↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『正史審問 青銅仮面―簒奪された史実(青銅器文明/三星堆遺跡)と失われた技術』  作者: 東曌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/20

最終話 青銅の眼は、いまも沈黙する

最終話 青銅の眼は、いまも沈黙する


【王は誰が決め、歴史は誰が書くのか】


 三星堆の青銅仮面は、いまも私たちを見つめている。


 大きく見開かれた眼。

 左右に張り出した耳。

 人間の顔に似ているのに、人間そのものとは思えない、不思議な姿。


 この仮面を作った人々は、何を見ていたのだろう。


 神を見ていたのか。

 祖先を見ていたのか。

 それとも、私たちがまだ知らない何かを見ていたのか。


 発掘された青銅器は、確かにそこにある。


 しかし、それを作らせた王の名も、王国が自らをどう呼んでいたのかも、私たちにはまだ十分にわからない。


 文字を使っていなかったと断定することはできない。文字が存在したとしても、現代の私たちが読める形で残っているとは限らないからだ。


 遺物は残った。

 物語は、残らなかった。


 ――本当に、そうなのだろうか。


## 一 王の名は、どこに残るのか


 中国の歴史を振り返れば、王の名はさまざまな形で残されてきた。


 殷王朝では、甲骨文が王の占いと政治を伝えている。


 後世の史書には、王朝の興亡が記された。司馬遷の『史記』にも、古代の蜀に関する記述はある。


 だが、三星堆で発見された巨大な青銅仮面や、祭祀坑に埋められた青銅器について、『史記』は何も語らない。


 では、そこに王はいなかったのか。


 そんなことは言えない。


 文字による記録が確認できないことと、王や国家が存在しなかったことは、まったく別の話なのだ。


 ここで、もう一度、あの奇妙な伝承を思い出そう。


 東晋時代に編まれた地誌『華陽国志』には、古代蜀の王として蚕叢、柏灌、魚凫の名が登場する。


 蚕叢については、「其目縱」――その眼は縱であった、と記されている。


 三星堆の、飛び出すような眼を持つ青銅仮面。


 蚕叢の、縱目という伝承。


 二つは、どこかでつながっているのだろうか。


 残念ながら、それを証明する同時代の記録は見つかっていない。


 似ているから同じ人物だ、と断定することはできない。


 しかし、似ているという事実から、問いを立てることはできる。


 歴史の謎を解くとは、答えを急ぐことではない。


 どこまでが証拠で、どこからが想像なのか。その境界線を確かめながら、可能性を追いかけることなのだ。


 王の名前が書かれた文字がなくても、王の存在を考える手がかりはある。


 巨大な建造物。

 高度な技術を必要とする青銅器。

 遠方から運ばれた可能性のある素材。

 多くの人々を動かしたと考えられる生産や祭祀の仕組み。


 こうした物証を組み合わせれば、文字が読めなくても、そこにどんな社会があったのかを少しずつ推測できる。


 三星堆の発掘は、いまも続いている。


 私たちが見ているのは、過去の全体ではない。


 土の下に残された、ほんの一部分なのだ。


## 二 中国の史書に残された倭の王たち


 ここで、舞台を中国大陸から海の向こうへ移してみよう。


 日本列島にも、古代の王たちがいた。


 三世紀の倭について記した中国の史書がある。


 『魏志倭人伝』だ。


 そこには、邪馬台国の女王・卑弥呼のことが記されている。


 ただし、卑弥呼が日本の後世の天皇系譜の誰に当たるのか、邪馬台国がどこにあったのかについては、現在も議論が続いている。


 さらに時代が下ると、中国の『宋書』などには、倭の五王と呼ばれる五人の王が登場する。


 讃、珍、済、興、武。


 彼らは五世紀の東アジア外交の中で、中国の史書に名を残した。


 ここで注意したいことがある。


