『新章 古代東アジア外交と藤原不比等』 第二話
新章 古代東アジア外交と藤原不比等
第二話 「隋」天下統一の夢と、その代償
歴史には、ときどき不思議な国が現れる。
分裂した世界を統一し、巨大な国家を築き上げたにもかかわらず、その統一を成し遂げた王朝自身は、驚くほど短い期間で滅びてしまう。
中国の隋は、その代表例だった。
五八一年、楊堅は北周から政権を奪い、隋を建国した。
そして五八九年、南朝の陳を滅ぼす。
長く分裂していた中国が、再びひとつになった。
この統一を、楊堅ひとりの才能だけで説明することはできない。
彼の背後には、北方の軍事貴族たちが築いてきた政治的なつながりがあった。そのなかで重要な位置を占めたのが、独孤氏という一族である。
独孤氏は、北魏以来の北方貴族社会に連なる名門だった。
その一族から、独孤信という有力者が現れる。
彼には複数の娘がおり、その婚姻関係は、後世の中国史を考えるうえでも重要な意味を持つことになる。
娘のひとり、独孤伽羅は楊堅に嫁いだ。
のちの文献皇后である。
楊堅が隋を建てる以前から、彼らは北周の政治と軍事を支える貴族社会のなかにいた。婚姻は、単なる家族の問題ではなかった。権力を結び、政治的な協力関係を築く手段でもあった。
独孤氏、楊氏、そして北周から受け継がれた軍事・行政の基盤。
隋は、そうした複数の要素が重なって成立した国家だった。
楊堅は、統一後の国家を整備していく。
行政制度を再編し、律令を整え、地方を中央の統制下に置く。後世の中国王朝にも引き継がれる制度の基礎が、この時代に形づくられていった。
また、隋は大運河の整備を進めた。
南北に広がる中国を、水路によって結びつける。物資を運び、人々を移動させ、政治と経済を一体化するための大事業である。
統一国家にとって、交通網は単なる便利な設備ではない。
広大な領土を支配するための生命線だった。
隋は、巨大な国家を動かすための仕組みを築こうとしていたのである。
しかし、国家の仕組みを整えることと、その国家を無理なく維持することは、同じではなかった。
六〇四年、楊堅が死去する。
その後を継いだのが、次男の楊広だった。
後世に煬帝と呼ばれる皇帝である。
煬帝は、単純に愚かな皇帝だったのだろうか。
彼の事業を眺めると、その評価は少し複雑になる。
大運河の整備を進め、東都洛陽を建設し、国家の威信を高めようとした。周辺地域への影響力を拡大し、皇帝の権威を広大な領土の隅々まで及ぼそうとした。
その構想には、帝国を一体化させるという合理的な側面もあった。
だが、問題は、その壮大な構想を実現するために、どれほどの人間が動員されたのかということだった。
運河を掘る。
都を造る。
物資を運ぶ。
軍隊を集める。
それらの仕事を支えたのは、皇帝の命令だけではない。各地から徴発された労働力であり、税であり、家族のもとを離れて働かされた人々の時間だった。
国家が大きな事業を行うとき、その成果は後世まで残ることがある。
しかし、負担は、その事業が完成するより先に、人々の生活を壊してしまうこともある。
隋の危機は、さらに北東から迫っていた。
高句麗である。
高句麗は、朝鮮半島北部から中国東北部にかけて勢力を持つ強国だった。隋にとって、その存在は国境の安全と東アジアの主導権に関わる問題だった。
煬帝は高句麗への遠征を繰り返した。
大軍が動員され、膨大な物資が必要とされた。
しかし、遠征は思いどおりには進まなかった。
高句麗は抵抗し、隋軍は大きな損害を受ける。軍事的な失敗は、兵士だけでなく、兵站を支える人々や、税と労働を負担する民衆にも重くのしかかった。
ここで、隋という国家の矛盾が表面化する。
帝国は、巨大な軍隊を動かすことができた。
広大な地域を結ぶ運河を整備し、壮麗な都を築くこともできた。
しかし、その力を使い続けるためには、地方から人員と物資を集めなければならない。
集めすぎれば、地方の暮らしが疲弊する。
遠征に失敗すれば、費やした資源は戻らない。
負担に耐えられなくなった人々が反乱を起こせば、軍隊はさらに国内の秩序維持に割かれることになる。
隋の各地で反乱が広がっていったのは、そうした危機が積み重なった結果でもあった。
煬帝の政策だけが、滅亡の原因だったわけではない。隋は、統一国家としての制度を築く一方、その統一を支える人々に過重な負担をかけていた。高句麗遠征の失敗は、その弱点をいっそう深刻にしたのである。
六一八年、隋は滅亡した。
その混乱のなかから台頭したのが、唐だった。
隋の国家制度や統一事業の成果は、すべて消えてしまったわけではない。唐は、隋が築いた仕組みを引き継ぎ、改良しながら、より長く続く帝国を築いていくことになる。
つまり、隋は失敗しただけの王朝ではなかった。
後継王朝の土台を用意しながら、自らはその重さに耐えきれず崩壊した王朝でもあった。
ここで、視線を日本列島へ戻そう。
六〇七年、倭国は隋へ使節を派遣していた。
煬帝が皇帝となった時代である。
倭国は、統一された中国の制度や文化を学ぼうとしていた。仏教、文字、行政、国家を運営するための知識。それらを取り入れることは、倭国の支配体制を整えるうえでも意味を持っていた。
だが、隋は単なる文化の供給源ではなかった。
必要とあれば大軍を動かし、周辺国に圧力をかける軍事大国でもあった。
そして、その強大さの裏側には、国家を動かすための膨大な負担と、失敗したときに生じる深刻な危機があった。
倭国が隋をどこまで理解していたのかは、簡単には分からない。
ただ、海の向こうに巨大な帝国が存在し、その帝国が高句麗と戦い、やがて滅び、唐へと引き継がれていったことは、東アジア全体の政治環境を変える出来事だった。
倭国は、その変化の外側にいたわけではない。
やがて唐は新羅と結び、朝鮮半島の勢力図を変えていく。
百済が滅び、倭国はその復興を支援するために軍を送る。
そして白村江の戦いへ。
そのとき倭国が向き合う相手は、隋の後継者として、より強固な国家を築き上げた唐だった。
ここで、ひとつの問いが生まれる。
隋は、なぜ滅びたのか。
その答えを知ることは、煬帝を評価するためだけではない。
巨大な国家がどのように力を蓄え、どのようにその力を使い、何を失ったときに崩れるのかを知ることでもある。
そして、その隋に国書を送った倭国は、何を求めていたのか。
隋の皇帝に対して、倭国はどのような言葉を選んだのか。
中国側の史書には、その国書の一節が残されている。
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
その言葉は、単なる挨拶だったのだろうか。
それとも、巨大な帝国から学びながら、自らの立場を示そうとする倭国の意志が込められていたのだろうか。
次に審問するのは、その一通の国書である。
天下を統一した隋の皇帝と、海の向こうの倭国。
両者のあいだに交わされた言葉を読み直すとき、東アジア外交の別の姿が見えてくるかもしれない。




