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『正史審問 青銅仮面―簒奪された史実(青銅器文明/三星堆遺跡)と失われた技術』  作者: 東曌


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第六話 『史記』に記された王朝、記されなかった王国 大改訂版

第六話 『史記』に記された王朝、記されなかった王国


【歴史書に名前がないことは、存在しなかった証拠なのか】


ここで、歴史の探偵に、一冊の本を渡そう。


題名は、『史記』。


中国の歴史を語るとき、避けて通ることのできない古典である。


著者は司馬遷(しばせん)。


今からおよそ二千年前、前漢の時代に生きた人物だ。


『史記』は、伝説上の古代の帝王から、司馬遷の生きた時代に近い漢の時代まで、長い歴史を一つの書物にまとめようとした大著である。


では、司馬遷は、どのようにして歴史を書いたのだろう。


昔から伝わる文献を読み、各地に伝わる記録を調べ、さまざまな人物や出来事について情報を集めた。


もちろん、二千年前の人間に、現代の考古学者が使う発掘調査や年代測定の技術はない。


司馬遷が知ることのできた過去には、当時すでに失われていた記録もあっただろう。


伝承が変化していたこともあっただろう。


何より、文字で記録されなかった出来事を、すべて知ることはできなかったはずだ。


それでも司馬遷は、手に入る資料をもとに、歴史を記そうとした。


その仕事は、後世の中国史に大きな影響を与えた。


さて、ここで問題だ。


『史記』には、古代の蜀についての記述がある。


では、三星堆の巨大な青銅仮面については、何と書かれているだろう。


青銅の神樹については。

黄金の杖については。

あの大きな目を持つ仮面を作った人々については。


答えは――。


現在知られている『史記』には、三星堆の遺物を具体的に説明する記述は見つかっていない。


では、三星堆の王国は、存在しなかったのだろうか。


もちろん、そんな結論にはならない。


なぜなら、司馬遷が本を書いた時代と、三星堆の青銅器が作られた時代には、長い時間の隔たりがあるからだ。


そして、何より、私たちはすでに、地面の中から青銅器や玉器を発見している。


書物には書かれていない。


しかし、物は残っている。


この食い違いこそ、今回の謎なのだ。


### 一 『史記』は、どんな本なのか


まず、『史記』について、少しだけ整理しておこう。


『史記』は、単に昔の王の名前を順番に並べた年表ではない。


王朝の興亡を記し、人物の生涯を描き、政治や戦争、社会の変化を伝えようとした歴史書だ。


その構成には、皇帝や王の事績をまとめた「本紀」、制度や文化などを扱う「書」、諸侯の歴史を記した「世家」、個人の生涯などを描く「列伝」などがある。


つまり司馬遷は、歴史を一つの角度だけから眺めようとはしなかった。


王の行動だけでなく、王を支えた人々や、時代を動かした人物にも目を向けたのである。


ただし、ここで大事な注意点がある。


『史記』は、古代中国で起きたすべての出来事を、漏れなく記録した本ではない。


司馬遷が利用できた資料には限りがあった。


伝承や資料が残っていても、それをどのように理解し、どのように書くかという判断があった。


記録に残ったものと、残らなかったものがある。


これは、『史記』の価値を否定する話ではない。


むしろ、歴史書を読むときの基本的な姿勢なのだ。


歴史書は、過去そのものではない。


過去について、ある時代の人間が、手に入る情報を使って記したものなのである。


だから、書かれていることを読むだけではなく、何が書かれていないのかにも注意を払う必要がある。


ただし、記述がないというだけで、意図的に隠されたと決めつけてはいけない。


記録が失われたのかもしれない。

著者が知らなかったのかもしれない。

著者の関心や、書物の構成から外れていたのかもしれない。


「書かれていない」という事実と、「誰かが消した」という説明の間には、まだ調べるべき距離がある。


この違いを忘れないことが、歴史の謎を解く第一歩になる。


### 二 『史記』は、蜀を知らなかったのか


では、古代の蜀はどうだろう。