 倭の五王は、『魏志倭人伝』に記された五人ではない。卑弥呼が登場する三世紀と、倭の五王が登場する五世紀の間には、二百年近い隔たりがある。


 中国の史書は、日本列島の王たちを知るための重要な手がかりだ。


 しかし、外国の史書に記された名前と、日本の『古事記』『日本書紀』に登場する天皇を、すべて疑いなく同一人物だと結びつけられるわけではない。


 名前の対応には、議論が残されている。


 そして、日本列島の側にも、文字による物証が残っている。


 埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣。


 熊本県の江田船山古墳から出土した大刀。


 これらの銘文には、「ワカタケル大王」と読まれる名が登場する。


 このワカタケル大王は、雄略天皇に比定する説が有力だ。


 ここが重要なのだ。


 後世の史書だけではなく、実際に出土した鉄剣や大刀の銘文から、五世紀の大王と各地の有力者との関係を考えることができる。


 史書に書かれているから、すべてがそのまま確定するわけではない。


 反対に、史書に詳しく書かれていないからといって、存在しなかったことにもならない。


 文字の記録と、遺物の証拠。


 両方を照らし合わせることで、私たちは古代の姿に近づいていく。


 三星堆の青銅器を調べるときにも、同じ姿勢が必要なのではないだろうか。


## 三 継体天皇は、なぜすぐに大和へ入らなかったのか


 そして、もう一人の天皇がいる。


 継体天皇である。


 『日本書紀』によれば、継体天皇は五〇七年に即位し、河内の樟葉宮をはじめ、筒城宮、弟国宮などを経て、五二六年に大和の磐余玉穂宮へ移ったとされる。


 即位から大和の宮に入るまで、およそ十九年。


 約二十年である。


 なぜ、それほどの年月が必要だったのだろう。


 もちろん、『日本書紀』に記された年月を、そのまま現代の感覚で「都に入れなかった二十年間」と説明することはできない。


 当時の王権のあり方も、宮の移動が持った政治的な意味も、現代とは異なっていたはずだ。


 それでも、この長い年月は、私たちに疑問を抱かせる。


 継体天皇は、なぜこの場所から即位したのか。

 なぜ、すぐに大和へ移らなかったのか。

 その間、どのような政治的な調整や対立があったのか。


 継体天皇は、実在した天皇と考えられている。


 しかし、即位に至る具体的な政治過程や、それ以前の王統とのつながりをどのように理解するかについては、慎重な検討が必要だ。


 『古事記』『日本書紀』は、継体天皇をそれ以前の天皇の系譜に位置づけている。


 その系譜が、当時の政治的な現実をどこまで反映しているのか。


 後世の王権が、自らの正統性をどのように説明しようとしたのか。


 そうした問題は、現在も歴史研究の対象になっている。


 ここで、ひとつだけ、断定してはいけないことがある。


 継体天皇の即位に疑問が残るからといって、簒奪があったと証明されたわけではない。


 王位の継承には、血縁だけでなく、政治的な支持、地域勢力との関係、儀礼、そして後世に作られた説明など、さまざまな要素が関わっていた可能性がある。


 わからないことがあるからこそ、複数の可能性を検討しなければならない。


 これは、三星堆の王国について考えるときと同じである。


 青銅器が壊されていたからといって、王が殺されたと決めつけることはできない。


 王の名が記録にないからといって、王がいなかったと決めつけることもできない。


 そして、後世の史書に王位の正統性が書かれているからといって、その文章だけで当時の政治のすべてがわかるわけでもない。


## 四 飛鳥の石は、何を知っているのか


 日本の古代史を考えるとき、奈良の石造物は、また別の謎を投げかけてくる。


 奈良県、明日香村。


 そこには、用途がはっきりわかっていない不思議な石が、いくつも残されている。


 酒船石。


