『新章 古代東アジア外交と藤原不比等』 第四話
新章 古代東アジア外交と藤原不比等
第四話 百済という同盟国 ― 海の向こうに、失えないものがあった
百済が滅びたとき、倭国は、なぜ海を越えて兵を送ろうとしたのか。
考えてみてほしい。
外国の王が敗れ、都が陥落した。国を支えていた政治の仕組みも、王宮も、そこで暮らす人々の生活も、敵の手に落ちていく。
そのとき、遠く離れた海の向こうの国が、敗れた王のために軍を動かす。
それは、ただの友情だったのだろうか。
それとも、失えば自分たちの未来まで変わってしまう何かが、そこにあったのだろうか。
手がかりは、百済と倭国のあいだを行き来した人々にある。
## 一 海は、国境であると同時に、道でもあった
七世紀の東アジアを考えるとき、現代の地図をそのまま当てはめてはいけない。
朝鮮半島と日本列島のあいだには海がある。しかし、その海は人々を隔てる壁であるだけではなかった。
船が人を運び、使節が言葉を運び、僧侶が経典を運ぶ。技術を持つ職人が渡り、王族が行き来し、戦いの知らせが海を越える。
百済と倭国の関係は、そうした往来の積み重ねの上にあった。
百済の聖王は、六世紀、倭国へ仏像や経典を送ったと伝えられる。仏教を受け入れるかどうかは、倭国の支配者たちにとって、単なる信仰の問題ではなかった。
新しい宗教を受け入れることは、新しい文化や知識、人々とのつながりを受け入れることでもあった。
寺院を建てる。仏像を造る。瓦を焼く。文字を使い、経典を読み、外交の作法を学ぶ。
その一つひとつに、専門的な知識と技術が必要だった。
百済は、倭国にとって、海の向こうにある国というだけではなかったのである。
もちろん、百済から何もかもが一方的に伝わったわけではない。倭国にも独自の政治的な事情があり、半島の諸国も、それぞれの利害を抱えていた。
それでも、百済から渡った人々が倭国の文化や政治の形成に大きな役割を果たしたことは、見逃せない。
百済との関係が失われるということは、外交相手が一つ減るだけでは済まなかった。
では、倭国は百済に何を返していたのか。
その答えを考えるには、半島のもう一つの国に目を向ける必要がある。
新羅である。
## 二 百済は、なぜ倭国を必要としたのか
朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が、それぞれの勢力を競っていた。
三国の関係は、いつも同じではない。あるときは同盟し、あるときは敵対する。外交は固定された友情ではなく、変化する情勢の中で結び直されるものだった。
百済と倭国の間にも、長い交流があった。
その交流には、文化だけでなく、軍事や王族を介した政治的な結びつきも含まれていた。ただし、古い時代の関係を伝える史料には、後世の編纂や政治的な意図が入り込む可能性がある。『日本書紀』に記された記事を、そのまま現代の国境や主従関係に置き換えることはできない。
大切なのは、倭国が半島の情勢と無関係ではいられなかった、ということだ。
百済が弱体化すれば、半島の勢力図が変わる。
新羅が強くなれば、百済との関係も変わる。
そして、その背後に巨大な統一国家が現れた。
隋が滅び、唐が成立したのである。
唐は、単に中国の王朝が交代しただけの存在ではなかった。隋が築いた制度や統一国家の基盤を引き継ぎながら、周辺地域に対する影響力を強めていく。
百済にとって、半島の勢力争いは、もはや隣国との争いだけではなくなっていた。
六六〇年、唐と新羅の連合軍が百済を攻める。
百済は敗れ、王都は陥落した。
王国は滅亡する。
だが、ここで話は終わらない。
むしろ、倭国にとっての本当の選択は、ここから始まった。
## 三 滅びた国は、もう一度立ち上がろうとした
国が滅びるとき、王が敗れれば、すべての人がただちに抵抗をやめるわけではない。
