第七話 蚕叢、柏灌、魚凫 ― 三人の王は、青銅の眼を持っていたのか
第七話 蚕叢、柏灌、魚凫――三人の王は、青銅の眼を持っていたのか
さて、ここで、読者の皆さんに問題です。
中国の古い記録に、こんな王が登場します。
その名は、『蚕叢』
蜀の王だったと伝えられる人物です。
そして、この王には、少々変わった特徴がありました。
目が、普通ではなかったというのです。
三星堆から出土した、あの巨大な青銅仮面。
顔から大きく突き出した眼球。
細長く伸びた眼。
もし、あの仮面が、古代の王や神を表現したものだったとしたら。
蚕叢という王と、何か関係があるのでしょうか。
ここで、スーパーヒトシ君を賭けたくなります。
しかし、ちょっと待ってください。
歴史の謎は、似ているものを見つけた瞬間に解けるわけではありません。
むしろ、似ているものを見つけたときこそ、慎重にならなければならないのです。
## 一 目が縱だった王
手がかりは、『華陽国志』という書物にあります。
これは、東晋時代の常璩が編纂した、四川地方を中心とする歴史・地理の記録です。
三星堆の青銅器が作られた時代と同時代の記録ではありません。
それでも、古代の蜀について伝える重要な史料の一つです。
そこには、次のような記述があります。
「有蜀侯蚕叢,其目縱,始稱王。」
おおよその意味は、こうです。
蜀に蚕叢という君主がいた。その目は「縱」であり、彼が初めて王を称した。
ここで注目したいのは、「縱目」という言葉です。
「縱」は、縦、あるいは縦方向を意味します。
つまり蚕叢は、縦に特徴のある目を持つ人物として伝えられていたのです。
では、三星堆の青銅仮面を思い出してみましょう。
目が大きく突き出した仮面。
人間の顔を写実的に再現しただけとは思えない、独特の造形。
この二つを並べると、確かに気になります。
**蚕叢の「縱目」と、三星堆の青銅仮面は、同じ記憶から生まれたものなのでしょうか。**
ここが、今回の謎の中心です。
ただし、重要な注意点があります。
『華陽国志』の「縱目」が、三星堆の仮面のような眼を具体的に指しているのかどうかは、確定していません。
また、蚕叢が三星堆の王だったと証明する同時代の記録も、現在のところ見つかっていません。
似ている。
だから関係があるかもしれない。
しかし、似ていることだけでは、同一人物だとは言えない。
この一線を越えないことが、謎解きの第一条件です。
## 二 蚕叢の次に、誰が王になったのか
『華陽国志』の記述には、さらに続きがあります。
蚕叢の後に、柏灌。
その次に、魚凫。
つまり、蜀の古い王たちの系譜が伝えられているのです。
蚕叢。
柏灌。
魚凫。
三人の名が、時間の向こうから現れます。
ここで、もう一つの疑問が生まれます。
この三人は、実際に歴史上の王だったのでしょうか。
それとも、後世の人々が、古い時代の記憶や伝承を整理するなかで生まれた王たちなのでしょうか。
あるいは、実在した複数の人物の記憶が、伝説の中で一人ずつの王としてまとめられた可能性もあるのでしょうか。
現時点では、どれか一つに決めるだけの証拠はありません。
三星堆の遺跡からは、巨大な青銅仮面や立人像、青銅神樹などが出土しています。
それほど独特な文化を持った社会に、支配者や宗教的権威を担う人物がいたとしても、不思議ではありません。
しかし、出土品に「私は蚕叢である」と書かれていたわけではないのです。
青銅仮面の人物名も、立人像の人物名も、まだ分かっていません。
ここに、三星堆の難しさがあります。
**物は残った。王の名前は、確かめられない。**
後世の文献には王の名前が残った。
しかし、その王たちと出土品を直接結びつける証拠がない。
考古学と文献史学の間に、細い橋は架かっているように見えます。
けれども、その橋を渡り切るには、まだ手がかりが足りないのです。
## 三 失われた『蜀王本紀』
ここで、もう一つの史料が登場します。
『蜀王本紀』です。
古代の蜀の王たちについて伝える書物として知られていますが、現在は原本が残っていません。
後世の書物に引用された断片などを通して、その内容の一部が伝えられています。
つまり、私たちが読んでいるのは、古い書物そのものではなく、後の時代に残された引用や伝承を通して届いた情報なのです。