 平たい石の表面には、丸いくぼみと、そこから伸びる溝が刻まれている。


 何を流したのだろう。


 酒か。

 油か。

 それとも、水を使う祭祀や占いのためのものだったのか。


 酒船石そのものの用途は、まだ確定していない。


 ただし、丘の下からは、湧き水を船形の石槽に導き、亀形の石槽に流す施設が発見されている。


 この丘陵一帯は、斉明天皇の時代の祭祀に関わる場所だった可能性が考えられている。


 『日本書紀』の斉明天皇二年、六五六年の条には、宮の東の山に石を積み重ねて垣を築いたという記事がある。


 石を運び、溝を掘り、山を整え、大規模な工事を行ったという記録だ。


 酒船石のある丘陵からは、石垣の遺構も発見されている。


 それらが『日本書紀』の記述に対応する可能性は高いと考えられている。


 石は残った。


 記録も残った。


 しかし、酒船石そのものが何に使われたのかは、まだわからない。


 そして、飛鳥には、もう一つ、水に関わる遺跡がある。


 水落遺跡だ。


 『日本書紀』には、斉明天皇六年、六六〇年、中大兄皇子が漏刻を造り、時を知らせたという記事がある。


 漏刻とは、水の流れを利用して時を測る水時計である。


 水落遺跡は、その漏刻台の跡と考えられている。


 水を使って時を測る。


 それは、自然の移ろいを、政治や暮らしの中で共有できる時間へと変えることだった。


 時刻を知らせるということは、人々の行動をそろえ、宮廷や国家の営みを組み立てることにもつながる。


 飛鳥の王権は、石を積み、溝を掘り、水を導き、時を測ろうとした。


 では、酒船石の水は、何を伝えようとしていたのだろう。


 神々への問いだったのか。

 祈りのための儀礼だったのか。

 それとも、私たちがまだ知らない別の仕組みだったのか。


 水時計については、構造を考える手がかりが見つかっている。


 酒船石については、用途の謎が残っている。


 同じ飛鳥に、水を使う二つの施設があった。


 一方は、時を測るためのもの。

 もう一方は、祭祀に関わった可能性があるもの。


 似た材料を使っていても、わかっていることは同じではない。


 だからこそ、遺物と記録を、一つずつ照らし合わせる必要がある。


## 五 鬼の俎、鬼の雪隠――石に与えられた別の物語


 明日香村には、もう一つ、名前からして奇妙な石造物がある。


 鬼の俎。

 鬼の雪隠。


 俎とは、まな板のこと。


 雪隠とは、便所のことだ。


 なぜ、古代の巨大な石に、そんな名前が付いたのだろう。


 伝承によれば、鬼は霧で旅人を迷わせ、捕らえた人間を俎の上で料理した。そして食べ終わると、雪隠で用を足したという。


 なんとも恐ろしい話である。


 だが、考古学的には、この二つの石は、古墳の石室を構成していた石材と考えられている。


 鬼の俎は石室の底にあたる部分、鬼の雪隠は蓋にあたる部分と説明されている。


 つまり、古代の墓の一部だったと考えられる石が、後世の人々には、鬼の料理場と便所に見えたのだ。


 ただし、なぜ現在の位置にあるのかについては、わかっていないことが残されている。


 ここに、歴史の不思議がある。


 石は、古代の人々が築いたものだ。


 しかし、石に付けられた名前や物語は、後の時代の人々が生み出したものかもしれない。


 古代の人々にとって、墓の一部だった石。


 後世の人々にとっては、鬼の俎であり、鬼の雪隠だった石。


 同じ石なのに、その意味は変わっている。


 石は残った。

 最初の意味は、完全には残らなかった。

 そして、新しい物語が生まれた。


 三星堆の青銅器にも、似たことが起きたのだろうか。


 青銅仮面を作った人々は、それを何と呼んでいたのだろう。


 神の顔だったのか。

 祖先の顔だったのか。

 王の権威を示すものだったのか。


 その意味が失われたあと、後世の人々が見れば、巨大な眼を持つ不思議な仮面にしか見えなくなってしまう。


