第九話 王国は、なぜ姿を変えたのか ― 洪水、移住、そして消えなかった人々
第九話 王国は、なぜ姿を変えたのか ― 洪水、移住、そして消えなかった人々
三星堆の謎を追いかけてきた私たちは、とうとう一つの大きな疑問にたどり着いた。
あれほど巨大な青銅器を造り、独特の仮面を生み出し、象牙や金を用いた祭祀を行っていた人々は、その後、どこへ行ったのだろうか。
王国は滅びたのか。
洪水に襲われたのか。
戦争に敗れたのか。
それとも、人々は別の土地へ移り、私たちが知らない形で暮らし続けたのだろうか。
そして、もう一つ。
彼らが信じていた神々は、どこへ行ったのか。
土の中から現れた青銅の仮面は、いまも大きな目を見開いている。
その眼差しの先には、かつての王国があったはずだ。
しかし、その王国の最後について、私たちはまだ確かな答えを持っていない。
今回は、三星堆の終焉をめぐる謎を追いながら、青銅神樹と古代中国の神話にも踏み込んでみよう。
もしかすると、王国が姿を変えた理由を考える手がかりは、巨大な都市の崩壊だけではなく、人々が世界をどのように理解していたのか、その信仰の中にも隠れているのかもしれない。
## 第一の謎 ― 三星堆は、ある日突然、消えたのか
まず、最初の思い込みを疑ってみよう。
三星堆は、ある日突然、跡形もなく消滅したのだろうか。
考古学の発掘成果を見ると、話はそれほど単純ではない。
三星堆遺跡は、中国四川省の広漢市に位置する。成都平原に広がる古代蜀の重要な遺跡であり、およそ三千六百年前から三千百年前ごろにかけて栄えた文化の中心の一つと考えられている。
もちろん、年代は遺構や遺物によって幅があり、王国の始まりと終わりを一つの日付で示せるわけではない。
三星堆の存在が現代の考古学に大きく知られるようになったのは、二十世紀後半の発見による。
一九八六年、煉瓦工場の作業に関連して青銅器などが見つかり、第1号坑と第2号坑の発掘へとつながった。
そこから現れたのは、巨大な青銅仮面、立像、青銅神樹、金の杖、玉器、象牙など、当時の人々の技術と信仰を考えるうえで重要な品々だった。
そして二〇一九年以降には、さらに六つの祭祀坑が確認され、調査が進められてきた。
新たな発見は、三星堆の文化が私たちの想像以上に豊かで複雑だったことを示している。
だが、ここで注意したい。
発掘によって明らかになったのは、かつて存在した文化の一部である。
遺跡全体が完全に掘り尽くされたわけではない。
三星堆の遺跡範囲は約十二平方キロメートルとされることがある一方、発掘面積については、二〇二四年に紹介された数字を用いると、二万平方メートル未満という規模で比較されている。
単純に割れば、遺跡全体の面積に対して、発掘された面積は約〇・二%にも満たない計算になる。
ただし、これは特定の数字を使った面積上の概算であり、すべての調査区の状況を同じ条件で比較した確定値ではない。また、発掘されていない土地のすべてに遺物が埋まっているわけでもない。
それでも、驚くべきことではないだろうか。
私たちが知っている三星堆は、広大な遺跡のうち、実際に調査された場所から得られた情報に大きく依存しているのだ。
未発掘の場所に、王宮の構造を知る手がかりがあるかもしれない。
都市の外側に、生活を支えた集落の跡が残っているかもしれない。
あるいは、まだ知られていない交易や祭祀の痕跡が見つかる可能性もある。
もちろん、何が出てくるかはわからない。
だが、調査が続く限り、三星堆の歴史は書き換えられる可能性を持っている。
つまり、私たちは「消えた王国」の結末を知っているつもりで、まだ物語の途中にいるのかもしれないのだ。
## 第二の謎― 洪水が王国を滅ぼしたのか
三星堆の終焉を考えるとき、しばしば浮かび上がるのが洪水である。
四川盆地には河川が流れ、成都平原は水と深い関係を持つ土地だ。
水は農業を支え、都市の生活を可能にする。
しかし、水が制御できなくなれば、暮らしを脅かす。
大規模な洪水が起きれば、住居や農地が損なわれ、交通や交易にも影響が及んだ可能性がある。
では、三星堆の都市は洪水によって滅びたのだろうか。
ここで、いったん立ち止まろう。
**洪水が起きた可能性と、洪水が王国を滅ぼしたと証明されていることは、同じではない。**
環境考古学や地形の研究は、古代の河川の変化や氾濫、土地利用を調べる手がかりになる。
