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『正史審問 青銅仮面―簒奪された史実(青銅器文明/三星堆遺跡)と失われた技術』  作者: 東曌


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第十話 青銅の眼は、いまも沈黙する

第十話 青銅の眼は、いまも沈黙する


【王は誰が決め、歴史は誰が書くのか】



 三星堆の青銅仮面は、いまも私たちを見つめている。


 大きく見開かれた眼。

 左右に張り出した耳。

 人間の顔に似ているのに、人間そのものとは思えない、不思議な姿。


 この仮面を作った人々は、何を見ていたのだろう。


 神を見ていたのか。

 祖先を見ていたのか。

 それとも、私たちがまだ知らない何かを見ていたのか。


 発掘された青銅器は、確かにそこにある。


 しかし、それを作らせた王の名も、王国が自らをどう呼んでいたのかも、私たちにはまだ十分にわからない。


 文字を使っていなかったと断定することはできない。文字が存在したとしても、現代の私たちが読める形で残っているとは限らないからだ。


 遺物は残った。

 物語は、残らなかった。


 ――本当に、そうなのだろうか。


## 一 王の名は、どこに残るのか


 中国の歴史を振り返れば、王の名はさまざまな形で残されてきた。


 殷王朝では、甲骨文が王の占いと政治を伝えている。


 後世の史書には、王朝の興亡が記された。司馬遷の『史記』にも、古代の蜀に関する記述はある。


 だが、三星堆で発見された巨大な青銅仮面や、祭祀坑に埋められた青銅器について、『史記』は何も語らない。


 では、そこに王はいなかったのか。


 そんなことは言えない。


 文字による記録が確認できないことと、王や国家が存在しなかったことは、まったく別の話なのだ。


 ここで、もう一度、あの奇妙な伝承を思い出そう。


 東晋時代に編まれた地誌『華陽国志』には、古代蜀の王として蚕叢、柏灌、魚凫の名が登場する。


 蚕叢については、「其目縱」――その眼は縱であった、と記されている。


 三星堆の、飛び出すような眼を持つ青銅仮面。


 蚕叢の、縱目という伝承。


 二つは、どこかでつながっているのだろうか。


 残念ながら、それを証明する同時代の記録は見つかっていない。


 似ているから同じ人物だ、と断定することはできない。


 しかし、似ているという事実から、問いを立てることはできる。


 歴史の謎を解くとは、答えを急ぐことではない。


 どこまでが証拠で、どこからが想像なのか。その境界線を確かめながら、可能性を追いかけることなのだ。


 さあ、ここでスーパーヒトシ君ならぬ、考古学のヒントをもう一つ。


 王の名前が書かれた文字がなくても、王の存在を考える手がかりはある。


 巨大な建造物。

 高度な技術を必要とする青銅器。

 遠方から運ばれた可能性のある素材。

 多くの人々を動かしたと考えられる生産や祭祀の仕組み。


 こうした物証を組み合わせれば、文字が読めなくても、そこにどんな社会があったのかを少しずつ推測できる。


 三星堆の発掘は、いまも続いている。


 私たちが見ているのは、過去の全体ではない。


 土の下に残された、ほんの一部分なのだ。


## 二 日本にも、記録された王と、記録されなかった王がいる


 ここで、舞台を中国大陸から海の向こうへ移してみよう。


 日本列島にも、古代の王たちがいた。


 しかし、彼らについても、すべてが同じ確かさでわかっているわけではない。


 三世紀の倭について記した中国の史書がある。


 『魏志倭人伝』だ。


 そこには、邪馬台国の女王・卑弥呼のことが記されている。


 ただし、卑弥呼が日本の後世の天皇系譜の誰に当たるのか、邪馬台国がどこにあったのかについては、現在も議論が続いている。


 さらに時代が下ると、中国の『宋書』などには、倭の五王と呼ばれる五人の王が登場する。


 讃、珍、済、興、武。


 彼らは五世紀の東アジア外交の中で、中国の史書に名を残した。


 ここで注意したいことがある。


 倭の五王は、『魏志倭人伝』に記された五人ではない。卑弥呼が登場する三世紀と、倭の五王が登場する五世紀の間には、二百年近い隔たりがある。


 中国の史書は、日本列島の王たちを知るための重要な手がかりだ。