故国を取り戻そうとする者がいる。
失われた地位を回復したい者もいる。
占領者の支配を受け入れられない者もいる。
百済でも、滅亡後に復興を目指す動きが起きた。
その中心に立った人物の一人が、百済王族の扶余豊璋である。
豊璋は、以前から倭国に滞在していた。百済と倭国の関係は、単に国王同士が書状を交わすだけのものではない。王族が海を越えて滞在し、政治的なつながりを保つ。そのような人の往来が、外交の土台になっていた。
ここで、一つの疑問が生まれる。
百済が滅びたあと、倭国はなぜ復興の動きに加わったのか。
百済への恩義があったからか。
それだけでは説明しきれないかもしれない。
百済から渡ってきた人々や技術、長年の外交関係を失いたくなかった可能性がある。半島の勢力図が変わることを警戒した可能性もある。そして、百済の滅亡を、倭国自身の安全にかかわる問題と考えた人々がいたのかもしれない。
ただし、倭国の支配者たち全員が、同じ考えだったと断定することはできない。戦争への参加を決めるまでには、国内の政治的な事情もあったはずだ。
歴史の記録には、国としての決断が残る。
しかし、その決断に至るまでに、誰が賛成し、誰が反対し、何を恐れ、何を期待したのか。そのすべてが残っているわけではない。
だからこそ、結果だけを見て「倭国は百済を助けたかったのだ」と言い切るのは、少し早い。
助けたいという気持ちと、自国の利益を守りたいという判断は、同時に存在しうるからだ。
人間の行動は、たいてい一つの理由だけでは決まらない。
## 四 救援軍を送るという決断
百済復興の動きは、唐と新羅にとっても無視できないものだった。
復興軍が勢力を取り戻せば、せっかく倒した百済が再び立ち上がることになる。
倭国が援軍を送れば、戦いは半島の内部だけでは終わらない。
海を隔てた国々が、一つの戦場へ引き寄せられていく。
六六三年、倭国は百済復興軍を支援するために大規模な軍を送り、唐・新羅連合軍と衝突する。
後世、「白村江の戦い」と呼ばれる戦いである。
だが、この戦いの意味を理解するためには、まだ一つ、考えなければならないことがある。
倭国は、勝てると考えていたのだろうか。
それとも、勝算が十分でなくても、ここで引くことはできないと判断したのだろうか。
あるいは、百済を失った後の東アジアが、倭国にとってどのような世界になるのか。その見通しそのものが、支配者たちの間で一致していなかったのだろうか。
確かなのは、倭国が実際に兵を送り、戦いに参加したということだ。
その決断は、取り消せない結果をもたらす。
白村江での敗北は、倭国に大きな衝撃を与えた。そして、海の向こうからの攻撃に備えるという切実な問題が、いっそう現実味を帯びることになる。
あの山城は、誰を待っていたのか。
第一話で掲げた問いが、ここへ戻ってくる。
山城を築いた人々が警戒した相手を、ただ一人の皇帝の名で説明することはできない。白村江の敗北、唐と新羅の関係、半島の情勢、そして倭国自身の政治的な判断。それらを重ねて考える必要がある。
そして、百済を失ったことで、倭国は文化や技術の担い手を迎え入れる一方、政治と軍事の仕組みを整え直していくことになる。
海の向こうの国が滅びた。
その出来事は、倭国の外で起きた悲劇であると同時に、倭国の未来を変える事件でもあった。
だが、まだ終わりではない。
この時代の大陸には、やがて中国史上でも異例の存在が登場する。
皇帝の座に就き、自ら新たな王朝を名乗った女性――武則天である。
彼女が登場するころ、倭国はすでに白村江の敗北を経験していた。
では、敗北の後に築かれた防衛体制と、武則天の時代の東アジアは、どこまでつながっているのだろうか。
その答えを探すため、次は、白村江で何が起きたのかを、もう少し詳しく見ていこう。




