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『正史審問 青銅仮面―簒奪された史実(青銅器文明/三星堆遺跡)と失われた技術』  作者: 東曌


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『新章 古代東アジア外交と藤原不比等』  第七話

第七話 則天文字 文字まで変えた女帝



「圀」


この一字を、読めるだろうか。


「くに」と読む。


あの、水戸黄門として知られる徳川光圀。

その名に使われている文字である。


なぜ、ふつうの「国」ではなく、「圀」なのか。


答えを求めて中国の歴史を遡ると、一人の女帝に行き着く。


武則天。


中国史上、自ら皇帝として即位し、王朝を開いた唯一の女性である。


彼女は国号を変えた。


そして、文字まで変えた。


なぜ、そこまでする必要があったのだろう。


     *


時代は七世紀後半。


中国では、隋を倒して成立した唐が東アジアの大国として君臨していた。


その唐の宮廷で、一人の女性が権力の階段を上っていた。


武照。


後世、武則天と呼ばれる人物である。


彼女は、唐の第二代皇帝・太宗の後宮に入った。太宗の死後、いったん仏門に入ったが、やがて高宗の時代に宮廷へ戻る。


そして高宗の皇后となった。


ここから先の彼女の人生は、単なる皇后の物語ではない。


高宗が病を抱えるようになると、武后は政治の実務に深く関与する。皇帝の名のもとで政務を処理し、官僚たちと対峙し、宮廷内の権力関係を組み替えていった。


彼女の前に立ちはだかったのは、敵対する官僚だけではなかった。


皇帝の一族そのものが、彼女にとって越えなければならない壁だった。


唐の皇帝は李氏である。


その王朝の皇后である武氏が、皇帝に代わって政治を動かす。


それだけでも、宮廷にとっては重大な変化だった。


しかし武后は、皇后の地位にとどまらなかった。


高宗の死後も権力を手放さず、息子たちを皇帝に立てながら、実権を握り続ける。


そして六九〇年。


ついに、自ら皇帝に即位した。


国号は「周」。


唐の皇后だった女性が、唐の王統から離れ、自分を頂点とする王朝を打ち立てたのである。


ここで、ひとつの疑問が生まれる。


皇帝とは、ただ軍隊と官僚を動かせる者のことなのだろうか。


それとも、人々に「この人物こそ、天下を治める正統な支配者だ」と認めさせなければならない存在なのだろうか。


武則天は、その問いに政治だけで答えようとはしなかった。


彼女は、文字にも手を入れた。


     *


則天文字。


武則天の治世に制定された、新しい漢字である。


文字の制定に関わったのは、彼女自身だけではない。側近たちが新字を提案し、宮廷の権力がそれを採用した。


そのなかでも、ひときわ有名な文字がある。


「曌」。


武則天が自らの名に用いた字として知られる。


「日」と「月」を組み合わせ、その下に「空」を置く。


太陽と月がともに輝き、天下を照らす。


そんな壮大なイメージを読み取ることができる。


もちろん、漢字の形から読み取れる意味と、当時の制定者が意図した意味とは、区別しなければならない。


だが、皇帝の名に新しい文字を用いるという行為そのものには、政治的な意味があった。


それまでの文字を受け継ぐだけではなく、自分の時代にふさわしい文字を定める。


宮廷で用いられる文字を変えることは、支配者の命令が日常の文書にまで入り込むことでもあった。


新しい文字は、ただ珍しい字を増やしたのではない。


新しい皇帝の時代が始まったことを、人々に繰り返し知らせる仕組みでもあったのだ。


武則天は、文字を自分の権威と結びつけた。


では、あの「圀」はどうなのだろう。


     *


「圀」は、「國」の異体字である。


則天文字の一つとして伝わり、のちの日本にも残った。


ただし、その成立事情には複数の説明や伝承があり、すべてを確定した事実として語ることはできない。


一つの伝承では、「國」の字の内側にある「或」が問題になったという。


「或」は、別の文字では「惑」に通じる。


そこから、「國」の字には好ましくない意味が含まれる、と考えられた。


そこで、新しい字を作ることになった。


「国」を囲む枠の内側に、世界の八方を表す「八方」を入れる。


それが「圀」になった、というのである。


別の伝承では、武則天の「武」の字を使う案も出たとされる。