 しかし、外国の史書に記された名前と、日本の『古事記』『日本書紀』に登場する天皇を、すべて疑いなく同一人物だと結びつけられるわけではない。


 名前の対応には、議論が残されている。


 そして、日本列島の側にも、文字による物証が残っている。


 埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣。


 熊本県の江田船山古墳から出土した大刀。


 これらの銘文には、「ワカタケル大王」と読まれる名が登場する。


 このワカタケル大王は、雄略天皇に比定する説が有力だ。


 もしこの比定が正しければ、五世紀後半の大王の名が、後世の物語だけではなく、実物の銘文によって裏付けられることになる。


 ここが重要なのだ。


 史書に書かれているから、すべてがそのまま確定するわけではない。


 反対に、史書に詳しく書かれていないからといって、存在しなかったことにもならない。


 文字の記録と、遺物の証拠。


 両方を照らし合わせることで、私たちは古代の姿に近づいていく。


 三星堆の青銅器を調べるときにも、同じ姿勢が必要なのではないだろうか。


## 三 継体天皇は、なぜすぐに大和へ入らなかったのか


 そして、もう一人の天皇がいる。


 継体天皇である。


 『日本書紀』によれば、継体天皇は五〇七年に即位し、河内の樟葉宮をはじめ、筒城宮、弟国宮などを経て、五二六年に大和の磐余玉穂宮へ移ったとされる。


 即位から大和の宮に入るまで、およそ十九年。


 約二十年である。


 なぜ、それほどの年月が必要だったのだろう。


 もちろん、『日本書紀』に記された年月を、そのまま現代の感覚で「都に入れなかった二十年間」と説明することはできない。


 当時の王権のあり方も、宮の移動が持った政治的な意味も、現代とは異なっていたはずだ。


 それでも、この長い年月は、私たちに疑問を抱かせる。


 継体天皇は、なぜこの場所から即位したのか。

 なぜ、すぐに大和へ移らなかったのか。

 その間、どのような政治的な調整や対立があったのか。


 継体天皇は、実在した天皇と考えられている。


 しかし、即位に至る具体的な政治過程や、それ以前の王統とのつながりをどのように理解するかについては、慎重な検討が必要だ。


 『古事記』『日本書紀』は、継体天皇をそれ以前の天皇の系譜に位置づけている。


 その系譜が、当時の政治的な現実をどこまで反映しているのか。


 後世の王権が、自らの正統性をどのように説明しようとしたのか。


 そうした問題は、現在も歴史研究の対象になっている。


 ここで、ひとつだけ、断定してはいけないことがある。


 継体天皇の即位に疑問が残るからといって、簒奪があったと証明されたわけではない。


 王位の継承には、血縁だけでなく、政治的な支持、地域勢力との関係、儀礼、そして後世に作られた説明など、さまざまな要素が関わっていた可能性がある。


 わからないことがあるからこそ、複数の可能性を検討しなければならない。


 これは、三星堆の王国について考えるときと同じである。


 青銅器が壊されていたからといって、王が殺されたと決めつけることはできない。


 王の名が記録にないからといって、王がいなかったと決めつけることもできない。


 そして、後世の史書に王位の正統性が書かれているからといって、その文章だけで当時の政治のすべてがわかるわけでもない。


## 四 王が交代するとき、歴史もまた変わるのか


 ここで、三星堆に戻ろう。


 あの青銅仮面は、なぜ土の中に埋められたのか。


 王国に大きな変化が起きたのか。

 祭祀のあり方が変わったのか。

 人々が別の土地へ移ったのか。

 それとも、私たちがまだ想像していない理由があったのか。


 いずれも、検討すべき可能性である。


 しかし、決定的な証拠がない以上、ひとつを正解とすることはできない。


 三星堆の文化が変化したあと、成都平原では金沙遺跡など、別の重要な遺跡が現れる。


 そこには、文化の移り変わりや、祭祀のあり方の変化を考える手がかりがある。


 けれども、それを単純に「ある王朝が滅び、別の王朝がすべてを奪った」という物語にしてしまえば、現実にあったはずの複雑さを見失うだろう。


 人々は、王が変わっても生き続けたかもしれない。


 職人は技術を受け継いだかもしれない。


 祭祀の一部は形を変えて残ったかもしれない。


