第四話 八百九十キロの隔たり 大改訂版
# 第四話 八百九十キロの隔たり
【山々の向こうに、もう一つの青銅の世界があった】
地図を一枚、広げてほしい。
中国の大地を、上から眺める。
黄河流域。
長江流域。
そして、その西に広がる四川盆地。
三星堆が見つかったのは、この四川盆地の北西部だ。
ここから、古代中国の初期国家を考えるうえで重要な遺跡、二里頭へ向かってみよう。
二里頭遺跡は、現在の河南省にある。
三星堆と二里頭を地図上で結ぶと、直線距離はおよそ八百九十キロになる。
八百九十キロ。
現代なら、新幹線や飛行機を使って移動できる距離だ。
しかし、三千年以上前の人々にとっては、どうだっただろう。
もちろん、当時の人々が現代の地図を持っていたわけではない。私たちが引いた直線を、そのまま古代の人々が旅したわけでもない。
実際に移動するには、山を越え、川を渡り、谷や盆地を抜けなければならない。歩きやすい道を選び、水や食料を確保し、天候にも左右されただろう。
直線距離は、二つの場所がどれほど離れているかを示す一つの目安にすぎない。
それでも、この距離を眺めると、一つの疑問が浮かんでくる。
**これほど離れた地域で、なぜ、同じ青銅器時代に、それぞれ独自の文化が栄えていたのだろう。**
そして、両者は本当に、互いに無関係だったのだろうか。
### 一 地図の上の直線は、古代の道ではない
三星堆のある四川盆地は、周囲を山地に囲まれた地域だ。
北へ向かえば、秦嶺山脈などの険しい地形が広がる。東や南にも山地や河川があり、どこを通るかによって、移動の難しさは大きく変わる。
もちろん、山があるから人が通れなかった、というわけではない。
山道を知る人々はいた。
川を利用する人々もいた。
谷から谷へ、盆地から盆地へと移動する道も、長い時間をかけて使われてきた。
ただし、道があったことと、遠く離れた二つの王国が日常的に交流していたことは、別の問題である。
人が移動できたからといって、大勢の軍隊が簡単に通れたとは限らない。
一つの品物が遠方で見つかったからといって、その品物を作った人が直接そこまで運んだとも限らない。
交易品は、複数の集団を経由して移動したかもしれない。技術は、人の移動だけでなく、模倣や学習によって広がった可能性もある。
古代の交流を考えるときには、こうした違いを区別する必要がある。
それでは、三星堆と二里頭の間には、何があったのだろう。
二里頭遺跡は、青銅器や宮殿的な建築、計画的な都市空間などから、初期国家の形成を考えるうえで重要な遺跡とされている。
一方、三星堆からは、巨大な青銅仮面、人物像、黄金の杖、青銅の神樹など、きわめて特徴的な遺物が見つかっている。
どちらにも、専門的な技術と大規模な生産を支える社会があったことをうかがわせる手がかりがある。
しかし、その姿は同じではない。
青銅を使っていたからといって、同じ政治体制だったとは限らない。
大きな建造物を持っていたからといって、同じ王権の形をしていたとも限らない。
同じ時代に、違う社会が存在する。
それ自体は、不思議なことではない。
不思議なのは、その違いがどのように生まれ、互いにどのような関係を持っていたのか、まだ十分に分かっていないことなのだ。
### 二 「夏王朝」の都だったのか
ここで、二里頭について、もう一つの謎を見ておこう。
二里頭遺跡は、中国最古級の王朝とされる「夏」と結びつけて語られることがある。
夏は、中国の古い伝承に登場する王朝だ。
後世の歴史書では、禹という人物が治水を成し遂げ、夏王朝を開いたと伝えられている。
しかし、ここには難しい問題がある。
伝承に登場する夏王朝と、考古学で発掘された二里頭遺跡を、確実に同一のものだと証明する決定的な文字資料は、今のところ見つかっていない。
