第19話 前の管理者様のお名前と、地上への扉が見つかりましたわ
第九十四階層から追加の資料が届いたのは、朝食を終えて間もなくのことだった。
もっとも、届けに行った赤布ゴブリンが戻ってくるまで、セレスティアは役所の入口を何度も気にしていた。
自分で取りに行く必要はないと判断した。
それ自体は正しい。
だが、だからといって気にならなくなるわけではない。
「セレスティア、さっきから五回くらい入口見てるよ」
同じ机で帰還計画を確認していたリシェルに指摘され、セレスティアは手元の石板へ視線を戻した。
「たまたまですわ」
「六回目」
「数えないでくださいませ」
「自分で行かなかっただけ進歩だろ」
ガレンが笑いながらパンを齧っている。
「昨日までなら、報告を聞いた瞬間に九十四階層まで走ってた」
「走ってはおりません。きちんと歩いていました」
「訂正するところ、そこか?」
ノルドまで苦笑したところで、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
『モッテキタ!』
赤布ゴブリンが、両腕いっぱいに抱えた木箱とともに役所へ飛び込んでくる。
「お疲れさまでした。途中で開けていませんわね?」
『アケテナイ!』
「読んでも?」
『ヨンデナイ!』
「誰かへ話しました?」
『……』
「なぜそこで黙るのです」
『モフルニ、セレスティア、ヨロコブ、イッタ』
「それくらいなら構いません」
『キュウジュウゴニモ』
「まあ……」
『キュウジュウロクニモ』
「広めていますわね!?」
『ナイヨウ、イッテナイ!』
本人なりには我慢したらしい。
そこまで求めるのは酷かもしれないと、セレスティアは自分を納得させた。
「分かりました。きちんと届けてくださったことには感謝しますわ」
『オオ!』
胸を張る赤布ゴブリンから木箱を受け取ると、セレスティアは会議室へ運ぶよう頼んだ。
箱は古い。
角は擦れ、金具には錆が浮いている。
それでも旧管理施設の記録紙より状態が良いのは、内部に弱い保存魔術が残っているためらしい。
ノルドが蓋へ触れ、しばらく魔力の流れを確かめてから頷いた。
「開けても大丈夫だ。壊れかけてるけど、罠もない」
「では」
セレスティアが留め具を外す。
箱の中には三冊の帳面と、一枚の金属板、それから掌に収まるほどの古い魔石が入っていた。
最初に手に取った帳面の表紙には、かすれた人間の文字が残っている。
そこに書かれていた名を読み、セレスティアはわずかに目を見開いた。
「……《ルーファス・エルネスト》」
リシェルが身を乗り出す。
「それが前の管理者の名前?」
「どうやら」
表紙の下には、もう一行。
《終焉迷宮第一管理官 ルーファス・エルネスト》。
冒険者ではなかった。
予想は当たっていた。
「第一管理官ってことは、地上側の正式な役職か?」
ガレンの問いに、ノルドが考え込む。
「少なくとも本人だけで勝手に名乗った感じじゃない。肩書きの形式が古王国時代の官職に近い」
「古王国?」
セレスティアが聞き返すと、ノルドは帳面を傷めないよう慎重に頁をめくった。
「今の王国ができるより前だ。三百年以上昔。この迷宮についても、当時の記録はほとんど残ってない」
「三百年……」
それなら、モフルたちが名前を忘れていても不思議ではない。
むしろ建物と記憶の一部が残っていること自体、驚くべきことだろう。
セレスティアは、ルーファスという名を心の中でもう一度繰り返した。
誰も苦しまない迷宮を作ろうとして、全部を一人で抱え込み、そのまま倒れた人。
名前さえ分からなかった前の管理者が、ようやく一人の人間として輪郭を持った気がした。
「記録庫へ正式に残しましょう」
「名前も?」
リシェルが尋ねる。
「ええ。《旧管理官ルーファス・エルネスト記録》として。失敗だけ残すのは、少し不公平ですもの」
寝床を作った。
食事を変えた。
魔物たちに休息が必要だと気づいた。
最後は失敗してしまったとしても、その全部まで失敗だったわけではない。
◇
二冊目の帳面には、迷宮の構造と設備について書かれていた。
内容の多くは専門的で、セレスティアには理解できない部分も多い。そこでノルドにも手伝ってもらいながら読み進めると、途中で何度も同じ言葉が現れた。
「《管理者用転移網》……」
「やっぱりあったか」
ノルドの声に、ガレンが顔を上げる。
「何が?」
「昔の管理者が百階層まで徒歩で通ってたわけじゃないってことだ」
「当たり前だよね。毎回九十九階層降りてたら、仕事始める前に一日終わるよ」