地層を調べれば、洪水によって運ばれた可能性のある堆積物が見つかることもある。
花粉や植物の痕跡を分析すれば、周辺環境や植生の変化を考える材料になる。
年代測定を組み合わせれば、環境の変化と人間の活動が、いつごろ重なっていたのかを検討できる。
こうした科学的な調査は、古代の人々がどのような土地で暮らしていたのかを、伝説とは別の角度から明らかにしてくれる。
だが、仮にある時期に洪水が発生していたとしても、それだけで都市の変化をすべて説明できるわけではない。
洪水の規模はどの程度だったのか。
都市のどの部分が被害を受けたのか。
人々はその土地を離れたのか、それとも復旧を試みたのか。
洪水の影響は、政治や宗教の変化とどのように結びついていたのか。
こうした問題を、一つずつ検討しなければならない。
自然災害は、社会の変化を引き起こす要因の一つにはなりうる。
しかし、災害が起きたことと、その社会が終わったことを、直結させてはいけない。
洪水説は、検討すべき重要な可能性だ。
だが、それはまだ、すべてを解く魔法の鍵ではないのである。
## 第三の謎― 人々は、金沙へ移ったのか
ここで、もう一つの遺跡に注目しよう。
三星堆から南へ進んだ成都平原には、金沙遺跡がある。
金沙遺跡は、三星堆の文化が変化した後の古蜀文化を考えるうえで、重要な場所だ。
そこからも、金器、玉器、象牙、青銅器などが発見されている。
この二つの遺跡を比べると、気になることがある。
三星堆の都市が衰退した後、成都平原では古蜀の文化が消滅したわけではなかった。
金沙では、独自の祭祀や工芸を持つ社会が発展していたのである。
では、三星堆の人々が金沙へ移住したのだろうか。
これは魅力的な仮説だ。
もし大きな政治的、環境的変化によって三星堆の中心が衰退したのなら、人々や技術、信仰の一部が別の場所へ移った可能性は考えられる。
都市の中心が移動した。
王権のあり方が変わった。
祭祀の場所が変わった。
そうした変化が、金沙の発展に関係していた可能性はある。
だが、ここにも慎重さが必要だ。
三星堆から金沙への移住が、単一の出来事として完全に証明されているわけではない。
二つの遺跡の間に文化的なつながりが認められるとしても、それは住民全員が一斉に移動したことを意味しない。
人々が移住した可能性もある。
周辺地域の人々が加わった可能性もある。
複数の集団が交流しながら、新しい政治的・宗教的中心を築いた可能性も考えられる。
文化は、人間とともに動く。
しかし、文化が動くとき、人間のすべてが同じ方向へ移動するとは限らない。
ある職人は別の土地へ移り、ある農民は故郷に残ったかもしれない。
ある祭祀の形式は受け継がれ、別の形式は使われなくなったかもしれない。
そして、新しい社会の中で、かつての信仰が別の意味を持つようになった可能性もある。
だからこそ、三星堆の終焉を「人々が突然消えた事件」とだけ考えるのは危うい。
都市が衰退することと、人々が消滅することは、同じではないからだ。
## 第四の謎― 青銅器は、なぜ壊され、埋められたのか
ここで、三星堆の謎をさらに深める遺物に戻ろう。
一九八六年に発見された第1号坑と第2号坑。
そして、二〇一九年以降に確認された六つの坑。
そこから見つかった青銅器や玉器、象牙などには、壊れたり、焼かれたりした状態のものが含まれていた。
巨大な青銅仮面。
青銅の立像。
青銅神樹。
これほど手間をかけて造られた品々を、なぜ壊したのだろう。
なぜ、焼いたのだろう。
なぜ、穴の中に納めたのだろう。
考古学では、こうした坑は一般に「祭祀坑」と呼ばれている。
ただし、名前がついているからといって、目的がすべて解明されたわけではない。
「祭祀坑」という呼び方は、出土状況や遺物の性格などから、祭祀に関係した可能性が考えられていることを示すものだ。
それぞれの品が、どのような理由で壊され、焼かれ、埋められたのか。
その具体的な過程には、まだわからない部分が残っている。
ここで、いくつかの仮説を考えてみよう。
一つ目は、戦争や政治的対立に関係していたという可能性だ。
王権が交代したり、敵対する集団との争いが起きたりしたとき、以前の支配者や祭祀に結びついた品々が破壊されたのかもしれない。