 物は残っても、意味は変わる。


 鬼の俎と鬼の雪隠は、そんな歴史の一面を、今も私たちに見せている。


## 六 橿原へ――国の始まりを語る場所


 奈良の石の謎を追っていくと、私たちは、やがて橿原へとたどり着く。


 畝傍山の東南麓。


 そこに、橿原神宮が鎮座している。


 『日本書紀』には、神武天皇が橿原宮で即位したという物語が記されている。


 橿原神宮は、その建国伝承に結びつく場所に、明治二十三年、一八九〇年に創建された。


 ここで、忘れてはならないことがある。


 現在の橿原神宮が、神武天皇の時代から同じ形で続いてきたわけではない。


 古代の建国伝承が長い時間を経て、近代の日本において神社という形で改めて表現されたのだ。


 では、なぜ近代の人々は、神武天皇の物語を重んじ、その場所に神宮を創建しようとしたのだろう。


 そこには、古代の記憶を受け継ごうとする思いと、近代の国家が自らの起源を形にしようとした歴史がある。


 伊勢には、天照大御神を祀る伊勢神宮がある。


 出雲には、大国主大神を祀る出雲大社がある。


 そして橿原には、神武天皇の即位という建国の物語に結びつく橿原神宮がある。


 それぞれに異なる由緒と歴史があり、同じものとして扱うことはできない。


 けれども、そこには共通する問いがある。


 人々は、何を神聖なものとして受け継いできたのか。


 自分たちの国の始まりを、どのように語ってきたのか。


 そして、その物語の背後には、どのような人々の暮らしや政治の現実があったのだろうか。


 ここで、継体天皇のことを思い出してみよう。


 王位の継承を、私たちはどこまで確かめられるのか。


 史書に記された系譜は、どのような政治的な現実を反映しているのか。


 後世の人々は、なぜその王を正統な王として語り継いだのか。


 これらは、誰かの正統性を否定するためだけの問いではない。


 歴史がどのように記録され、伝えられ、意味づけられてきたのかを考えるための問いなのだ。


 橿原神宮は、古代の建国伝承が近代にどのように受け継がれたのかを考える手がかりにもなる。


 伝承があることと、伝承のすべてが同時代の事実として確認できることは、同じではない。


 しかし、伝承が後世に受け継がれたという事実そのものも、また歴史の一部なのである。


## 七 まだ掘られていない歴史


 ここで、もう一度、三星堆に戻ろう。


 あの青銅仮面は、なぜ土の中に埋められたのか。


 王国に大きな変化が起きたのか。

 祭祀のあり方が変わったのか。

 人々が別の土地へ移ったのか。

 それとも、私たちがまだ想像していない理由があったのか。


 いずれも、検討すべき可能性である。


 しかし、決定的な証拠がない以上、ひとつを正解とすることはできない。


 三星堆の文化が変化したあと、成都平原では金沙遺跡など、別の重要な遺跡が現れる。


 そこには、文化の移り変わりや、祭祀のあり方の変化を考える手がかりがある。


 けれども、それを単純に「ある王朝が滅び、別の王朝がすべてを奪った」という物語にしてしまえば、現実にあったはずの複雑さを見失うだろう。


 人々は、王が変わっても生き続けたかもしれない。


 職人は技術を受け継いだかもしれない。


 祭祀の一部は形を変えて残ったかもしれない。


 あるいは、かつて大切にされていたものが、次の時代には不要になったのかもしれない。


 その一つひとつを、遺物から確かめていく必要がある。


 王が交代するとき、歴史もまた書き換えられることがある。


 新しい王は、自分が王となった理由を語る。


 新しい王朝は、自分たちが受け継いだものを説明する。


 古い王の名が残されることもある。


 反対に、古い王の記憶が薄れ、後世の人々がその存在を忘れてしまうこともある。


 それは、必ずしも誰かが意図的に歴史を消したという意味ではない。


 記録が失われることもある。

 書き手が知らなかったこともある。