リシェルの言葉はもっともだった。
ルーファスは第百階層から第八十七階層までを管理していた。
毎日のように各階層で問題が起きていたという記録もある。
ならば、移動手段が存在したはずだ。
「こちらですわ」
セレスティアは図面の一角を指した。
第百階層。
第九十四階層。
第八十七階層。
さらに上層へ、複数の点が線で結ばれている。
そして最上部。
迷宮の外側。
そこにも一つ、印があった。
「《地上第一管理所》」
会議室が静かになった。
ガレンが、しばらく図面を見たあとで尋ねる。
「それ……地上に出られるってことか?」
「可能性は高い」
ノルドの声も真剣になった。
「少なくとも昔は、地上と深層を直接移動する転移網が存在してた」
リシェルが椅子から立ち上がる。
「じゃあ私たち、九十階層分歩いて戻らなくていいの?」
「まだ使えれば、だけどな」
そこが問題だった。
セレスティアは帳面の続きを読む。
「《管理者用転移網は、各中継核を介して地上第一管理所へ接続する》」
さらに。
「《管理者死亡、または管理権限消失時、安全機構により地上接続を自動遮断》」
三人の表情が固まった。
「ルーファスが倒れたときに」
リシェルが呟く。
「切れたんだ」
「おそらく」
これは、第百階層の管理画面が示した情報とも一致する。
地上転移門との接続が遮断されている。
修復には地上側設備への接触が必要。
「でも、これだと結局地上側へ行かなきゃ直せないんじゃないか?」
ガレンの疑問に、ノルドも頷いた。
「普通に考えればそうなる」
「九十九階層上る話へ戻りました?」
「まだ分かりませんわ」
セレスティアは帳面から手を離さず、次の頁へ進んだ。
そこには、緊急時の修復手順が記されていた。
「《地上接続消失時、中継核から非常信号を送信可能》」
「非常信号?」
「《地上側設備が残存している場合、自動応答により一時接続を再確立》」
ノルドが勢いよく帳面を覗き込んだ。
「これだ」
「使えますの?」
「中継核が生きていれば」
「どこに?」
三人の視線が図面へ戻る。
一番近い中継核。
第九十四階層。
まさに。
昨日見つけた旧管理施設だった。
「……だから、あそこに記録が残っていたのですわね」
単なる住居ではない。
管理者用転移網の中継所。
そして地上への非常連絡設備まで置かれていた。
「赤布ゴブリン」
『ハイ!』
「昨日、あの建物の地下は確認しました?」
『シテナイ』
「モフルたちは?」
『シラナイ、イッテタ』
ならば。
まだ。
地下に設備が残っている可能性がある。
ガレンが椅子から立ち上がった。
「行くか?」
セレスティアも反射的に立ち上がりかけた。
しかし、途中で止まる。
「……まず、最後の資料を確認します」
ガレンが少し笑った。
「ちゃんと我慢したな」
「我慢ではありません。順序です」
「はいはい」
「その言い方、腹が立ちますわね」
それでもセレスティアは座り直した。
すぐ動くより、今ある情報を全部確認する。
昨日から。
少しずつ。
できるようになっている。
◇
最後に残った金属板には、文字ではなく複雑な魔法陣が刻まれていた。
ノルドが確認したが、単体では動かない。
「鍵みたいなものかもしれない」
「転移設備の?」
「ああ。管理権限を証明する認証板とか」
セレスティアが触れる。
その瞬間。
管理画面が開いた。
――旧管理者認証媒体を確認。
――現管理者権限と照合。
――権限継承条件、一部達成。
「継承?」
――旧管理網への接続権限を解放します。
金属板に。
淡い光が走った。
長いあいだ眠っていた魔法陣が、青白く輝き始める。
その中央に。
新しい文字が浮かんだ。
《中継核 九十四》
《状態:休眠》
《地上第一管理所:応答不明》
「応答不明……」
リシェルの表情が曇る。
「壊れてるのかな」
「それは、まだ分かりませんわ」
応答がない。
壊れている。
埋まっている。
地上側だけ電源に相当するものが失われている。
可能性はいくつもある。
ただ。
道が存在した。
それだけでも。
昨日までとは違う。
「非常信号を送れば?」
ガレンが尋ねる。
「第九十四階層の中継核を起動する必要があります」
「じゃあ、やっぱり行くんだな」
「ええ。ただし」
セレスティアは三人を見る。
「地上接続が戻ったとしても、すぐ飛び込まないでくださいませ」
「なんでだ?」
「三百年以上使われていない設備でしょう?」
沈黙。
「転送先が壁の中になっていたらどうするのです」
「……」
「地上側の建物が崩れていたら?」
「……」
「そもそも別の施設が建っていたら?」
