第三話 エジプト古王朝 消された王名、残された青銅 大改訂版
# 第三話 消された王名、残された青銅
【歴史から消された王と、歴史に書かれなかった王国】
もし、あなたが未来の人間に、自分の存在を忘れられたくないと思ったら、何を残すだろう。
名前を石に刻む。
自分の姿を像にする。
大きな建物を造る。
自分が何を成し遂げたのか、記録に残す。
古代の王たちは、そうしてきた。
ところが、歴史には奇妙なことが起こる。
王が亡くなったあと、その名前が削られることがあるのだ。
石に刻まれた文字が壊される。
像の顔が傷つけられる。
壁に描かれた王の姿が、別の人物のものに変えられる。
なぜ、そんなことをするのだろう。
単なる破壊ではない。
もし王の名を意図的に消したのなら、それは、王が生きていたという事実だけでなく、その王が正統な支配者だったという記憶まで、書き換えようとする行為だったのかもしれない。
古代エジプトには、そうした痕跡が残っている。
一方、遠く離れた中国四川盆地の三星堆では、奇妙な青銅仮面や巨大な人物像が発見された。
しかし、その遺物を作った王が誰だったのか、どんな名前を持ち、何を成し遂げたのかを、直接に教えてくれる記録は、まだ見つかっていない。
片方は、名前が残っているのに消された。
もう片方は、名前と遺物を確実に結びつける記録がない。
この二つは、似ているようで、実は違う謎なのだ。
### 一 女王の名前は、なぜ削られたのか
古代エジプト第十八王朝。
この時代に、ハトシェプストという女性が王として君臨した。
彼女は、単に王の妻として宮廷にいた人物ではない。ファラオとして統治し、記念碑を建て、神殿に自らの名と姿を残した。
エジプトでは、王の名前や姿は、王権と深く結びついていた。
王の名を刻む。
王の姿を神殿に置く。
王が神々に捧げ物をする場面を描く。
それらは、王がこの世界を治める存在であることを示すものだった。
ところが、ハトシェプストの死後、その名や像の一部が破壊されたり、別の王のものに置き換えられたりした。
なぜだろう。
女性がファラオになったことへの反発だったのか。
王位継承の正統性をめぐる問題だったのか。
後継者が、自らの王統を強調するために過去を書き換えたのか。
研究者たちは、さまざまな事情を考えてきた。
ただし、すべてを単純に「女性王への憎しみ」と説明することはできない。破壊がいつ、どのような理由で行われたのかは、場所や対象によって異なる可能性がある。
それでも、ハトシェプストの名前や像が傷つけられた痕跡は、古代の王権を考えるうえで重要な手がかりになっている。
ここで想像してほしい。
あなたが、何十年もかけて自分の名前を刻んだ神殿を造ったとする。
王が亡くなり、時代が変わる。
そして、後の人々が、その名前を削り始める。
石は残る。
神殿も残る。
しかし、名前だけが消えていく。
それは、単なる落書き消しではない。
少なくとも、王の名を意図的に削った人々がいたのなら、そこには、過去の王をどう扱うかという政治的な判断があったはずだ。
石に残った傷は、何千年も後の私たちに、権力と記憶をめぐる問いを投げかけている。
### 二 神々を変えた王、王を消した後継者
同じ第十八王朝には、もう一人、歴史の記憶を大きく揺さぶった王がいた。
アクエンアテンである。
彼は、アテン神を中心とする宗教改革を進め、王名を改め、都をアマルナへ移した。
古代エジプトの宗教や王権のあり方を、大きく変えようとしたのである。
しかし、彼の死後、その改革は後退していった。
アテン信仰に関わる記念物や王名は、後の時代に破壊されたり、削られたりした。アクエンアテンの時代に築かれた建造物の石材が、別の建築物に再利用された例もある。
ここでも、過去の記憶が扱い直されている。
ただし、これを「宗教が元に戻ったから、すべてが一斉に消された」と考えるのは単純すぎる。
宗教改革への反発、王権の正統性、神殿制度の再建、後継者たちの政治的な事情。複数の要因が関わっていた可能性がある。
歴史を消す行為は、一人の人物の気分だけで説明できるとは限らない。
それは、次の時代を誰が支配し、どの神を敬い、どの王を正統な存在として記憶するのか、という問題でもあったのだろう。
そして、ここで名前を挙げておきたい人物がいる。
ネフェルティティである。
アクエンアテンの王妃として知られる彼女は、古代エジプト美術の中でも、とりわけ有名な胸像によって現代の人々に知られている。
