『新章 古代東アジア外交と藤原不比等』 第一話
新章 古代東アジア外交と藤原不比等
第一話 山城は、誰を待っていたのか
日本には、千年以上の時を越えて、いまも残っている城がある。
石垣がそびえる近世の城ではない。
山の尾根を利用した土塁。谷を塞ぐ石垣。敵の進路を想定して築かれた防御施設。
大野城、基肄城、金田城。
その名を聞いて、すぐに場所を思い浮かべられる人は、それほど多くないかもしれない。
しかし、これらの城が築かれた時代を考えると、ひとつの疑問が浮かび上がる。
なぜ、日本は山の中にまで城を築かなければならなかったのか。
誰が、海を渡って攻めてくると考えたのか。
そして、何を守ろうとしていたのか。
時代は七世紀。
日本列島の外では、東アジアの勢力図が大きく変わりつつあった。
朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅という三つの国が存在した。中国大陸では唐が勢力を拡大し、新羅は唐と手を結んで半島の統一を進めていた。
一方、倭国は百済と深い関係を持っていた。
人々が往来し、技術が伝わり、仏教や文字を通じた交流が続いていた。両国の関係は、単なる交易相手という言葉では説明しきれない。倭国は百済の王族や政治勢力と結びつき、軍事的にも支援していた。
だが、六六〇年、百済は唐・新羅の連合軍によって滅亡する。
倭国は、百済復興を支援するために軍を送った。
そして六六三年、白村江。
倭国の軍勢は、唐・新羅の連合軍に敗れた。
この敗北は、朝鮮半島における勢力争いの一局面にとどまらなかった。
海の向こうに、倭国とは異なる規模の軍事力を持つ国家が存在する。その国家が、朝鮮半島で勝利を収めた。
もし、その軍勢が海を渡ってきたら。
その可能性を、倭国の政権は無視できなかっただろう。
敗戦後、北部九州などでは防衛体制が整えられ、古代山城が築かれていった。大野城や基肄城はその代表例であり、対馬の金田城もまた、海の向こうを意識した防衛の歴史を伝えている。
ここまでは、歴史の教科書にも登場する話である。
しかし、問題はここからだった。
唐は、やがて朝鮮半島で新羅と対立する。そして中国大陸では、王朝の内部にも大きな変化が起きる。
六九〇年、武則天が皇帝となり、国号を周とした。
中国史上、女性が皇帝として君臨するという異例の政権が誕生したのである。
日本の防衛施設が築かれた時期と、武則天が皇帝になった時期は、同じではない。
それでも、倭国が恐れた唐の軍事力と、その後の中国大陸の政治変動を切り離して考えることはできるのだろうか。
武則天は、日本を攻めるつもりだったのか。
それとも、日本側が恐れたのは、実際の侵攻計画ではなく、東アジアの秩序を動かす巨大な国家そのものだったのか。
現在確認できる史料からは、武則天が日本遠征を具体的に計画していたとは断定できない。
だが、侵攻が実現しなかったという事実と、当時の日本が大陸の軍事力を警戒していたという事実は、別の問題である。
ここで、もうひとつの疑問が浮かぶ。
戦争に敗れ、国土の防衛を固めた国は、軍事力だけを整えれば、それで十分だったのだろうか。
国を守るには、城がいる。
国を治めるには、制度がいる。
そして、国家が何者であるかを後世に伝えるには、歴史がいる。
七二〇年、『日本書紀』が完成した。
天皇の系譜と国家の由来を、漢文によって記録した正史である。
その編纂が始まったのは、天武天皇の時代とされる。藤原不比等は、律令国家の形成に深く関わった政治家だった。
彼は、白村江の戦いの四年前に生まれている。
敗戦後の日本で育ち、唐が東アジアに強大な影響力を持つ時代を生きた人物である。
不比等が『日本書紀』の編纂を一人で指揮したと断定することはできない。しかし、彼が生きた時代に、国家の制度が整えられ、皇統の歴史が記録され、天皇家と藤原氏の関係が形づくられていったことは見逃せない。
なぜ、その時代に国家の歴史を記す必要があったのか。
それは、単に過去を忘れないためだったのだろうか。
あるいは、これからの日本が、東アジアの国際秩序の中でどのような国家として存在するのか。それを示す意味もあったのだろうか。
山城は、石と土で築かれた。
正史は、文字によって編まれた。
どちらも、後世に残った。
だが、山城が何を警戒していたのかを考えるとき、私たちは、築いた人々が何を恐れていたのかを推測することになる。
そして正史を読むとき、私たちは、記録した人々が何を伝えようとし、何を記録しなかったのかを考えることになる。
物証と文字。
城と歴史。
その二つのあいだに、どのような関係があったのか。
この問いを追っていくと、ひとりの政治家の名に行き着く。
藤原不比等。
そして、その先には、光明皇后と聖武天皇の時代が待っている。
古代東アジアの外交は、戦場だけで終わったのではない。
敗戦の記憶は、国家の制度となり、歴史となり、やがて信仰とも結びついていく。
山城は、誰を待っていたのか。
そして、日本は、誰に向けて自らの歴史を書いたのか。
審問は、まだ始まったばかりだった。