ガレンが静かに座り直した。
「確認してからにしよう」
「賢明ですわ」
「今、俺かなり怖くなった」
「わたくしもです」
転移魔法は便利だ。
だが。
便利だからこそ。
三百年放置されたものへ不用意に飛び込む気にはなれない。
◇
ところが。
話はそこで終わらなかった。
セレスティアが三冊目の帳面を開くと、最後の数頁だけ筆跡が違っていた。
ルーファスの文字ではない。
「これは?」
ノルドが確認する。
「後から書かれてる」
「いつ頃?」
「ルーファスの記録よりは新しい。でも、それでもかなり古い」
セレスティアは読み始めた。
「《地上第一管理所、閉鎖を確認》」
三人の顔から笑みが消えた。
「《旧王国崩壊に伴い、管理制度廃止》」
「やっぱり古王国の施設だったのか」
「続きます」
《地上側は迷宮入口施設へ統合》。
「迷宮入口?」
ガレンが眉を寄せる。
「今の冒険者ギルドが管理してる入口か?」
「位置が同じなら、可能性はある」
ノルドも表情を険しくする。
セレスティアはさらに読む。
「《第一管理所地下区画は封鎖。一般侵入禁止》」
そして。
最後の一文。
「《管理者用転移門は、封鎖区画最深部に残置》」
静寂。
ガレン。
リシェル。
ノルド。
三人が。
顔を見合わせた。
「つまり」
リシェルがゆっくり言う。
「地上側の扉、今も迷宮入口の地下にあるかもしれない?」
「ええ」
「冒険者ギルドの下に?」
「可能性はありますわね」
ガレンが頭を抱えた。
「俺たち、九十九階層上る必要なかったじゃねえか……」
「まだ帰れると決まっておりません」
「でも扉はある」
「おそらく」
「何日も上へ向かって、領地四階層増やして、温泉宿二号館まで作って」
「結果としてです!」
「地上への近道、最初から九十四階層にあった」
「知らなかったのですから仕方ないでしょう!」
リシェルがとうとう笑い出した。
「でもさ」
「何です?」
「近道探してなかったら、九十四階層まで来なかったよ」
セレスティアが止まる。
「ルーファスの記録も見つからなかったし、代理統治権も手に入らなかった。九十五階層の人たちとも会ってない」
「……」
「だから遠回りでも、無駄じゃなかったんじゃない?」
セレスティアは。
少しだけ。
言葉を失った。
「そうですわね」
そして。
小さく笑った。
「珍しく良いことをおっしゃいますわね」
「珍しくは余計!」
◇
昼前。
第九十四階層へ向かう準備が始まった。
今回は大人数では行かない。
セレスティア。
ガレン。
ノルド。
リシェル。
護衛としてミノタウロス。
連絡役として赤布ゴブリン。
そして。
「バルガも?」
『コワレテル、ナオス』
「なるほど」
古い設備を動かすなら、鍛冶と設備修理に詳しいバルガは心強い。
『ゴルドモ』
「料理長は来なくて結構です」
会議室の入口でゴルドが少し不満そうな顔をする。
『メシ』
「日帰り予定です!」
『ベン トウ』
「……」
セレスティアは止まった。
「お弁当?」
『ウン』
「それなら」
ガレンが横から口を挟む。
「頼む」
「早いですわね」
「前回、保存食だけだったろ。ゴルドの飯あるなら欲しい」
リシェルも頷く。
「私も」
ノルドまで。
「俺も」
ゴルドが。
嬉しそうに厨房へ戻っていく。
「……結局お願いすることになりましたわね」
『メシ、ダイジ』
ミノタウロスが満足げに言う。
「そこだけは否定できなくなってきましたわ」
出発前。
セレスティアは役所へ一度振り返った。
今日は。
昨日までとは違う。
自分が出かけても。
ネストの運営を心配する必要はない。
評議会がある。
担当者がいる。
何かあっても。
自分が戻るまで。
町は動き続ける。
「では」
セレスティアは階段へ向き直った。
「前の管理者様が残した扉を、探しに参りましょう」
地上へ帰るための道。
そして。
地上から。
再びネストへ来るための道。
もし本当に。
それが繋がったなら。
世界最難関ダンジョンの最下層にある小さな町は。
もう。
地上から切り離された場所ではなくなる。
冒険者が来る。
商人が来る。
物資が来る。
そして当然。
セレスティアを処刑した王国にも。
いつか。
知られることになる。
それでも。
セレスティアの足取りに迷いはなかった。
地上へ戻るつもりはない。
だが。
「地上へ戻らないことと」
誰に言うでもなく。
小さく呟く。
「地上と関わらないことは、別ですものね」
自分を捨てた場所へ。
帰る必要はない。
けれど。
自分が作った場所へ。
誰を迎えるかは。
今度こそ。
自分で決められるのだから。