『史記』は、蜀についてまったく触れていないわけではない。


たとえば、秦が蜀を征服した出来事は、秦の歴史を考えるうえで重要な場面として記されている。


戦国時代、秦は西方から勢力を広げ、四川盆地の蜀を支配下に置いた。


蜀の征服は、秦の領土拡大や、後の統一国家の形成を考えるうえで重要な出来事だった。


つまり、司馬遷の歴史世界に、蜀という地域が存在しなかったわけではない。


では、なぜ三星堆の青銅仮面や神樹について、具体的な説明がないのだろう。


まず考えなければならないのは、時代の違いだ。


三星堆の青銅器文化が栄えたのは、およそ三千六百年から三千百年前にかけての時代を中心とする。


一方、『史記』が成立したのは、それよりはるか後の前漢時代である。


司馬遷が記録した時代には、三星堆の青銅器文化が栄えた時期から、長い年月が経過していた。


その間に、社会は変わり、政治勢力も変わり、古い記録が失われた可能性もある。


司馬遷が知っていた蜀の歴史と、考古学が明らかにしつつある三星堆の歴史が、完全に重なっているとは限らない。


ここで、もう一つの問題が生まれる。


私たちが「古代の蜀」と呼ぶとき、三星堆の時代の社会と、後世の文献に記された蜀を、同じ政治組織として考えてよいのだろうか。


同じ地域で、長い時間にわたって人々が暮らしていたとしても、政治体制や支配者、宗教、文化がずっと同じだったとは限らない。


ある時代の王国が衰えた後、別の政治勢力が台頭したかもしれない。


古い伝承が、後世の人々によって語り継がれ、別の形に変わっていった可能性もある。


つまり、「三星堆の人々」と「後世の蜀の伝承」を結びつけるには、慎重な検討が必要なのだ。


地理的に同じ地域にある。


それだけでは、同じ王朝だったと証明することはできない。


一方で、後世の文献に三星堆の遺物が説明されていないからといって、両者の間に何のつながりもなかったと断定することもできない。


ここでも、答えは簡単ではない。


だが、だからこそ面白い。


書物に残った蜀と、土の中から現れた三星堆。


この二つを、どこまで結びつけられるのか。


それが、私たちの探している謎なのである。


### 三 文字がないのか。それとも、まだ読めないのか


ここで、さらに大きな疑問に進もう。


三星堆の人々は、文字を使っていたのだろうか。


青銅器を作る。

玉を加工する。

巨大な像を鋳造する。

大規模な祭祀を行っていた可能性がある。


そうした社会であれば、文字による記録があっても不思議ではない。


しかし、ここで「高度な技術があるのだから、必ず文字もあったはずだ」と考えてはいけない。


文字を持つかどうかは、社会の技術水準だけで決まるわけではない。


口頭で知識を伝える社会もある。

記憶や儀式によって歴史を伝える社会もある。

文字が使われていても、記録が残りにくい材料に書かれていた可能性もある。


もちろん、三星堆で、当時の人々が使った文字による歴史記録が確認されているわけではない。


しかし、それは「文字が絶対になかった」と証明されたこととは違う。


現在のところ、三星堆の社会を説明してくれる、解読済みの同時代の歴史記録は知られていない。


この言い方なら、分かっていることと、分かっていないことを区別できる。


では、三星堆の人々は、自分たちの過去をどうやって伝えていたのだろう。


王の名前を、口頭で語り継いだのかもしれない。


神々の物語を、祭祀の中で伝えたのかもしれない。


特定の形を持つ青銅器や玉器に、私たちには読み取れない象徴的な意味を込めていた可能性もある。


ただし、これらは可能性の例であって、三星堆で実際にそうした方法が使われていたと証明されたわけではない。


大切なのは、文字で読める記録がないからといって、その社会に歴史も思想もなかったと考えないことだ。


文字に残らなかった歴史もある。


あるいは、文字が残っていても、私たちがまだそれを理解できていない歴史もある。


歴史の記録は、石や青銅のように、何千年も同じ状態で残るとは限らない。


木や竹、布、皮などに書かれたものは、環境によって失われることがある。


そのため、現在、発見されている資料だけで、過去の人々が何を知り、何を考え、何を記録していたのかを、すべて判断することはできないのだ。


### 四 では、後世の人々は、蜀の王たちをどう記憶したのか


ここで、一冊の別の書物に目を向けてみよう。