二つ目は、宗教や祭祀の変化に関係していたという可能性だ。
古い神々への祭祀を終え、新しい儀礼へ移る際に、かつて使われた品々を特別な方法で処分したのかもしれない。
三つ目は、破壊や焼却そのものが、儀礼の一部だったという可能性だ。
現代の私たちは、価値のある品を壊すことを損失と考えがちだ。
しかし、古代の儀礼では、物を壊すことや手放すこと自体に、特別な意味が与えられる場合もある。
大切な品を日常の世界から取り除き、地中に納めることが、神々への奉献や儀礼の完了を意味していた可能性もある。
ただし、これらの仮説は、互いに必ずしも排他的ではない。
坑ごとに事情が異なっていた可能性もある。
また、すべての遺物が同じ方法で処理されたと決めつけることもできない。
実際、遺物の破損状況や焼けた痕跡、堆積の順序などを詳しく調べることによって、埋納に至る過程を探ろうとする研究が進められている。
特定の坑では、焼けた痕跡や燃焼に関係する物質の分析から、物をその場で焼いたのか、それとも別の場所で焼いてから運び込んだのかという問題も検討されている。
こうした研究は、坑が単なる廃棄場所だったのか、それとも計画的な儀礼の場だったのかを考える手がかりになる。
だが、ある坑で得られた結果を、そのまますべての坑に当てはめることはできない。
だから、ここで一つの結論を急ぐのはやめておこう。
三星堆の人々は、価値のある品々を壊し、焼き、地中に納めた。
その行為が何を意味したのか。
私たちは、まだすべてを理解していない。
そして、ここで一つの可能性が浮かび上がる。
もし、これらの品々が人々の信仰や王権と深く結びついていたのなら、それらを埋める行為は、単なる物の処分ではなかったのかもしれない。
ある時代の終わりを告げる行為だったのか。
神々との関係を変える儀礼だったのか。
それとも、私たちがまだ知らない別の意味があったのか。
この問いを考えるために、今度は青銅神樹を、もう少し詳しく見てみよう。
## 第五の謎― 青銅神樹は、扶桑だったのか
三星堆の遺物の中でも、ひときわ不思議な存在がある。
青銅神樹だ。
枝を大きく広げ、鳥を載せ、天へ向かって伸びていく巨大な青銅の樹。
現代の私たちがこの姿を見ると、さまざまなイメージが浮かんでくる。
生命の樹。
世界を支える樹。
天と地を結ぶ樹。
だが、ここで気になることがある。
中国の古代神話にも、神聖な樹木が登場するのだ。
その代表的なものとして知られるのが、扶桑、建木、若木である。
これらは、古代中国の神話や宇宙観を伝える文献、とりわけ『山海経』などを考えるうえで重要な名前だ。
では、三星堆の青銅神樹は、これらの神話に登場する樹木と同じものなのだろうか。
まず、扶桑を見てみよう。
扶桑は、太陽と関係する神話上の樹として語られる。
古代中国の神話には、太陽の運行や、太陽にまつわる鳥の物語が登場する。
青銅神樹にも鳥の姿がある。
ここで、私たちは思わず考えてしまう。
太陽と鳥と樹。
この組み合わせは、偶然なのだろうか。
それとも、古代の人々が世界を理解するために用いた、何らかの共通したイメージを反映しているのだろうか。
しかし、鳥が表現されているからといって、青銅神樹を扶桑そのものだと断定することはできない。
文献に記された神話と、考古学的に発見された遺物が、直接つながる証拠はまだ確認されていないからだ。
次に、建木。
建木は、天と地を結ぶ樹として語られる。
神々の世界と人間の世界。
天上と地上。
そうした異なる世界をつなぐ、宇宙的な役割を持つ樹として理解されることがある。
もし三星堆の人々が、青銅神樹をそのような存在として考えていたのなら、それは単なる樹木の模型ではなかったのかもしれない。
彼らが信じていた世界の構造を、目に見える形にしたものだった可能性がある。
では、若木はどうだろうか。
若木もまた、古代中国の神話に登場する樹木の一つで、太陽の運行に関連づけて論じられることがある。
ただし、扶桑、建木、若木は、それぞれが同じ樹木の別名というわけではない。
神話上の役割や文献中の位置づけには違いがある。
これらを一つの物語にまとめ、すべてが三星堆の青銅神樹を説明していると考えるのは、正確ではない。
それでも、比較する価値はある。
古代の人々は、樹木という存在を通じて、太陽の運行や天と地の関係、神々と人間のつながりを表現していたのではないか。
