第18話 代理領主を一人に決める必要はありませんわ
第九十四階層で見つけた旧管理施設を出る頃には、地下の森を照らしていた淡い緑色の魔石が少しずつ光を弱めていた。
地上のように太陽が沈むわけではない。それでもこの階層には一日の周期があるらしく、昼のあいだ明るかった植物の葉も徐々に光を失い、森全体が静かな夜へ移ろい始めている。
セレスティアたちは、その日のうちに領都へ戻ることにした。
旧管理者の記録については、状態の良いものだけを持ち帰り、残りは建物ごと保存する。崩れかけていた壁や屋根についても、モフルたちが望む以上の改築は行わず、まず雨漏りならぬ地下水漏れと倒壊の危険だけを取り除く方針に決めた。
そして何より、第九十四階層については編入しない。
少なくとも今は。
「本当に領地にしないんだな」
帰路の途中、ガレンが念を押すように尋ねてきた。
セレスティアは森の小径を歩きながら頷く。
「モフルたちから、領地へ入りたいという希望をまだ伺っておりませんもの。困っていることを手伝うのと、統治するのは別ですわ」
「昨日までなら、そのまま何となく領地になってた気がするけど」
「何となく領地を増やしていたわけではありません!」
「でも増えたよね」
リシェルが笑いながら言うと、セレスティアは反論しかけてやめた。
結果だけを見れば、第九十九階層から第九十六階層まで連続で領地が増えている。自分から征服したつもりは一度もないのだが、外から見れば、最下層へ落とされて十日もしないうちに四階層を統治下へ置いた女である。
十分に恐ろしい。
「これからは、もう少し慎重にいたします」
「それがいいと思う。ネストだけでも、ずいぶん大きくなってきたし」
「ええ。だからこそ、戻ったら先に《代理統治権》を整えますわ」
その言葉に、同行していた赤布ゴブリンが元気よく手を上げた。
『オレ!』
「何です?」
『ダイリ!』
「却下です」
『ハヤイ!』
「あなたに全権を渡したら、翌朝には全階層へ温泉の宣伝が行き渡っていますでしょう!」
『イイコト!』
「宿が足りなくなるのです!」
『ニゴウカン、アル!』
「二号館まで満室になりかけているから言っているのです!」
赤布ゴブリンは不満そうに頬を膨らませたが、連絡係としては非常に優秀である。問題なのは、優秀すぎて必要以上の情報まで広めるところだった。
セレスティアはそんな彼を見ながら、旧管理者の記録を思い返す。
一人に全部を集めてはいけない。
自分がいなくても領地が動くようにする。
それは理解した。
では、自分の代わりを一人決めれば、それで正しいのだろうか。
その疑問が、帰路についてからずっと頭の片隅に残っていた。
◇
領都へ戻ると、その疑問はさらに大きくなった。
「お帰りなさいませ、領主様」
役所へ入ったセレスティアを迎えたのは、受付担当になったゴブリンだった。
以前なら、セレスティアが戻った瞬間に大量の報告が積み上がっていたところだ。しかし今日は、受付台の上へ整理された石板が五枚置かれているだけである。
「留守中に問題は?」
「大きなものはありません。食堂から食材追加申請が一件、工房から工具申請が二件、宿から寝具補充の申請が一件です」
「温泉は?」
「利用者が多かったため、午後から大型浴場を三十分ごとの入れ替え制にしました」
「誰の判断です?」
「受付と浴場担当で相談しました」
セレスティアは少し目を見開いた。
「わたくしの許可なしで?」
その声に、受付のゴブリンが緊張したらしい。
「申し訳――」
「いえ」
セレスティアはすぐに首を横へ振った。
「責めているのではありません。むしろ、その程度は現場で決めていただいたほうが助かりますわ」
実際、問題は起きていない。
利用者が増えた。
待ち時間が長くなった。
だから担当者同士で相談し、入れ替え制にした。
わざわざ遠く離れた第九十四階層まで使者を走らせ、「三十分交代にしてよろしいでしょうか」と尋ねられるほうが困る。
「結果はいかがでした?」
「待つ方が減りました。ただ、ミノタウロス・ロード様から『短い』という苦情が三度ありました」
「それは却下で結構です」
受付のゴブリンが、少しだけ笑った。
「すでに三度却下しました」
「完璧ですわ」
セレスティアは思わず笑ってしまった。
自分がいなくても。
問題が起きて。
誰かが考え。
誰かが決めて。
解決している。
旧管理者が作れなかったものが、すでにネストには生まれ始めている。
◇
その日の夕食後。
セレスティアは、役所の会議室へ主要な担当者を集めた。
厨房からはゴルド。
