『新章 古代東アジア外交と藤原不比等』 第六話
第六話 白村江 ― 海の向こうで、何が起きたのか
歴史には、不思議な敗北がある。
戦いに負けたことは記録されている。だが、敗北した側が、その戦いをどれほど恐れ、どれほど悔やみ、何を変えようとしたのかまでは、記録だけではわからない。
六六三年、白村江。
倭国の軍は、百済復興を目指す勢力を支援するため、海を越えて戦場へ向かった。
そして、敗れた。
この敗北が、後の日本の国づくりに影響を与えたことはよく知られている。防衛施設が築かれ、政治や軍事の体制が整えられていく。
だが、ここで一つ、立ち止まって考えてみたい。
倭国は、何に負けたのだろう。
単に、戦場で敵軍に敗れたのか。
それとも、自分たちが知っていた東アジアの秩序そのものが、変わり始めていたのだろうか。
◾️一 戦場へ向かった船
白村江の戦いを理解するには、まず、戦場に至るまでの時間を巻き戻す必要がある。
六六〇年、唐と新羅の連合軍によって百済が滅亡した。
百済王族の扶余豊璋は、百済復興を目指す勢力と結びつき、倭国からの支援を受けることになる。
倭国にとって、これは簡単な決断ではなかったはずだ。
海を越えて軍を送るには、船を用意し、兵を集め、食料を確保し、指揮系統を整えなければならない。
戦いが長引けば、兵士だけでなく、その家族や地域社会にも負担が及ぶ。
それでも、倭国は援軍を送った。
ここで注意したいのは、倭国の動機を一つに決めつけないことだ。
百済との長い交流を守りたかったのかもしれない。半島の勢力図が唐と新羅に有利に変わることを警戒したのかもしれない。百済復興の可能性を見込んでいたのかもしれない。
これらは互いに排他的な理由ではない。
外交とは、友情か利益か、という二者択一ではないからだ。
長年の交流が利益を生み、その利益が信頼を育て、信頼が危機の際の決断を支えることもある。
ただし、その決断が正しかったかどうかは、結果を知っている私たちが簡単に判定できるものではない。
当時の人々は、まだ敗北を知らなかった。
◾️ 二 敵は、どんな軍だったのか
倭国の軍が向き合ったのは、唐と新羅の連合軍だった。
唐は、隋の滅亡後に成立した統一王朝である。大陸の広大な地域を支配し、官僚制度と軍事力を備えていた。
新羅は、朝鮮半島で勢力を拡大していた国である。唐と協力することで、百済を滅ぼし、さらに高句麗との戦いへ進んでいく。
ここで大切なのは、唐と新羅が、いつでも完全に同じ目的を持っていたわけではないということだ。
同盟は、同じ敵を倒すために結ばれることがある。しかし、敵が倒れた後も、同盟国同士の利害が一致するとは限らない。
唐は、半島を含む広い地域に影響力を及ぼそうとしていた。一方、新羅にとっては、半島における自らの地位を確かなものにすることが重要だった。
百済の滅亡は、両国にとっての勝利であると同時に、次の政治的な駆け引きの始まりでもあった。
では、倭国の側はどうだったのか。
倭国は、半島の情勢に深く関わっていたものの、唐と同じ規模の大陸国家ではない。海を越えて兵を運ぶ必要があり、戦場での補給にも制約があった。
戦争では、兵士の勇気だけでは埋められない差がある。
兵の数、船の性能、指揮の仕組み、補給、そして戦場をどれほど把握していたか。
こうした条件が重なって、戦いの行方を左右する。
白村江で倭国側が敗れたという結果だけから、個々の指揮官の判断や兵士の働きまで断定することはできない。
しかし、この敗北によって、倭国が向き合わなければならない現実は明らかになった。
海は、文化と人を運ぶ道だった。
同時に、敵軍が渡ってくる道にもなりうる。
◾️三 敗北は、どこまで伝わったのか
白村江の戦いの後、倭国が最も恐れたものは何だったのだろう。
唐の軍が、すぐに日本列島へ攻め込んでくることだったのか。
それとも、唐と新羅が半島の秩序を変えた結果、倭国の外交や安全保障が根本から揺らぐことだったのか。
この二つは、似ているようで違う。
前者は、具体的な侵攻への恐怖である。
後者は、周辺の勢力関係が変わることで、自国の立場が危うくなるという恐怖だ。
現存する史料からは、当時の倭国が唐・新羅の動向を警戒し、防衛体制を強化したことがうかがえる。一方で、唐が日本列島への侵攻を具体的に決定していた、と簡単に断言できるわけではない。
ここを混同してしまうと、歴史の謎を解くどころか、こちらで勝手に物語を作ってしまう。
では、何が実際に起きたのか。