そう考えると、青銅神樹の姿が、いっそう興味深く見えてくる。
では、青銅神樹は、いわゆる「生命の樹」だったのだろうか。
世界各地の神話や宗教には、生命や再生、宇宙の秩序などと結びつく樹木のイメージが存在する。
しかし、三星堆の青銅神樹を、そのまま「生命の樹」と呼ぶことには注意が必要だ。
それは、現代の私たちが比較のために使う言葉であって、古蜀の人々自身がそう呼んでいたと確認されているわけではない。
同じような形の樹木が、異なる地域の神話に登場することはある。
だが、形が似ていることだけで、信仰の内容まで同じだったと証明することはできない。
それでも、あの巨大な青銅神樹を前にすると、どうしても考えたくなる。
なぜ、樹だったのか。
なぜ、鳥がいたのか。
なぜ、あれほど大きなものを、青銅で造る必要があったのか。
古蜀の人々にとって、この樹は何を意味していたのだろう。
天と地をつなぐ道だったのか。
太陽の運行を表すものだったのか。
神々と人間の関係を示す、祭祀の中心だったのか。
それとも、後世の中国神話とは直接つながらない、古蜀独自の神話を形にしたものだったのか。
現在のところ、これらの解釈のうち一つだけが確定した答えになっているわけではない。
だが、青銅神樹の存在そのものは、古蜀の人々が高度な技術を持っていただけでなく、私たちがまだ十分に理解できていない世界観を持っていたことを考えさせる。
そして、ここで先ほどの謎が戻ってくる。
そのような神樹を造り上げた人々が、なぜ青銅器などを壊し、焼き、穴の中に納めたのだろう。
神樹に象徴された世界は、彼らにとって終わりを迎えたのか。
あるいは、神樹を埋めること自体が、その世界の中で意味を持つ儀礼だったのか。
ここから先は、証拠だけではまだ語りきれない。
だからこそ、仮説を仮説として残しながら、さらに調査を続ける必要があるのだ。
## 第六の謎― 神々を埋めたのか、それとも世界が変わったのか
ここまで、いくつもの可能性を考えてきた。
洪水。
政治的な変化。
祭祀の変化。
都市の移動。
そして、青銅神樹に表現されたかもしれない世界観。
だが、これらを一つの原因だけで説明することはできるのだろうか。
例えば、洪水が起きたとする。
その影響によって、人々が移動した可能性はある。
しかし、人々が移動したとしても、以前の信仰をすべて捨てたとは限らない。
別の土地へ移った人々が、古い祭祀の一部を受け継いだかもしれない。
一方で、新しい政治的な中心が生まれれば、王権を正当化するための儀礼が変化した可能性もある。
かつての王が用いた象徴が、新しい支配者のもとでは使われなくなったのかもしれない。
あるいは、同じ神々を信じていても、その神々を表現する方法が変わった可能性もある。
こうした変化は、必ずしも一度に起きるとは限らない。
人々の生活が変わる。
都市の中心が変わる。
政治の仕組みが変わる。
そして、祭祀や神話の形も、少しずつ変わっていく。
その過程で、ある品々は使われ続け、別の品々は役割を終えることもあるだろう。
ただし、三星堆の祭祀坑が、そのような政治的・宗教的転換を直接示していると断定することはできない。
それは、遺物の状態や年代、周辺遺跡との比較を通じて検討されるべき仮説の一つだ。
ここで大切なのは、「滅亡」という言葉の意味を考え直すことかもしれない。
王宮が使われなくなること。
都市の人口が減ること。
祭祀の中心が移動すること。
ある種類の青銅器が造られなくなること。
これらは、必ずしも同じ出来事ではない。
都市が衰退しても、人々は生き続ける。
王権が変わっても、工芸の技術は受け継がれる。
祭祀の形が変わっても、古い神話の一部が新しい物語の中に残ることがある。
逆に、かつての信仰が失われ、遺物だけが後世に残ることもある。
三星堆の終焉について、私たちが本当に知りたいのは、単に「何年に滅びたか」ということだけではない。
そこに暮らしていた人々が、何を失い、何を持ち続け、どのように新しい世界へ移っていったのか。
その過程こそが、まだ十分に解明されていない謎なのである。
## 第七の謎― 記録がないから、歴史がなかったのか
ここで、もう一つ忘れてはならない問題がある。
三星堆の人々は、自分たちの歴史を記録していたのだろうか。