工房からはバルガ。
宿と受付を代表して二体のゴブリン。
連絡係の赤布ゴブリン。
警備側からミノタウロス・ロード。
第九十九階層からリーネ。
さらにガレン、ノルド、リシェルにも同席してもらった。
「代理統治権?」
ガレンが席へ座りながら聞き返す。
「ええ。わたくしが領地を離れている間や、何らかの理由で判断できない場合に、管理権限の一部を他の方へ預けられるようになりました」
『オレ!』
赤布ゴブリンがまた手を上げる。
「先ほど却下しました」
『マダ、カイギ!』
「会議になっても却下です」
『ブモ』
今度はミノタウロスが手を上げた。
「まさか、あなたも?」
『オレ、ツヨイ』
「強さだけで領地運営はできません」
『メシ、ワカル』
「好みしか分からないでしょう!」
『オンセンモ』
「なお悪いですわ!」
会議室に笑いが起きた。
セレスティアも少し笑ったが、やがて表情を整え、皆を見回した。
「最初は、わたくしの代わりとなる方を一人決めようと思っていました」
旧管理者には補助管理者がいなかった。
だから自分は、一人決める。
それが単純な答えに思えた。
「ですが、帰る途中で考え直しました。一人へ全部を預ければ、結局その方が倒れたときに同じことが起こります」
ゴルドが首を傾げる。
『ゼンブ、ヒトリ、ダメ?』
「駄目とは申しません。ただ、厨房のことならゴルドのほうがわたくしより詳しいでしょう?」
『ウン』
「工房ならバルガ」
『ウン』
「各階層の連絡なら赤布ゴブリン。宿については受付担当。警備についてはミノタウロスや各階層の警備責任者。それぞれに詳しい方がいます」
セレスティアは、机の中央へ置いた石板に円を描き、その周囲へいくつもの役割を書き込んでいった。
「でしたら、一人の代理領主を作る必要はありません。わたくしが不在のときは、それぞれの担当者が自分の範囲を管理し、大きな問題だけ皆で相談すればよろしいでしょう」
ノルドが感心したように石板を覗き込む。
「評議会みたいなものか」
「評議会?」
「地上の都市でもある。複数の責任者が集まって決める仕組みだ」
「なるほど。《統治評議会》とでも呼びましょうか」
管理画面へ入力すると、淡い文字が浮かんだ。
――代理統治権の複数指定が可能。
――権限領域を設定してください。
「やはりできますのね」
セレスティアは少し嬉しくなった。
まず厨房。
食材在庫、献立、厨房勤務、調理人配置についてはゴルド。
「ただし、食材を好きなだけ発注してよいという意味ではありません」
『……』
「今、何を考えました?」
『ニク』
「先に言っておいて正解でしたわね」
次に工房。
設備修理、鍛冶、工具、素材管理についてはバルガ。
宿泊施設については受付責任者。
階層間の通常連絡は赤布ゴブリン。
警備はミノタウロスと各階層の担当者。
さらにリーネには、第九十九階層の住民側から意見を集める役目を頼んだ。
『ワタシ?』
「嫌でしたら断って構いません」
リーネは少し考え、自分の脚へ巻いた布飾りを見たあとで頷いた。
『ヤル。でも、マイニチジャナイ』
「もちろん。あなたには編み物をする時間も必要でしょう?」
『ウン』
「それで結構です」
仕事を任せることと、仕事だけの存在にすることは違う。
それも。
ここへ来て学んだことだった。
◇
権限分配は順調に進んだが、一つだけ揉めた。
「緊急時の最終判断です」
ノルドが指摘した。
「セレスティアがいなくて、各担当の意見が割れた場合はどうする?」
「多数決では?」
「命に関わる緊急事態で、全員集まる時間がないこともある」
「確かに」
たとえば冒険者の大規模侵入。
階層設備の崩壊。
突然の災害。
すべてを会議に掛けている余裕がない場合もある。
『オレ』
ミノタウロスが自信満々に胸を張った。
「だから力だけで決めないでくださいませ」
『ツヨイ、ダイジ』
「戦闘時には大事です。しかし、食堂の火事まで戦斧で解決されては困ります」
『ミズ、カケル』
「少し進歩しましたわね」
リシェルが笑いながら手を上げた。
「じゃあ、内容によって緊急責任者を変えたら?」
「内容によって?」
「戦闘なら警備。設備なら工房。病気なら治療担当。誰の担当か分からないときだけ、複数人で判断する」
セレスティアは少し考えた。
合理的だ。
「採用します」
「早いね」
「良い案を、わざわざ寝かせる理由があります?」
「それもそうだね」
すぐに規則へ追加する。
すると管理画面が一度だけ明滅した。
――代理統治体制を確認。
――領主不在時運営条件を達成。
――《統治評議会》を登録しますか?