しかし、それでは「武」が囲いの中に閉じ込められる形になる。


縁起が悪いという意見が出て、さらに別の字が考案された――。


こうした話は、文字の由来をめぐる伝承として興味深い。


ただし、どこまでが当時の実際の経緯なのかは、慎重に考えなければならない。


確かなのは、「圀」が則天文字として知られ、後世の日本にも伝わったということだ。


そして、その字は日本で意外な人物の名に残った。


徳川光圀である。


     *


光圀は、江戸時代の水戸藩主だった。


彼は歴史の編纂に力を注ぎ、『大日本史』の事業を進めた人物としても知られる。


中国の歴史を記し、王朝の正統性を問い、誰が天下を治めるにふさわしいのかを考える。


そのような歴史観と深く結びついた人物の名に、かつて中国の女帝の時代に用いられた文字が残っている。


ただし、光圀が武則天にあやかろうとして、その字を選んだと断定できるわけではない。「圀」という字は、日本では光圀の時代よりはるか以前から使われていた。


ここにも、歴史の面白さがある。


文字が生まれた時代と、その文字を使った人物の時代は違う。


文字を作った者の意図と、後世にその字を選んだ者の意図も、同じとは限らない。


それでも、文字は時代を越えて残る。


武則天が皇帝だった時代の政治的な試みが、はるか後世の日本で、一人の歴史編纂者の名前に刻まれているのだ。


     *


では、武則天はなぜ、そこまでして自分の時代を作ろうとしたのか。


彼女は、唐の皇族として生まれた女性ではない。


皇后となり、政治の実権を握り、やがて李氏の王朝を離れて、自ら皇帝となった。


その即位を、唐の王統を正統と見る立場から「簒奪」と呼ぶことはできる。


しかし、彼女自身の立場から見れば、それは新しい王朝の創設だった。


その正統性を認めさせるために、武則天は何をしたのか。


彼女は、官僚を登用した。政治的な敵を粛清した。皇帝としての権威を示す儀礼や宗教的な表現を利用した。そして、新しい文字を制定した。


その治世には、政治的な弾圧もあれば、従来の有力家門に偏らない人材登用を進めた側面もあった。


彼女を、ただの悪女として片づけることはできない。


かといって、女性でありながら皇帝になったという理由だけで、すべてを改革者として称賛することもできない。


彼女が何を成し遂げ、誰を排除し、どのような仕組みで支配したのか。


それを確かめるには、残された記録を読む必要がある。


だが、その記録の多くは、彼女の王朝が終わったあとに、唐の歴史を受け継ぐ側によって整理されたものでもある。


ここで、私たちは再び問い直すことになる。


勝者は、敗者のことをどのように記録するのか。


そして、新しい王朝を打ち立てた者は、自分自身をどのように歴史に残そうとするのか。


武則天の時代は、その問いを考えるための格好の材料だった。


     *


六六三年、白村江で倭国・百済復興軍は、唐・新羅連合軍に敗れた。


武則天が自ら皇帝となり、周を建てるのは、その二十七年後である。


この二つの出来事を、直接の因果関係で結びつけることはできない。


武則天が日本への侵攻を企てていたと断定できる史料もない。


しかし、倭国が敗北後に防衛体制を整え、東アジアの国際情勢を意識しながら国家の仕組みを変えていった時代に、中国大陸でもまた、王朝の正統性をめぐる大きな変化が起きていた。


国号が変わる。


皇帝が変わる。


文字まで変わる。


海の向こうで起きていたのは、単なる宮廷の権力争いではなかった。


誰が天下を治めるのか。


その答えを、人々に認めさせるための政治だった。


そして日本でも、敗北の記憶を抱えながら、律令国家の形成が進んでいく。


やがて『日本書紀』が編纂され、国の始まりと皇統の歴史が、一つの書物にまとめられる。


その編纂に関わった時代の政治家の一人が、藤原不比等だった。


武則天が文字を新たに定めたように、日本もまた、自らの国の歴史を文字に刻んだ。


両者のあいだに、直接の模倣があったと決めつけることはできない。


だが、同じ時代の東アジアで、支配者たちはそれぞれ、自らの正統性をどのように後世へ伝えようとしたのだろうか。


武則天の「圀」は、今も日本に残っている。


一つの文字が、千年以上の時間を越えて、私たちに問いかけている。


「文字を残す者は、歴史を残す者でもある。」


では、歴史を記した者は、何を残し、何を残さなかったのか。

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