ここでも、史料を読むときの注意が必要になります。
書かれているからといって、その内容がすべて同時代の事実とは限りません。
何百年も後の人々が、さらに古い時代について書いた可能性があるからです。
伝説には、事実が含まれていることもあります。
しかし、伝説には、後世の解釈や想像も混ざります。
どこまでが古い記憶で、どこからが後世の物語なのか。
それを見分けるのは、簡単ではありません。
まして三星堆には、現在のところ、蚕叢たちの名を直接確認できる解読済みの歴史記録がありません。
だからこそ、青銅器の形、出土した場所、埋められ方、周辺地域との文化的なつながりなど、異なる種類の証拠を突き合わせる必要があるのです。
一つの伝説だけで、三星堆の歴史を決めることはできません。
けれども、伝説を無視してしまえば、古代の人々が自分たちの過去をどう記憶していたのかという、大切な手がかりを失うかもしれません。
伝説は、答えそのものではない。
しかし、調査を始めるための手がかりにはなるのです。
## 四 青銅仮面は、誰の顔だったのか
ここまでの証拠を、いったん整理してみましょう。
第一に、三星堆からは、目が大きく突き出した独特の青銅仮面が出土しています。
第二に、『華陽国志』には、目が「縱」だったとされる蜀の王、蚕叢が登場します。
第三に、蚕叢、柏灌、魚凫という王たちの伝承は残っていますが、彼らを三星堆の出土品と直接結びつける確実な証拠はありません。
ここから考えられる可能性は、いくつかあります。
一つ目。
蚕叢の伝説には、三星堆文化、あるいはそれに連なる古い地域社会の記憶が何らかの形で残っている。
二つ目。
「縱目」の伝承と青銅仮面は、直接の関係がなく、それぞれ別の背景から生まれた。
三つ目。
後世の人々が、古い遺物や地域に残る伝承をもとに、蚕叢の姿を語り継いだ可能性がある。
ただし、これらは検討のための仮説です。
どれか一つが証明されたわけではありません。
では、青銅仮面は、いったい誰の顔だったのでしょうか。
王だったのか。
神だったのか。
祖先を表したものだったのか。
それとも、私たちが現在の「人間の顔」という考え方だけで理解しようとしているために、見当違いの問いを立てているのでしょうか。
仮面が表していた存在を、三星堆の人々がどのように理解していたのか。
それを直接語る言葉は、まだ見つかっていません。
青銅の眼は、今日も沈黙しています。
## 五 伝説は、歴史の化石なのか
ここで、少し視点を変えてみましょう。
人々は、文字に残さなければ、過去を忘れてしまうのでしょうか。
そうとは限りません。
物語、歌、儀礼、地名、家系の伝承。
人間は、さまざまな方法で過去を伝えてきました。
ただし、口から口へ伝わる物語は、何世代も経つうちに姿を変えることがあります。
ある人物の功績が別の人物に移されたり、複数の人物が一人の英雄にまとめられたり、後世の価値観に合わせて物語が作り直されたりすることもあります。
だから、伝説をそのまま歴史的事実として扱うことはできません。
同時に、伝説だからといって、すべてを作り話として捨てる必要もありません。
大切なのは、伝説を証拠の一つとして扱い、考古学的な発見や他の史料と照らし合わせることです。
三星堆の青銅仮面と蚕叢の「縱目」。
この二つの間には、まだ証明されていない空白があります。
けれども、その空白があるからこそ、私たちは問い続けることができます。
もし、蚕叢の伝説が三星堆の記憶をわずかに伝えているのなら、何が伝わり、何が失われたのでしょうか。
もし、両者が無関係だったのなら、なぜ私たちはこれほど強く結びつきを感じるのでしょうか。
そして、蚕叢、柏灌、魚凫という名前の背後には、どんな社会の記憶が隠れているのでしょうか。
次に調べたいのは、三星堆の人々が暮らした土地そのものです。
四川盆地。
山々に囲まれ、川が流れ、独自の歴史を育んできた地域。
後の時代の人々は、この土地をどのように見ていたのでしょうか。
外から来た人々にとって、そこはどんな世界だったのでしょうか。
伝説の王たちの姿を追いかけてきた私たちは、次に、その王たちが生きたかもしれない土地へと目を向けます。
**第八話。瘴気の向こうの世界。**
青銅の眼が見つめていた世界は、どんな場所だったのでしょうか。