『華陽国志(かようこくし)』である。


これは、東晋の時代に常璩(じょうきょ)が編纂した、巴蜀地域などの歴史や地理、人物、伝承を記した書物だ。


三星堆の青銅器が作られた時代の同時代記録ではない。


成立したのは、三星堆の青銅器文化が栄えた時代から、はるか後のことだ。


それでも、後世の人々が古代の蜀について、どのような伝承を語り継いでいたのかを考えるうえで、重要な手がかりになる。


『華陽国志』には、蜀の古い王たちについて、次のような記述がある。


「有蜀侯蚕叢,其目縱,始稱王。……次王曰柏灌。次王曰魚凫。」


大意は、こうだ。


蜀の王侯に蚕叢という人物がいた。その目は「縱」と表現され、初めて王を称した。蚕叢の後には柏灌という王が続き、その次に魚凫という王がいた――。


ここで、第一話を思い出してほしい。


三星堆から見つかった、あの大きな目を持つ青銅仮面。


そして、文献に記された「蚕叢、その目は縱なり」という伝承。


二つを並べると、思わず息をのむ。


まるで、青銅仮面の正体を説明する記述が、後世の書物の中に残されていたかのように見えるからだ。


しかし、ここで、探偵は立ち止まらなければならない。


「縱目」という表現が、三星堆の青銅仮面を指していると証明されたわけではない。


蚕叢が三星堆の王だったと確認されたわけでもない。


『華陽国志』が成立したのは、三星堆の青銅器文化が栄えた時代から、長い年月が経過した後だ。


この伝承が、どのような経路で伝えられたのか。


どこまで古い記憶を保存しているのか。


どの部分が後世に形作られたのか。


それらを確かめる必要がある。


それでも、この記述は重要だ。


なぜなら、後世の人々が、蜀の古い王たちについて、目に特徴のある人物を含む伝承を語り継いでいたことが分かるからだ。


考古学の資料と、文献の伝承。


二つの資料が、ここで思いがけない接点を見せている。


ただし、その接点が、直接のつながりを証明する決定打なのかどうかは、まだ分からない。


この一歩先に、私たちの次の謎が待っている。


### 五 歴史書に名前がない人々


ここで、もう一度、『史記』に戻ろう。


『史記』は、非常に重要な歴史書だ。


だが、歴史書に名前が載った人々だけが、過去を生きていたわけではない。


王朝の名前が記録される。


王の名前が記録される。


戦争や政治の出来事が記録される。


一方で、名前の残らなかった人々もいた。


青銅器を鋳造した職人。

鉱石を運んだ人々。

玉を磨いた人々。

畑を耕し、食料を作った人々。

川を渡り、山道を通り、品物を運んだ人々。


彼らの仕事がなければ、巨大な青銅器も、都市も、王の権威も成り立たなかっただろう。


しかし、その一人ひとりの名前が、歴史書に記録されているわけではない。


これは、三星堆だけの問題ではない。


古代の歴史書は、王や政治、戦争などを中心に記すことが多い。


そのため、書物に残された歴史と、考古学が示す人々の暮らしの間には、見え方の違いが生じることがある。


文字記録が少ない地域であっても、遺跡からは、住居や道具、食料生産、工芸技術など、さまざまな手がかりが見つかる。


それらは、書物には登場しない人々が、確かに暮らしていたことを示している。


三星堆の青銅器も、同じだ。


青銅仮面は、王の名前を教えてくれない。


神樹も、誰が命じて作らせたのかを教えてくれない。


しかし、それらを作る技術が存在したことは示している。


巨大な青銅器を作るには、材料を集め、鋳型を用意し、作業を分担し、完成品を運び、管理する仕組みが必要だった。


つまり、青銅器そのものが、そこにいた人々の技術や組織について、語っているのである。


文字で語る歴史がある。


物で語る歴史もある。


どちらか一方だけを見ていては、過去の全体像には近づけない。


### 六 書かれていないことは、誰かが消したことなのか


ここまで読んで、こう思った人もいるかもしれない。


三星堆について、詳しい記述がない。


王の名前も、青銅仮面の意味も、はっきりとは分からない。


では、誰かが記録を消したのだろうか。


その可能性を、最初から否定する必要はない。


歴史の中では、権力者が記録を破棄したり、過去の人物の名前を削ったり、前の時代の記憶を改めようとしたりすることが実際にあった。


