『新章 古代東アジア外交と藤原不比等』 第三話
新章 古代東アジア外交と藤原不比等
第三話 煬帝は、なぜ怒ったのか
六〇七年。
中国大陸を統一した隋の皇帝に、一通の国書が届けられた。
送り主は、海の向こうにある倭国。
その国書について、中国側の史書『隋書』は、こんな言葉を記録している。
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々。
日の出るところの天子から、日の沈むところの天子へ。
さて、ここで問題である。
「天下を統一した大帝国の皇帝に向かって、別の国の君主が「こちらも天子だ」と名乗ったら、どうなるだろうか。」
隋の皇帝・煬帝は、この国書に不快感を示したと伝えられている。
『隋書』には、倭国の使者が持参した文書について、煬帝が「蛮夷の書に無礼あり」と受け取った趣旨の記述がある。
ところが、妙なことがある。
倭国と隋の交流は、それで終わらなかった。
国書の表現に不快感を示した皇帝。
それでも続いた外交。
この二つを並べると、ひとつの疑問が浮かぶ。
倭国は、いったい何をしようとしていたのか。
そして煬帝は、本当に倭国との関係を断ち切りたかったのだろうか。
ここで、まず証拠を整理してみよう。
第一の証拠は、国書の言葉である。
「日出づる処」と「日没する処」。
太陽が昇る東方と、太陽が沈む西方。
この表現は、地理的な位置関係を示す言葉として読むことができる。しかし、問題は、その両方の支配者に「天子」という称号が用いられていることだった。
隋の皇帝にとって、天子とは特別な称号だった。
中国王朝の政治思想では、皇帝は天下を治める存在として位置づけられた。周辺諸国との外交にも、その世界観が反映されていた。
そこへ、海の向こうから「日出づる処の天子」が現れた。
これは、単なる挨拶だったのだろうか。
それとも、倭国の支配者が、自らをどのような存在として表現するかを考えた結果だったのだろうか。
ただし、ここで早合点してはいけない。
現代の国際法における国家間の平等という考え方を、そのまま七世紀の外交に当てはめることはできない。
また、国書の原本は現存していない。
私たちが直接確認できるのは、中国側の史書に記録された文言である。倭国側がどのような文書を作成し、どのような議論を経てその表現を選んだのか、詳しい事情までは分からない。
だからこそ、次の証拠が重要になる。
第二の証拠は、倭国が隋から学ぼうとしていたという事実だ。
倭国は、隋へ使節を送り、制度や文化に関する知識を得ようとしていた。
仏教、文字、行政、国家の仕組み。
大陸の先進的な制度を学ぶことは、倭国の支配体制を整えるうえでも大きな意味を持っていた。
つまり、倭国にとって隋は、無視できない相手だった。
学ぶ価値がある。
交流を続ける必要がある。
それなのに、なぜ、相手の皇帝を不快にさせかねない言葉を使ったのか。
ここで、ふたつの可能性を考えてみたい。
ひとつは、倭国が隋との関係を維持しながら、自らの支配者の地位も示そうとしたという見方。
もうひとつは、国書の文言が、隋の皇帝が期待する外交上の表現とは異なっていたという見方である。
どちらか一方だけが正解だったのかもしれないし、複数の事情が重なっていたのかもしれない。
現存する記録だけで、送り手の意図を完全に確定することはできない。
しかし、倭国が隋から学ぼうとしていたことと、独自の立場を表現したように読める国書を送ったこと。この二つは、同時に存在していた。
外交とは、相手に従うか、相手に逆らうか。その二択だけではないのだろう。
相手の制度を学びながら、自分たちの政治的な立場を保とうとする。
そのような選択があった可能性は十分に考えられる。
では、第三の証拠を見よう。
それは、煬帝が国書に不快感を示したとされる、その記録そのものだ。
私たちは、この記述を読むと、煬帝が激怒し、倭国を敵視した姿を想像しがちである。
だが、史書が伝えるのは、出来事のすべてではない。
誰が記録したのか。
どのような文脈で書かれたのか。
その言葉は、皇帝の感情をどこまで正確に伝えているのか。
そこまで考える必要がある。
『隋書』は、隋の歴史を後の時代にまとめた史書である。倭国の使節がどのような表情で国書を差し出し、煬帝がその場でどのように反応したのかを、映像のように見せてくれるわけではない。
記録に残った言葉と、実際に起きた出来事のあいだには、私たちが慎重に考えなければならない距離がある。
そして、最初の疑問に戻ろう。
煬帝は怒った。
それなのに、外交は続いた。
このことは、何を意味するのだろうか。
少なくとも、国書の表現をめぐる不快感だけで、倭国との関係がすべて決まったわけではなかった。
外交には、感情だけでなく、利益もある。
遠方の国と交流することには、情報を得る意味がある。相手の政治や文化を知り、東方の情勢を把握することにも価値がある。
ただし、煬帝が倭国との交流を続けた理由について、現存する史料だけからひとつの答えを断定することはできない。
それでも、交流が続いたという事実は、外交関係が一通の国書だけで決まるほど単純ではなかったことを示している。
ここで、もうひとつの時間の流れを考えてみよう。
隋は六一八年に滅びた。
その後、中国大陸では唐が台頭する。
唐は隋の制度を引き継ぎながら、東アジアで大きな影響力を持つ国家へと成長していった。
倭国が向き合う相手も、隋から唐へと変わっていく。
そして唐は、新羅と結び、朝鮮半島の勢力図を変えることになる。
六六〇年、百済が滅亡した。
六六三年、百済復興を支援した倭国の軍勢は、白村江で唐・新羅の連合軍に敗れた。
六〇七年の国書から、五十六年後である。
この間に、東アジアの政治情勢は大きく変わっていた。
もちろん、あの国書が白村江の敗戦を招いたわけではない。
国書の一文と半世紀後の戦争を、直接の因果関係で結びつけることはできない。
しかし、国書の問題と白村江の問題には、共通する問いがある。
大陸の強大な国家と、倭国はどのような関係を築こうとしたのか。
何を学び、何を守り、どこまで自らの判断で行動できるのか。
六〇七年には、外交文書という形で現れた問題だった。
六六三年には、軍事的な敗北という形で、倭国に重くのしかかることになる。
敗戦後、日本は防衛体制を整え、国家の制度を再編していった。
やがて七二〇年、『日本書紀』が完成する。
外交の言葉。
戦争の記憶。
国家の歴史。
これらは、どこまでつながっていたのだろうか。
ここで、もう一度、あの国書を見てみよう。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
この言葉は、倭国が隋に対して対等な外交を宣言した証拠なのだろうか。
それとも、隋の秩序に参加しながら、自らの立場も示そうとした外交上の選択だったのだろうか。
あるいは、私たちがまだ十分に理解できていない、別の事情があったのだろうか。
現時点で、ひとつの答えに決めることはできない。
けれども、分からないことが残っているからこそ、史料を読み直す意味がある。
国書の原本は失われた。
しかし、中国側の史書には言葉が残った。
その言葉を手がかりに、倭国と隋の関係を考えることはできる。
そして、外交の問題をさらに追っていくと、次の疑問に行き着く。
倭国は、なぜ百済を支援したのか。
なぜ、海を越えて軍を送るほど、百済との関係を重視したのか。
そこには、友好関係だけでは説明しきれない、東アジアの政治と軍事の事情があったはずである。
一通の国書から始まった審問は、やがて白村江の戦場へ向かう。
その先に待っているのは、敗戦後の日本が、自らの国家をどう作り直そうとしたのかという、さらに大きな謎だった。