現在、三星堆からは、彼らの歴史を直接語る、解読済みの同時代の記録は確認されていない。
しかし、それは、彼らが文字を持っていなかったと証明されたことを意味しない。
記録が見つかっていないことと、記録が存在しなかったことは違う。
文字が使われていたとしても、石や青銅のように残りやすい素材ではなく、木や竹など、失われやすい素材に記されていた可能性も考えられる。
もちろん、これは可能性の話であり、三星堆にそのような文字記録が存在したことを示す証拠があるという意味ではない。
また、文字による記録がなくても、人々は歴史を記憶し、伝えることができる。
口承。
儀礼。
歌。
神話。
祖先についての物語。
そうした方法で、過去の出来事や共同体の記憶が伝えられることは、さまざまな社会で知られている。
三星堆の人々も、何らかの方法で自分たちの過去を伝えていたのだろうか。
彼らは、巨大な青銅仮面や神樹に、どのような物語を重ねていたのだろう。
それを直接教えてくれる記録は、まだ見つかっていない。
だからこそ、私たちは遺物を丁寧に調べる必要がある。
青銅器の形。
製作技術。
材料の産地。
壊された痕跡。
埋められた順序。
周辺地域との共通点と違い。
それらは、文字による説明がなくても、古代の人々の活動を探るための重要な証拠になる。
ただし、遺物から読み取れることにも限界はある。
仮面の目が大きいからといって、当時の人々が実際に同じ姿の神を信じていたと断定することはできない。
青銅神樹が天へ伸びているからといって、彼らが特定の神話を信じていたと決めつけることもできない。
だからこそ、文献と遺物、科学的な分析を照らし合わせる必要がある。
その作業によって、いつか今よりも確かな答えに近づけるかもしれない。
## 第八の謎― 青銅の眼は、いまも問い続ける
三星堆の終焉について、私たちはいくつもの可能性を見てきた。
洪水が社会に影響を与えた可能性。
都市の中心が移動した可能性。
政治や祭祀の仕組みが変わった可能性。
青銅器を壊し、焼き、埋める行為に、特別な意味があった可能性。
そして、青銅神樹が、古蜀の人々の世界観を形にしたものだった可能性。
どれも興味深い。
しかし、どれか一つを、現時点で決定的な答えとして選ぶことはできない。
それは、研究が足りないからというだけではない。
考古学が扱うのは、過去に起きた出来事の痕跡だからだ。
私たちは、残されたものから、失われた世界を復元しようとしている。
その作業には、必ず限界がある。
だが、限界があるからといって、何もわからないわけではない。
年代測定は、遺物がいつごろ造られ、使われたのかを考える手がかりになる。
金属の成分分析は、材料や製作技術を調べる手段になる。
地層の調査は、土地の環境がどのように変わったのかを探る材料になる。
遺跡同士の比較は、人々の交流や文化の変化を考えるうえで役立つ。
新しい発掘が進めば、これまでの仮説が補強されることもあれば、覆されることもある。
それこそが、考古学の面白さだ。
そして、三星堆には、まだ調査を待つ広大な土地が残されている。
次の発掘で何が見つかるのか。
新たな青銅器なのか。
王宮の構造を示す痕跡なのか。
古代の人々の生活を伝える遺物なのか。
あるいは、これまでの理解を根本から変えるような発見なのか。
今は、誰にもわからない。
だが、もし新しい証拠が見つかれば、私たちは再び問い直すことになるだろう。
三星堆の王国は、なぜ姿を変えたのか。
人々はどこへ行ったのか。
彼らが信じていた神々は、どのような姿をしていたのか。
そして、青銅神樹は、彼らの世界の中で何を意味していたのか。
その問いは、まだ終わっていない。
次はいよいよ、最後の謎へ進もう。
青銅の仮面と、青銅神樹。
土の中に残された二つの証拠を見つめながら、私たちは最後に何を言えるのだろうか。
三星堆が私たちに残したのは、謎だけではない。
わからないことを、わからないまま認める勇気。
証拠と想像を区別する慎重さ。
そして、新しい発見によって、自分たちの理解を変えていく面白さ。
それもまた、この遺跡が現代の私たちに教えてくれることなのかもしれない。
青銅の眼は、いまも沈黙している。
けれど、沈黙しているからこそ、私たちは問い続けることができるのだ。