第三話で取り上げた古代エジプトの例も、そのことを考える手がかりになった。


しかし、ここで、もう一度、慎重になろう。


三星堆について、現在知られている同時代の記録が見つかっていないことと、その記録が意図的に破壊されたことは、同じではない。


記録がもともと作られなかったのかもしれない。


書かれていた材料が失われたのかもしれない。


記録が存在したとしても、まだ発見されていないのかもしれない。


あるいは、私たちが文字として認識できていない資料がある可能性も、今後の研究によって検討されるだろう。


現時点では、三星堆の記録が意図的に消されたと断定できる証拠はない。


だから、「誰かが隠したのだ」と結論を急ぐことはできない。


けれども、別の意味で、歴史には不思議なことがある。


ある社会が栄えた。


人々は物を作り、儀式を行い、暮らしを営んだ。


その後、長い年月が経過した。


建物は崩れ、道具は土に埋まり、記録があれば失われたかもしれない。


後世の人々は、わずかな伝承だけを頼りに、その社会を語り継いだ。


やがて、現代の発掘調査によって、古い青銅器が地中から現れた。


そのとき、後世の書物だけを読んでいた私たちは、過去の姿を改めて考え直すことになった。


歴史が隠されていたのか。


それとも、私たちがまだ知らなかっただけなのか。


この二つを区別することは、簡単ではない。


だからこそ、証拠が必要なのだ。


### 七 書物と土の中、二つの手がかり


ここで、今回の手がかりを整理してみよう。


一つ目。


『史記』は、古代の蜀について記している。


したがって、『史記』に蜀の記述がまったくないわけではない。


二つ目。


『史記』には、三星堆から出土した青銅仮面や神樹などを、具体的に説明する記述は確認されていない。


三つ目。


三星堆では、青銅器や玉器などの遺物が発掘されている。


つまり、書物に詳しい説明がないことと、その文化が存在したことは、両立する。


四つ目。


『華陽国志』には、蚕叢、柏灌、魚凫という蜀の古い王たちの伝承が残されている。


そのうち蚕叢については、「其目縱」という特徴が記されている。


これは三星堆の青銅仮面を連想させるが、両者の直接のつながりが証明されたわけではない。


この四つを並べると、見えてくることがある。


三星堆の歴史を考えるには、文献だけでは足りない。


しかし、文献が役に立たないわけでもない。


考古学だけで、すべてが分かるわけではない。


しかし、発掘された遺物が、後世の伝承を検討するための重要な手がかりになることもある。


書物と土の中。


この二つを照らし合わせることで、片方だけでは見えなかった過去の姿が浮かび上がるかもしれない。


ただし、二つが似ているからといって、すぐに同じものだと決めてはいけない。


一致する部分だけでなく、食い違う部分も調べなければならない。


それが、歴史を探るということなのだ。


### 八 歴史の探偵に、最後の問題


さて、ここで、読者に問題を出したい。


三星堆からは、大きな目を持つ青銅仮面が見つかった。


後世の文献には、目に特徴があったという蜀の王、蚕叢の伝承が残されている。


この二つを見て、何が言えるだろう。


答えは、三段階に分けて考えられる。


第一段階。


三星堆には、独特な青銅仮面が存在した。


これは、発掘された遺物によって確認できる事実だ。


第二段階。


後世の文献には、蚕叢の目について特徴的な表現が残されている。


これも、文献に記された内容として確認できる。


第三段階。


だから、蚕叢は三星堆の王であり、青銅仮面は蚕叢の姿を表している。


ここまで来ると、話が変わる。


それは魅力的な仮説ではある。


しかし、二つの手がかりだけで、そこまで確定することはできない。


間に、証明すべきことが残っているからだ。


蚕叢の伝承がどこまで古いのか。

「縱目」が具体的に何を意味するのか。

青銅仮面が何を表しているのか。

三星堆の社会と、後世の蜀の伝承がどのようにつながっているのか。


これらを調べる必要がある。


もし、将来、新しい文字資料が発見されたらどうなるだろう。


もし、青銅仮面の意味を説明する資料が見つかったらどうなるだろう。


