『新章 古代東アジア外交と藤原不比等』 第五話
第五話 正史審問――勝者たちの出自
歴史には、不思議なことがある。
ある人物は、悪人として記憶される。
ある人物は、改革者として称えられる。
そして、悪人を倒した人物が、改革者として歴史に登場する。
だが、その物語を記録したのは、いったい誰なのだろう。
西暦六四五年。
飛鳥の宮廷で、ひとりの男が殺された。
蘇我入鹿。
『日本書紀』によれば、入鹿は皇極天皇の御前で、中大兄皇子や中臣鎌足らによって暗殺された。
その父、蘇我蝦夷も、ほどなく自らの邸宅に火を放ち、命を絶ったと記される。
この事件は、乙巳の変と呼ばれる。
そして、事件のあとに始まったとされる政治改革が、大化の改新である。
教科書なら、ここで話は整然と進む。
蘇我氏が権力を握りすぎた。
中大兄皇子と中臣鎌足が立ち上がった。
悪政を正し、天皇を中心とする国家を築こうとした。
だが、本当にそうだったのだろうか。
ここで、ひとつだけ順番を変えてみたい。
入鹿がなぜ殺されたのかを考える前に、入鹿を殺したとされる人物たちの来歴を調べるのだ。
*
最初の人物は、中大兄皇子。
後の天智天皇である。
『日本書紀』は、中大兄皇子を舒明天皇と皇極天皇の子として記している。皇極天皇は、後に斉明天皇として再び即位した人物だ。
皇族としての系譜は、史書のなかに明記されている。
しかし、ここで確認しておきたいことがある。
系譜が記されていることと、その系譜が同時代の別の史料によって独立に確認できることは、同じではない。
だからといって、中大兄皇子の出自が偽りだということにはならない。
ただ、彼が皇族のなかでどのような位置にあり、誰と皇位を争う可能性があり、誰の支持を必要としていたのか。
それを調べる必要がある。
皇位は、父から長男へ自動的に受け継がれる仕組みが、すでに完成していたわけではなかった。
皇族の血筋だけでなく、母方の親族、有力豪族との関係、宮廷内の支持が、政治の行方を左右した。
中大兄皇子の異母兄には、古人大兄皇子がいた。
また、皇位継承をめぐる政治の舞台には、軽皇子、後の孝徳天皇もいた。
入鹿暗殺は、単純な善人と悪人の対決としてだけでは説明できない。
誰が次の天皇となるのか。
誰がその天皇を支えるのか。
誰が政治の実権を握るのか。
それらは、互いに切り離せない問題だった。
*
次の人物は、中臣鎌足。
後に藤原鎌足と呼ばれる男である。
藤原氏の祖として知られる鎌足は、後世の歴史では、中大兄皇子を助けた忠臣として描かれることが多い。
しかし、鎌足が若いころから、後の藤原氏のような政治的地位を持っていたわけではない。
彼は中臣氏の出身だった。
中臣氏は、祭祀に関わる氏族として知られる。だが、鎌足個人がどのような人脈を持ち、どのような経緯で中大兄皇子と結びついたのかについては、史料の記述を慎重に読む必要がある。
『日本書紀』と、鎌足の伝記を伝える『藤氏家伝』では、乙巳の変に至るまでの経緯の描き方に違いがある。
つまり、同じ事件でも、記録によって人物の動きや政治的な関係が異なって見えるのだ。
これは、どちらか一方が必ず虚偽だという意味ではない。
しかし、後世の藤原氏が、自らの祖先をどのような人物として語ったのかを調べるうえで、重要な手がかりになる。
鎌足は、政変のあと、政治の中枢に入った。
そして、その子孫は、後の時代に大きな政治的影響力を持つようになる。
ここで、問いが生まれる。
鎌足は、最初から藤原氏の繁栄を見通していたのだろうか。
それとも、政変によって生まれた新しい政治状況のなかで、一族が力を伸ばす機会を得たのだろうか。
その答えを、後の繁栄から逆算してはいけない。
*
では、蘇我入鹿はどうだったのか。
入鹿の生年は、確実にはわかっていない。
幼少期から青年期に至るまでの経歴も、詳細には伝わっていない。
『日本書紀』に描かれる入鹿は、皇極朝において強大な権力を握り、山背大兄王一族を滅ぼした人物である。
しかし、その人物像を形づくる記述は、入鹿の政敵となった側の歴史を伝える書物のなかに残されている。
ここで必要なのは、入鹿を無実の英雄に仕立て直すことではない。
悪人として描かれているから悪人だった、と決めることもできない。
逆に、勝者が書いた記録だから、すべてが作り話だったと断じることもできない。
何が記録されているのか。
何が別の史料でも確かめられるのか。
何が、後世の解釈に依存しているのか。
それをひとつずつ分けることだ。
*
もう一度、六四五年に戻ろう。
『日本書紀』によれば、入鹿は宮中の儀式に呼び出された。
その場で殺害された。
事件のあと、皇極天皇は退位し、軽皇子が孝徳天皇として即位した。
中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足も新たな政権のなかで重要な位置を占めた。
政変によって、政治の中心にいた人物が排除され、新しい政権が生まれたことは、物語の出発点として重要である。
しかし、ここから先は、もう一度、慎重にならなければならない。
政変が起きたこと。
その翌年に改新の詔が記されたこと。
土地や人民の支配、地方行政、税制などが、その後の時代に変化していったこと。
この三つは、同じ問題ではない。
後世の歴史が、それらをひとつの大きな改革物語としてまとめたからといって、すべてが最初から一枚の設計図に書かれていたとは限らない。
では、なぜ、そのような物語が必要だったのか。
*
鎌足の子、不比等の時代になると、藤原氏は政治のなかで大きな地位を占めていく。
不比等は、律令国家の形成に深く関わり、娘の宮子や光明子を通じて、皇室との結びつきも強めた。
しかし、鎌足の政変から不比等の時代までは、一本道ではない。
天智天皇の死後には壬申の乱が起こり、天武天皇の時代には政治体制が大きく再編された。
藤原氏が、常に勝者の側にいて、最初から将来の繁栄を約束されていたわけではない。
だからこそ、不比等がどのように政治的基盤を築いたのかを検証する価値がある。
そして、七二〇年。
『日本書紀』が完成した。
入鹿暗殺から、七十五年後のことである。
その時代には、鎌足も入鹿も、すでにこの世にいなかった。
事件を記録した人々は、事件そのものを目撃した人々と同じではない。
そのあいだに、政権は交代し、戦争が起き、皇位継承をめぐる争いがあり、国家の制度が整えられていった。
歴史を書くということは、過去の出来事を並べるだけではない。
何を重要な出来事とし、どの人物を中心に置き、どのような順番で語るかを選ぶことでもある。
では、『日本書紀』は、なぜ入鹿をあのような人物として描き、中大兄皇子と鎌足を政変の中心に据えたのか。
その記述は、当時の政治的な必要と、どのように関係していたのか。
ここで、まだ結論を出す必要はない。
必要なのは、疑問を正しい順序で並べることだ。
蘇我入鹿は、どのような人物だったのか。
中大兄皇子は、どのような政治的立場にあったのか。
中臣鎌足は、どのような人脈を持ち、なぜ皇子と結びついたのか。
そして、政変のあとに語られた「大化の改新」は、どこまで当時の現実を伝えているのか。
歴史の審問は、まだ始まったばかりである。