 残された資料が、偶然にも偏っていることもある。


 歴史から名前が消える理由は、一つではないのだ。


 だからこそ、歴史を調べるときには、記録されたものだけでなく、記録されなかったものにも目を向けたい。


 ただし、記録がない場所に、都合のよい物語を自由に書き込んではいけない。


 沈黙は、何かがあった証拠ではない。


 けれども、何もなかった証拠でもない。


 その沈黙の意味を探るために、私たちは考古学を必要とする。


## 結び 青銅の眼は、いまも沈黙する


 三星堆の遺跡は、すべてが掘り尽くされたわけではない。


 新しい発掘によって、これまでの仮説が強められることもあるだろう。


 反対に、正しいと思われていた説明が、修正されることもあるだろう。


 科学は、過去の答えを守るためにあるのではない。


 証拠が増えれば、説明を変える。


 それが、過去を調べるという営みの強さなのだ。


 三星堆の青銅仮面は、まだ語らない。


 しかし、その沈黙を前にして、私たちはすでに多くのことを学んだ。


 文字が残らなくても、物は残ること。


 史書に名前が書かれなくても、文明は存在し得ること。


 似ているものがあっても、それだけで同じものだとは断定できないこと。


 王の名が記録されても、その王が生きた時代のすべてがわかるわけではないこと。


 そして、歴史の空白を埋めるには、想像力だけでなく、証拠と、証拠を疑う勇気が必要なこと。


 中国の古代蜀から、殷王朝へ。


 倭の女王から、倭の五王へ。


 ワカタケル大王の名を刻んだ鉄剣から、継体天皇の時代へ。


 飛鳥の石造物から、水時計へ。


 鬼の俎と鬼の雪隠から、橿原神宮へ。


 それぞれの時代に、それぞれの人々がいた。


 彼らの名は、あるものは文字に刻まれ、あるものは史書に記され、あるものは後世の伝承の中に残った。


 そして、名を残せなかった人々も、確かにその時代を生きていたはずだ。


 王を支えた人々。

 王に従わなかった人々。

 新しい時代を受け入れた人々。

 受け入れられず、土地を離れた人々。


 彼らの声は、王の名ほど鮮明には残らない。


 それでも、彼らがいた世界を想像し、残された証拠から少しでも近づこうとすること。


 それこそが、歴史を学ぶ意味なのかもしれない。


 王は誰が決めたのか。


 誰が、王の正統性を語ったのか。


 誰の名が記録され、誰の名が失われたのか。


 何が神聖なものとされ、何が壊され、何が別の意味を与えられたのか。


 そして、私たちは、どこまでを史実と呼ぶことができるのか。


 奈良の石は、答えをすべて教えてはくれない。


 三星堆の青銅仮面も、答えを教えてくれない。


 大きく見開かれた眼は、ただ、こちらを見つめている。


 その眼の向こうに、王の姿があったのかもしれない。


 名を残せなかった職人がいたのかもしれない。


 歴史の中に記録されなかった、無数の人々の暮らしがあったのかもしれない。


 私たちには、まだわからない。


 だからこそ、問い続ける。


 歴史とは、勝者が残した物語なのか。


 それとも、勝者の物語の隙間から、失われた人々の声を探し続ける営みなのか。


 青銅の眼は、いまも沈黙している。


 飛鳥の石も、橿原の杜も、過去のすべてを語ってはくれない。


 けれど、物は残る。


 人々が与えた意味が変わっても。

 名前が忘れられても。

 物語が別の物語に置き換わっても。


 石は、そこにある。


 青銅は、土の中に眠っている。


 そして、いつの日か、新しい発見が、私たちの知っている歴史を書き換えるかもしれない。


 ――土の下には、まだ、私たちの知らない歴史が眠っている。


「歴史とは、誰が残し、誰が語り、誰が忘れられたのか」


この問いを読者の皆さまに、手渡して、幕を閉じましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。