今は仮説にすぎないことが、より確かな説明へと変わるかもしれない。


反対に、新しい発見によって、これまで有力だと思われていた説が見直されるかもしれない。


それもまた、歴史研究の面白さである。


歴史の探偵は、最初に思いついた答えを守るために証拠を集めるのではない。


証拠によって、自分の考えを変えることができなければならない。


そして、まだ答えが出ていないときには、その状態を正直に伝えなければならない。


それは、謎を解くことを諦めるのとは違う。


本当の答えに近づくために、必要な態度なのだ。


### 九 名前が残らなくても、歴史は残る


三星堆の人々は、自分たちの王国を何と呼んでいたのだろう。


王たちは、どのような名前を持っていたのだろう。


青銅仮面は、誰を表していたのだろう。


彼らは、自分たちの歴史を、どのように後世へ伝えようとしていたのだろう。


今の私たちは、そのすべてに答えることができない。


しかし、分からないことがあるからといって、彼らの歴史がなかったわけではない。


青銅器を作った人々がいた。


玉を加工した人々がいた。


巨大な品々を運び、管理した人々がいた。


日々の暮らしを営み、子どもを育て、知識や技術を次の世代へ伝えた人々がいた。


彼らがどんな名前で呼ばれていたのか、私たちは知らない。


けれども、彼らが残したものは、地中に眠り続けていた。


そして、発掘によって再び姿を現した。


歴史書に記された名前だけが、過去のすべてではない。


名前の残らなかった人々も、確かに歴史を作っていた。


三星堆の青銅仮面は、そのことを、黙ったまま私たちに教えている。


書物に名前がないからといって、存在しなかったとは限らない。


記録がないからといって、歴史がなかったとは限らない。


そして、後世の伝承が残っているからといって、そのすべてが当時の事実をそのまま伝えているとも限らない。


私たちにできるのは、書物を読み、土の中から現れたものを調べ、二つを照らし合わせながら、少しずつ過去に近づいていくことだ。


その作業には、想像力が必要だ。


しかし、想像力だけでは足りない。


証拠が必要だ。


証拠を読み解くための知識も必要だ。


そして、自分の想像が間違っているかもしれないと認める勇気も必要なのだ。


三星堆の青銅仮面は、まだ何も語っていない。


けれども、私たちは、そこから多くの問いを引き出すことができる。


次の話では、もう一度、蚕叢、柏灌、魚凫という三人の王たちに目を向けてみよう。


後世の書物に残された彼らの名前は、どこまで古代の記憶を伝えているのだろう。


伝説の中に、歴史のかけらは残っているのだろうか。


それとも、私たちは、後世の人々が作り上げた物語を読んでいるのだろうか。


**第七話 蚕叢、柏灌、魚凫。**


青銅の眼が見つめていた世界と、書物の中に残された王たち。


その二つを結ぶ糸は、まだ細い。


けれども、切れていると決まったわけではない。


【本文中の、中国王朝の流れ】


◾️時代・王朝


【三星堆との関係を考えるポイント】


◾️五帝の時代

 『史記』が伝える古代の伝説的な帝王たち。

 現代の歴史学で実在や年代をそのまま確定できるわけではない



◾️夏

 『史記』では殷に先立つ王朝。

 二里頭遺跡との関連が論じられるが、二里頭が夏の都だったと確定したわけではない



◾️殷(商)

 甲骨文や青銅器が残り、王権や祭祀の具体像を研究できる。

 三星堆とおおむね同時代



◾️周

 殷を倒した王朝。

 王朝交代を説明する「天命」の思想が重要になる



◾️秦・漢

 中国統一と帝国の形成。

 司馬遷が、生きた漢代に『史記』が編纂された



※『史記』の記述を、そのまま現代の考古学的事実と同一視しないことが重要です。


ここから三星堆の謎が、はじまります。


なぜ、殷には甲骨文が残り、三星堆には独自の青銅器文化が残ったのに、その王国を直接説明する歴史記録が見つかっていないのか。


ただし、「三星堆は中国の正史から意図的に抹消された」とは断定できません。『史記』に三星堆の祭祀坑や青銅仮面の記述がないことと、誰かが意図的に記録を消したことは別問題だからです。

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