倭国は、国境の守りを固めた。
西日本では、防衛施設の整備が進められた。水城のような防衛施設が築かれ、山城も整備されていく。
山城は、山の地形を利用して敵の侵入を防ぐ施設である。尾根や谷を活用し、石塁や土塁などで守りを固める。
山という自然の障害に、人間の技術を加える。
その痕跡は、今も各地に残っている。
ただし、すべての古代山城が同じ時期に、同じ理由で築かれたわけではない。個々の築造年代や役割については、遺構や文献をもとに検討する必要がある。
それでも、白村江の敗北後に防衛体制の強化が進んだことは、この時代の大きな変化だった。
戦場での敗北は、戦争が終わった瞬間に消えるものではない。
敗北は、次の政策を生み、次の制度を生み、時には国そのものの形を変えていく。
◾️四 山城が語らないこと
ここで、第一話の問いに戻ろう。
山城は、誰を待っていたのか。
山城の遺構を見れば、当時の人々が防衛のために相当な労力を費やしたことがわかる。
しかし、石や土は、敵の名前を語らない。
そこに刻まれた文字がなければ、誰がどのような命令を出したのか、どの程度の侵攻を予測していたのか、そのすべてを知ることは難しい。
だから、遺構と文献を照らし合わせる必要がある。
白村江の敗北。
唐と新羅の勢力拡大。
水城や山城の築造。
そして、中央の政治制度の整備。
これらを一つの流れとして見ると、倭国が単に敵の襲来を恐れただけではなく、国家のあり方そのものを変えようとしていた可能性が見えてくる。
外からの脅威に備えるには、兵を集める仕組みが必要だ。兵を動かすには、命令を伝える仕組みが必要だ。人と物を集めるには、土地や人々を把握し、税や労役を管理する仕組みが必要になる。
防衛は、軍事だけの問題ではない。
政治の問題でもある。
そして政治の仕組みが変われば、支配者が自分たちの国をどう説明するかも変わっていく。
誰がこの国を治めるのか。
その支配には、どのような根拠があるのか。
大陸の大国と向き合うとき、自分たちは何者として振る舞うのか。
こうした問いは、やがて歴史を記録することとも結びついていく。
◾️五 敗北の後に、歴史を書く
白村江の戦いから数十年が過ぎる。
倭国は、政治制度を整え、律令国家への歩みを進めていく。
七〇一年には大宝律令が制定され、七一二年には『古事記』、七二〇年には『日本書紀』が完成した。
もちろん、これらの編纂を白村江の敗北だけで説明することはできない。国家の制度づくりには、国内の権力関係や大陸からの制度・文化の受容など、複数の要因があった。
だが、敗北を経験した国が、その後、自らの制度を整え、自らの過去を記録していったという流れには、考える価値がある。
国を守るためには、軍事力が必要だ。
国を治めるためには、制度が必要だ。
そして、国の由来や支配の正統性を示すためには、歴史も必要になる。
歴史を書くことは、過去を保存するだけではない。
どの出来事を記録し、どの人物を中心に据え、どの系譜をつなぐか。それによって、後世の人々が自分たちの国を理解する枠組みが形づくられる。
だからこそ、『日本書紀』を読むときには、書かれている内容だけでなく、なぜその内容が選ばれたのか、どのような時代に編纂されたのかも考えなければならない。
ただし、記録にないことを、すぐに「意図的に隠された」と決めつけてはいけない。
記録が残らなかった理由には、資料の散逸もあれば、編纂者が知らなかったこともある。伝承の違いや、当時の記録方法の制約も考えられる。
沈黙は、必ずしも陰謀の証拠ではない。
しかし、沈黙があることに気づけば、別の史料を探すきっかけにはなる。
それが、正史を読むという作業なのだ。
白村江の敗北は、倭国に何を教えたのか。
それは、単に戦争に負ければ国が危うくなる、という教訓だけではなかったのかもしれない。
大陸の勢力図は変わる。
同盟国は滅びる。
外交の前提は崩れる。
そのなかで、自分たちの国をどう守り、どう治め、どう語り継ぐのか。
倭国は、その問いに答えようとした。
そして、ここから先の歴史には、もう一つ、見逃せない人物が登場する。
武則天。
唐の皇后として権力を握り、やがて自ら皇帝となり、新たな王朝を名乗った女性である。
彼女の時代、東アジアの国々は、それぞれの立場から大陸の巨大な権力と向き合うことになる。
では、武則天は、倭国にとってどのような存在だったのか。
白村江の敗北から生まれた警戒心と、彼女の帝国を、どこまで結びつけて考えることができるのだろう。