 あるいは、かつて大切にされていたものが、次の時代には不要になったのかもしれない。


 その一つひとつを、遺物から確かめていく必要がある。


 王が交代するとき、歴史もまた書き換えられることがある。


 新しい王は、自分が王となった理由を語る。


 新しい王朝は、自分たちが受け継いだものを説明する。


 古い王の名が残されることもある。


 反対に、古い王の記憶が薄れ、後世の人々がその存在を忘れてしまうこともある。


 それは、必ずしも誰かが意図的に歴史を消したという意味ではない。


 記録が失われることもある。

 書き手が知らなかったこともある。

 残された資料が、偶然にも偏っていることもある。


 歴史から名前が消える理由は、一つではないのだ。


 だからこそ、歴史を調べるときには、記録されたものだけでなく、記録されなかったものにも目を向けたい。


 ただし、記録がない場所に、都合のよい物語を自由に書き込んではいけない。


 沈黙は、何かがあった証拠ではない。


 けれども、何もなかった証拠でもない。


 その沈黙の意味を探るために、私たちは考古学を必要とする。


## 五 まだ掘られていない歴史


 三星堆の遺跡は、すべてが掘り尽くされたわけではない。


 発掘された範囲は、遺跡全体のごく一部にすぎないと紹介されることもある。


 ただし、遺跡全体の面積に対する発掘面積の割合と、三星堆の歴史について私たちが理解できている割合は、同じではない。


 まだ掘られていない土地に、必ず新しい青銅器が眠っているとも限らない。


 それでも、土の下には、私たちが知らない情報が残されている可能性がある。


 新しい発掘によって、これまでの仮説が強められることもあるだろう。


 反対に、正しいと思われていた説明が、修正されることもあるだろう。


 科学は、過去の答えを守るためにあるのではない。


 証拠が増えれば、説明を変える。


 それが、過去を調べるという営みの強さなのだ。


 三星堆の青銅仮面は、まだ語らない。


 しかし、その沈黙を前にして、私たちはすでに多くのことを学んだ。


 文字が残らなくても、物は残ること。


 史書に名前が書かれなくても、文明は存在し得ること。


 似ているものがあっても、それだけで同じものだとは断定できないこと。


 王の名が記録されても、その王が生きた時代のすべてがわかるわけではないこと。


 そして、歴史の空白を埋めるには、想像力だけでなく、証拠と、証拠を疑う勇気が必要なこと。


 中国の古代蜀から、殷王朝へ。

 倭の女王から、倭の五王へ。

 ワカタケル大王の名を刻んだ鉄剣から、継体天皇の時代へ。


 それぞれの時代に、それぞれの王がいた。


 彼らの名は、あるものは文字に刻まれ、あるものは史書に記され、あるものは後世の伝承の中に残った。


 そして、名を残せなかった人々も、確かにその時代を生きていたはずだ。


 王を支えた人々。

 王に従わなかった人々。

 新しい時代を受け入れた人々。

 受け入れられず、土地を離れた人々。


 彼らの声は、王の名ほど鮮明には残らない。


 それでも、彼らがいた世界を想像し、残された証拠から少しでも近づこうとすること。


 それこそが、歴史を学ぶ意味なのかもしれない。


 王は誰が決めたのか。


 誰が、王の正統性を語ったのか。


 誰の名が記録され、誰の名が失われたのか。


 そして、私たちは、どこまでを史実と呼ぶことができるのか。


 三星堆の青銅仮面は、答えを教えてくれない。


 大きく見開かれた眼は、ただ、こちらを見つめている。


 その眼の向こうに、王の姿があったのかもしれない。


 名を残せなかった職人がいたのかもしれない。


 歴史の中に記録されなかった、無数の人々の暮らしがあったのかもしれない。


 私たちには、まだわからない。


 だからこそ、問い続ける。


 歴史とは、勝者が残した物語なのか。


 それとも、勝者の物語の隙間から、失われた人々の声を探し続ける営みなのか。


 青銅の眼は、いまも沈黙している。


 だが、沈黙は、探究の終わりではない。


 それは、次の発見を待つ、長い問いなのだ。


 ――土の下には、まだ、私たちの知らない歴史が眠っている。


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