しかし、彼女の晩年や最期については、分かっていないことが多い。
記録が途切れた時期があり、その後の彼女の運命については、さまざまな説が唱えられてきた。
ここで、注意が必要だ。
**記録が見つからないことと、意図的に名前を消されたことは、同じではない。**
名前が削られた痕跡がある場合と、ある時点から記録が乏しくなる場合とでは、証拠の意味が違う。
ネフェルティティについても、記録の空白だけから「彼女は王名表から抹消された」と断定することはできない。
歴史の謎を解くには、空白を見つけるだけでは足りない。
その空白が、何によって生まれたのかを考えなければならないのだ。
### 三 少年王ツタンカーメンの名前
そして、もう一人。
ツタンカーメンである。
彼は、アクエンアテンの時代の宗教改革が終わりへ向かう時期に王となり、伝統的な神々への信仰を回復する方向へ政策を進めた。
現代では、王墓から発見された豪華な副葬品によって、世界中に名を知られている。
だが、彼の死後、後の王たちが整えた歴史の中では、ツタンカーメンやアマルナ時代の王たちが、王統の記録から外されることがあった。
彼らの時代に関係する建造物や石材が、別の王の記念物に利用された例も知られている。
なぜ、ツタンカーメンの名が後世の王名表から外されたのか。
それは、アクエンアテン時代の宗教改革と、その後の王権の正統性をめぐる問題と関係していた可能性がある。
しかし、ここでも一つひとつの事情を区別しなければならない。
ハトシェプストの名が削られたこと。
アクエンアテンの改革に関係する記念物が破壊されたこと。
ツタンカーメンが後世の王名表から外されたこと。
ネフェルティティの晩年が分からないこと。
これらは、すべて同じ出来事ではない。
同じ時代の政治や宗教の変化と関係していても、それぞれの人物に起きたことを、ひとまとめにしてしまうと、かえって歴史を見誤る。
ここで、名探偵なら、こう尋ねるだろう。
「証拠は、どこにある?」
名前が削られた石。
別の王の名が刻まれた記念碑。
王名表に残された空白。
記録が途切れた時期。
それらは、同じ意味を持つのだろうか。
あるものは意図的な破壊を示す。
あるものは、後世の政治的な選択を示す。
あるものは、まだ理由を特定できない記録の不足を示す。
謎を解くためには、証拠を並べるだけでなく、証拠の違いを見分ける必要がある。
歴史は、推理小説のように、最後のページで犯人の名前が明かされるとは限らない。
時には、最後まで分からないことが残る。
それでも、分かることと分からないことを分けていけば、過去の姿は少しずつ見えてくる。
### 四 三星堆の王は、誰に消されたのか
ここで、舞台を中国四川盆地へ戻そう。
三星堆では、巨大な青銅仮面や人物像、黄金の杖、青銅の神樹などが発見された。
それらの多くは、二つの大きな坑から出土している。
遺物には、壊されたり、焼かれたりした痕跡を持つものがある。
なぜ、これほど手間をかけて作った品々を、壊し、埋めたのだろう。
エジプトの例を知ったあとでは、一つの仮説が浮かぶ。
王が倒されたのではないか。
新しい支配者が、古い王の神々を否定したのではないか。
政変や宗教改革によって、かつての権力を象徴する品々が処分されたのではないか。
確かに、考えられる可能性の一つではある。
しかし、ここで飛びついてはいけない。
三星堆の遺物が壊され、埋められたことは、発掘された品々から考えられる。
だが、それがエジプトの王名削除と同じ理由によって起きたと証明されたわけではない。
三星堆の坑からは、遺物の破損や焼けた痕跡が確認されている。しかし、誰が、どのような目的で、どこで壊したのか。その行為が戦争、宗教儀礼、政治的な変化のどれと関係していたのかは、確定していない。
エジプトでは、王名を削った痕跡が残る。
三星堆では、青銅器が壊され、埋められた痕跡が残る。
同じように、過去の何かが失われたように見えても、その理由まで同じとは限らないのだ。
では、三星堆の人々は、何を失ったのだろう。
王だったのか。
神々だったのか。
あるいは、ある時代の儀式や政治の仕組みだったのか。
それとも、埋めるという行為そのものが、当時の人々にとって重要な意味を持っていたのだろうか。
ここには、まだ決定的な答えがない。
だからこそ、三星堆の謎は、単なる「消えた文明」の話では終わらない。
残された品々から、失われた社会の姿を探る作業が続いているのである。
### 五 名前が消えることと、名前が残らないこと
ここまで、二つの世界を見てきた。