二里頭文化が夏にあたる可能性は、研究上の重要な仮説として論じられている。
だが、「二里頭が夏王朝の都だった」と、確定した事実のように言い切ることはできない。
ここで、歴史の面白いところが見えてくる。
書物には王朝の名前が残っている。
地面を掘ると、宮殿跡や青銅器が現れる。
しかし、その二つを結びつけるには、さらに証拠が必要なのだ。
文字に書かれた名前と、発掘された遺跡。
両者が一致すれば、過去の姿をより具体的に描ける。
一致を確かめられなければ、仮説として残しておかなければならない。
では、三星堆はどうだろう。
こちらにも、巨大な青銅器や玉器がある。
大規模な社会が存在したことをうかがわせる証拠もある。
けれども、その王たちが何と呼ばれていたのか、どんな王朝名を使っていたのかを、確実に教えてくれる記録は見つかっていない。
二里頭では、遺跡と夏王朝の伝承を結びつける問題がある。
三星堆では、遺物と、後世の蜀の伝承を結びつける問題がある。
どちらも、考古学と文献史学が出会う場所にある謎なのだ。
### 三 青銅器は、どこから来たのか
さて、ここで、青銅器に注目してみよう。
青銅は、銅を主成分として、錫などを加えた合金である。
鉱石を採掘する。
金属を取り出す。
必要な割合で材料を調整する。
高温で溶かす。
型を用意し、鋳造する。
冷えた金属を取り出し、仕上げる。
巨大な青銅像や複雑な形の器物を作るには、材料だけでは足りない。
金属の性質を理解する知識。
鋳型を作る技術。
作業を分担する職人。
材料や燃料を集める仕組み。
そうしたものが必要になる。
三星堆の青銅器は、当時の人々が高度な鋳造技術を持っていたことを示している。
では、その技術は、どこから来たのだろう。
遠方から技術者がやって来たのか。
他地域との交流を通じて技術が伝わったのか。
それとも、地域の人々が、すでに持っていた知識をもとに独自の技術を発展させたのか。
一つだけを選び、すべてを説明することは難しい。
青銅器の形や製作技法を比較すると、地域ごとの特徴と、ほかの地域との共通点が見えてくる。
三星堆の青銅器にも、独特な造形がある一方、広い地域の青銅器文化と比較できる要素がある。
これは、三星堆が完全に孤立した世界だったと考える必要がないことを示している。
ただし、共通点があるからといって、すべての技術が外から持ち込まれたと断定することもできない。
人々は、外から学んだものを、自分たちの目的に合わせて作り変える。
同じ技術を知っていても、同じ神を信じるとは限らない。
同じ材料を使っても、同じ形の像を作るとは限らない。
三星堆の青銅仮面は、他地域の青銅器と単純に同じものとして扱えないほど、強い個性を持っている。
つまり、交流があったとしても、三星堆の文化が他地域の文化の単なるコピーだったとは言えないのだ。
ここで、もう一つ考えてみたい。
もし、ある地域の職人が、遠方から伝わった鋳造技術を学んだとする。
その職人は、学んだ技術で、故郷の神々を表す像を作ったかもしれない。
技術は伝わる。
しかし、何を作るのか、何を大切にするのかは、その土地の人々が決める。
三星堆の青銅器を考えるときにも、こうした視点が必要なのだろう。
### 四 山の向こうには、何もなかったのか
ここで、地図をもう一度見てほしい。
三星堆から二里頭へ。
その間には、山地や河川が広がっている。
だが、そこに何もなかったわけではない。
山地には山地の人々がいた。
谷には谷の暮らしがあった。
河川の流域には、独自の文化が育っていた。
古代の人々が移動したとすれば、その経路には、私たちがまだ十分に理解していない地域社会が存在していたはずだ。
遠く離れた二つの遺跡だけを見て、その間を一直線につないでしまうと、こうした人々の存在が見えなくなってしまう。
