いた。大和の精鋭たちが誇る「盾を連ねて一斉に突撃する」という組織的な面での制圧は、この狭所では封じられたも同然。
(……嫌な狭さだ。完全にこちらの『盾』の強みを消しにきている)
イヌが額の汗を拭った、まさにその時であった。
――サササッ、ザザッ。
松明の光が届かない漆黒の彼方、数寸先も見えない闇の奥から、無数の衣服の擦れる音と、男たちの鋭い息遣いが響いた。
「おおおおおぉぉぉぉぉッッ!!! 大和の猟犬ども、生きて帰すなァ!!!」
闇の奥から、大和への憎悪を滾らせた温羅の兵たちの狂暴な人間の雄たけびが爆発した。
それは化け物の鳴き声ではない。この過酷な海の要塞を守り抜かんとする、血の通った略奪者たちの生々しい殺気。
彼らはすでに、この人工洞窟の暗闇に完全に目が慣れていた。
どこに突起があり、どこが死角になるのかを、我が手足のように把握しているのだ。
温羅の兵たちは、狭い通路での取り回しに特化した『短槍』や、小回りの利く『剥き出しの短刀』を逆手に握りしめた。
そして、大和の重盾のわずかな隙間――足元や脇腹を抉り取るように、闇の中から吸い付くような速度で肉薄してきた。
「健!!」
「応ッ!! ――防壁、固めよ!!」
ドンッ、ドババババババァンッ!!!
イヌと精鋭が瞬時に重盾を噛み合わせ、通路を完全に塞ぐ鉄の壁となる。
しかし、暗闇の死角から正確に突き出された敵の短槍が、大盾の継ぎ目を凄まじい精度で激しく叩いた。
「ぐっ……! 奴ら、こちらの目が見えていないのを分かってやがる……!」
取り回しの利かない大盾の裏で、イヌの部下の一人が押し込まれ、足元をすくわれそうになる。
そのパニックが、大和の盾の列を揺るがそうとした、まさにその瞬間だった。
「――落ち着きなさい、健。敵は、一の波に十六人。……そして」
イヌの背中にぴったりと身を隠していたトトが、焦音を一つも交えぬ冷徹な声を響かせた。
彼女の瞳は焦点を結んでいない。しかし、その耳は、暗闇を駆ける無数の足音を寸分の狂いもなく正確に捉え、その数を数え上げていた。
「来るわ。――盾の、右から三枚目。足元から、短槍が這ってくる」
予知ではない。
岩肌を擦る衣の音と、泥を蹴る足音のわずかな高低差から、トトは敵の次なる攻撃の軌道を完全に「予測」し、看破したのだ。
「おうッッ!!」
イヌがトトの言葉を100%信頼し、右から三枚目の盾を強引に泥の中へと深く突き刺す。
ギィィィィンッッ!!!
まさにその瞬間、闇の死角から大和の兵の足元を狙って突き出された温羅の短槍が、先回りして待ち構えていた重盾の底に激しく弾き返された。
「なっ、何ィ!? 見えていないはずだぞ!?」
闇の奥から、温羅の兵の驚愕の悲鳴が上がる。
「へへっ、姉上の視を舐めるなよ! ――そこだァッ!!」
敵の体勢が崩れたそのわずかな隙間(死角)から、モモが待機させていた『布都御魂の写し』を斜め下から一閃させた。松明の橙色の光をなぞるように、白銀の刃が暗闇の中で鋭い残光を描く。
――ザシュッッ!!!
モモの白銀の刃が暗闇を切り裂き、最前線の温羅の兵数名が泥の中に崩れ落ちた。
前方の第一波を完璧に押し返したその瞬間、大盾の裏でイヌが小さく息を吐いた。
「……ふう。さすがは姫様ですな。我々にない感覚には、いつも助けられておりまする」
「油断してはいけませんよ。まだ敵陣です」
トトの冷徹な声音が、たった一度の遭遇戦を終えたばかりの、通路のわずかな安堵をピシャリと引き締める。
その神聖な言葉の裏から、地底のさらに奥深く――今度は一行の『真後ろ』から、不気味な地鳴りのような足音が響いてきた。
「おっと! よそ見をするなよ、健ッ!」
モモの野生の勘をはらんだ怒号が、洞窟内に響き渡る。
「「「「「逃がさねえぞ大和の雑魚ども!! 袋のネズミだ、一匹残らず叩き潰せぇッッ!!!!!」」」」」
突如として、一番後ろを歩んでいた三の隊の闇の奥から、男たちの凄まじい罵声が爆発した。
挟み撃ちだ。
前方の部隊がモモたちの足を止めている隙に、別の温羅の兵たちが洞窟の隠し通路から回り込み、大和の精鋭たちの『背後(退路)』へと一斉に肉薄してきたのだ。
不意を突かれた三の隊の兵たちに、一瞬の動揺が走る。
だが、その漆黒の死角で、誰よりも早く長弓を大空へと引き絞り、不敵に待ち構えていた者がいた。
「言ったろう、鬼どもは汚い手を好むと」
キジの凛とした、しかし冷徹な声が暗闇を切り裂く。
――ヒュォッ!!!
一歩先も見えない漆黒の迷宮の裏。
キジは松明の光すら向けることなく、ただ敵の衣の擦れる音と、泥を蹴る足音の気配のド芯に向けて、一射を放った。
――ドスッ!!!
闇の奥から、奇襲を仕掛けようとした温羅の先頭の兵が、悲鳴を上げる暇すらなく眉間を撃ち抜かれて転がり落ちる。
寸分の視線のブレもない、闇夜の精密射撃であった。
「お前ら、大和の将軍に背後を預けられたのだ。一歩も引くな! ――全員、迎え撃てぃっ!!」
キジの鋭い大号令の元、殿に配置されていたキジが率いる遊撃の徒たちが、地元の意地を懸けて短刀を抜き放ち、暗闇の悪鬼どもへと逆襲の牙を剥いた。
前方での組織的な『盾の壁』と、後方での変幻自在な『遊撃の刃』。
女木島を巡る地獄の迷宮戦は、今まさに前後双方向からの、息詰まる全面白兵戦へと突入した。
大洞窟、そこは鬼たちにとって地の利を活かした戦場でもあった。
だが、トトやキジにより、奇襲攻撃を避けることができた。
そして――。
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