古代エジプトでは、王の名や姿が削られたり、後世の記録から外されたりした。
その痕跡を調べることで、後継者たちが過去の王をどのように扱ったのか、政治や宗教がどのように変化したのかを考えることができる。
一方、三星堆では、独特な青銅器や玉器が残されている。
しかし、それらを作った王の名前や、具体的な出来事を直接説明する記録は、今のところ十分に見つかっていない。
この違いは大きい。
名前が削られた場合、削られる前の文字や、周囲に残された記録が、手がかりになることがある。
名前が記録されていない場合、そもそも比較するための文字資料が足りないことがある。
だから、三星堆の王がエジプトの王たちと同じように「歴史から抹消された」とは言えない。
記録がない理由が、意図的な抹消なのか、記録媒体が残らなかったからなのか、まだ発見されていないからなのか。それを判断するための証拠が、十分ではないのだ。
歴史を調べるとき、私たちは、物語として分かりやすい説明を好む。
強大な王が現れる。
敵が王国を倒す。
神殿を壊し、名前を消す。
そして、文明は歴史から姿を消す。
そんな筋書きなら、物語としては鮮やかだろう。
しかし、実際の歴史は、必ずしも鮮やかな筋書きに従ってくれない。
王国が変化するまでには、長い時間がかかったかもしれない。
人々が別の場所へ移ったのかもしれない。
儀式が変わり、古い品々が埋められたのかもしれない。
あるいは、まだ知られていない別の出来事があったのかもしれない。
証拠が十分でないうちは、一つの物語を正解としてしまうことはできない。
それは、謎を楽しむことを諦めるという意味ではない。
むしろ、いくつもの可能性を残しておくことで、次の発見を受け入れる余地が生まれる。
三星堆の青銅の眼は、まだ何も語っていない。
けれど、その沈黙を「何もなかった」という意味に読み替える必要はない。
記録が残る歴史もある。
名前が消された歴史もある。
そして、遺物は残っているのに、語り手が見つからない歴史もある。
**私たちが知らないことと、かつて存在しなかったことは、同じではない。**
この違いを忘れずに、もう一度、三星堆の青銅仮面を見てみよう。
その目は、何を見ていたのか。
その答えを探すためには、遠い土地に残された、もう一つの手がかりを調べる必要がある。
四川盆地と黄河流域。
地図の上では、同じ中国の中にある。
しかし、その間には山々があり、川があり、土地ごとに異なる環境が広がっていた。
二つの地域の人々は、どのようにつながっていたのだろう。
三星堆は、孤立した世界だったのか。
それとも、私たちがまだ十分に理解していない交流の網の目の中にあったのか。
次の話では、地図を広げてみよう。
直線距離にして、およそ八百九十キロ。
その隔たりの向こうに、三星堆とは異なる青銅器文化が広がっていた。
**第四話 八百九十キロの隔たり。**
古代の人々にとって、その距離は、どれほど遠かったのだろう。
エジプトの王名表と、王の名を囲むカルトゥーシュ、四人の比較一覧
①人物
②王朝・立場
③記録から消された経緯
それぞれの、人物を ①②③ と突合してください。
◾️①ハトシェプスト
②第18王朝。女性ファラオとして統治
③死後、後継者トトメス3世の時代に、像や王名などが削られた。共同統治の記憶や王位継承をめぐる政治的事情が関係した可能性があるが、すべての削除を単一の動機では説明できない。
◾️①アクエンアテン
②第18王朝。アメンホテプ4世から改名
③アテン神を中心とする宗教改革を行った。死後、その宗教政策は覆され、アマルナの遺跡や王の像が破壊され、後代には王名や肖像も消されていった。
◾️①ネフェルティティ
②第18王朝。アクエンアテンの王妃
③後半生の記録が乏しく、いつ、どのように亡くなったかも確定していない。名前が史料から見えなくなることと、王名表から意図的に削除されたことは、分けて考える必要がある。
◾️①ツタンカーメン
②第18王朝。アクエンアテン後の王
③アテン信仰から伝統的な神々への回帰を進めた。本人の名も後世の王名表から省かれ、アマルナ時代の王たちとともに、後代の王権による記憶の整理の対象となった。
Tutankhamun
+2
※四人とも第18王朝に属します。
ただし、ハトシェプストはアクエンアテンより前の時代です。
また、ネフェルティティについては、ほかの三人と同じ意味で「王名表から消された王」と断定しないのが重要です。