文化の交流は、二つの大国が直接向き合う形だけで起きるのではない。
小さな集団が品物を交換する。
職人が別の地域へ移る。
婚姻や移住によって技術が伝わる。
儀式や装飾の一部が、少しずつ別の土地へ広がる。
そうした交流が積み重なって、遠い地域同士の間に、ゆるやかなつながりが生まれることもある。
もちろん、三星堆と二里頭の間で、具体的にどの人々が、どの道を通り、何を運んだのかについては、まだ分からない部分が多い。
だからこそ、地図の空白を「何もなかった場所」と決めつけてはいけない。
遺跡が少ないことと、人がいなかったことは違う。
記録がないことと、交流がなかったことも違う。
そして、遠方の文化と似たものが見つかったからといって、必ず直接の交流があったとも限らない。
似た形が、それぞれの土地で独自に生まれた可能性も考えなければならない。
歴史の地図は、現代の国境線のように、はっきりと区切られた世界ではなかったのだろう。
人々の暮らしは、山や川に隔てられながらも、時にそれらを越えて広がっていった。
そのつながりを、どこまで具体的に描けるのか。
それは、遺跡と遺物を一つずつ調べていく、地道な作業にかかっている。
### 五 同じ大陸に、いくつもの歴史があった
ここまで来ると、最初の問いに戻ることができる。
なぜ、遠く離れた地域で、同じ青銅器時代に、それぞれ独自の文化が栄えていたのか。
答えの一つは、古代中国の大地が、決して一つの文化だけでできていたわけではなかった、ということだ。
黄河流域には、殷などの王朝があった。
二里頭では、初期国家の形成を考えるうえで重要な遺跡が見つかっている。
四川盆地では、三星堆の人々が独特な青銅器文化を育てていた。
それぞれの地域には、地形や資源、社会の仕組みに応じた歴史があった。
互いに交流した可能性はある。
しかし、交流があったことと、どこか一つの王朝がすべてを支配していたことは違う。
また、後世の歴史書に詳しく記された地域が、必ずしも当時もっとも重要だったとは限らない。
記録が残りやすかった地域もあれば、記録が残りにくかった地域もある。
だから、歴史を知るためには、書物だけでなく、土の中に残されたものにも目を向けなければならない。
三星堆の青銅仮面は、そのことを強く教えてくれる。
もし、一九二九年に農民が玉や石の品々を見つけていなかったら。
もし、一九八六年にレンガ工場の作業員たちが、土の中の遺物に気づかなかったら。
私たちは、三星堆について、今とは違う歴史を思い描いていたかもしれない。
歴史の見え方は、新しい発見によって変わる。
それは、過去そのものが変化するという意味ではない。
私たちが過去について知っていることが、変わるという意味だ。
だから、今の知識だけで、古代の世界のすべてを説明できると思ってはいけない。
八百九十キロ。
地図に引いた直線は、二つの遺跡の間にある距離を示している。
しかし、その線の途中には、山があり、川があり、数えきれないほどの人々の暮らしがあった。
そこには、まだ十分に解き明かされていない歴史がある。
そして、三星堆の青銅器が壊され、焼かれ、埋められた理由も、まだ解明されていない。
遠くの王朝との交流が、その出来事に関係していたのだろうか。
それとも、理由はもっと身近なところにあったのだろうか。
青銅器を埋めるという行為は、敗北の印だったのか。
それとも、神々への別れだったのか。
次の話では、三星堆の坑から見つかった、壊された青銅器に目を向けてみよう。
そこには、何が起きたのかを直接説明してくれる文字はない。
しかし、壊れたものには、壊れたものにしか残せない手がかりがある。
**第五話 壊された神々、土に埋められた答え。**
青銅の眼は、まだ沈黙している。
けれど、その沈黙の周りには、少しずつ手がかりが集まり始めている。