セレスティアは目を見開いた。
「迷宮側にも同じ名称がございますの?」
「何て?」
「《統治評議会》として正式登録できるそうです」
ガレンが笑った。
「また迷宮に認められたな」
「では登録します」
――登録完了。
――統治評議会に限定管理権限を付与。
――領主不在時の領地運営安定度が上昇しました。
その文字を見た瞬間、セレスティアは思っていた以上に安堵した。
自分がいなくてもいい。
それは寂しいことではない。
むしろ、自分が望んでいた場所に近づいている証拠なのだ。
◇
「それでは、試験をします」
会議を終えた直後、セレスティアはそう宣言した。
ガレンが嫌な予感を覚えたように眉を寄せる。
「試験?」
「今から明日の朝まで、わたくしは通常業務へ口を出しません」
会議室が静かになった。
赤布ゴブリンが目を丸くする。
『ホント?』
「本当です」
『ナニモ?』
「緊急時以外は」
ミノタウロスが尋ねる。
『ナニスル?』
「休みます」
今度こそ。
本当に。
部屋全体が静まり返った。
「……何です、その反応は」
リシェルがゆっくりと口元を押さえた。
「いや、ちょっと感動してる」
「大げさです!」
「セレスティアが、自分から丸一日休むって」
「明日の朝までですから丸一日ではありません!」
「訂正するところそこ?」
ガレンまで笑い始める。
「何すんだ?」
「まだ決めておりません」
『オンセン』
ミノタウロスが即答した。
「あなたは温泉から離れてくださいませ」
『メシ』
今度はゴルド。
「それは食べます」
『ハコ』
なぜか会議室の外から骸骨兵。
「入りません!」
リーネが、少しだけ脚を上げた。
『アム?』
「編み物ですか?」
『オシエル』
「わたくしに?」
『ウン』
セレスティアは少し驚いた。
編み物。
公爵令嬢として刺繍は習ったことがあるが、蜘蛛糸を編んだ経験など当然ない。
「……面白そうですわね」
『ジャア、ヤル?』
「お願いします」
リーネの脚が嬉しそうに揺れた。
仕事とは関係がない。
領地の改善でもない。
利益にも。
ランキングにも。
誰かの評価にも関係がない。
ただ。
やってみたいからやる。
そんな時間を持つことに、セレスティアはまだ少しだけ慣れていなかった。
◇
夜。
第九十九階層の一角。
リーネの巣には、蜘蛛糸で作られた大小さまざまな布が並んでいた。
セレスティアはその中央に座り、細い糸を指へ巻いている。
「これを、こちらへ?」
『ウン。チガウ』
「違いますの?」
『コッチ』
「ああ……こう?」
『チガウ』
「難しいですわね」
『セレスティア、ヘタ』
「初めてなのですから当然でしょう!」
リーネが。
くすくすと笑った。
巨大蜘蛛が笑っている。
地上にいた頃なら、想像すらできなかった光景だ。
何度か失敗した末、どうにか小さな四角形ができた。
形は少し歪んでいる。
「……これは何に使えます?」
『コースター』
「こーすたー?」
『ゴルド、オシエタ。コップ、ノセル』
「まあ」
どうやらゴルドが食堂用に欲しがっているらしい。
「では役に立ちますわね」
『……』
リーネが黙る。
「どうしました?」
『ヤクニタタナイノ、ダメ?』
セレスティアは一瞬、答えられなかった。
役に立つ。
価値がある。
必要とされる。
自分も。
そんな基準で物事を考える癖がある。
「……いいえ」
歪んだ蜘蛛糸の布を見る。
「別に、役に立たなくてもよろしいのでしょうね」
『ウン』
「楽しかったなら」
『ウン』
セレスティアは。
少し笑った。
「それで十分ですわ」
◇
その頃。
役所では。
セレスティアの知らないところで。
最初の小さな問題が起きていた。
『ニク、タリナイ』
厨房のゴルド。
『キョウ、キャク、オオイ』
受付担当。
『キュウジュウゴ、ジュウニン、キタ』
赤布ゴブリン。
『ヨヤク?』
『シテナイ』
全員が。
少し考える。
以前なら。
すぐに。
「セレスティアへ聞こう」
となっていただろう。
だが。
今日は。
厨房。
宿。
連絡。
それぞれの担当者が。
石板を囲んだ。
『ニク、アシタノブン、ツカウ?』
『ダメ』
『サカナ、アル』
『アル』
『キュウジュウゴ、サカナ、スキ』
『ジャア、サカナ』
『ヘヤ、ロク』
『ジュウニン』
『ヨニン、キュウジュウハチノ、キュウケイジョ』
『トマレル?』
『キク』
話は。
少しずつ。
まとまっていく。
誰も。
領主を呼びに走らなかった。
◇
翌朝。
セレスティアが役所へ顔を出すと、受付には一枚の報告書が置かれていた。
「昨夜、第九十五階層から十名?」
「はい。予約なしでした」
「それで?」
「宿泊室が六名分しか空いていなかったため、四名は本人たちの希望を確認したうえで第九十八階層の安全区画へ案内しました。食堂の肉が不足していたので、魚料理へ変更しています」
「問題は?」
「ありませんでした」
「苦情は?」
「魚がおいしかったそうです」
セレスティアは。
しばらく。
報告書を見た。
「……完璧ではありませんの」
受付担当が少し誇らしそうに胸を張った。
「それで」
セレスティアは周囲を見る。
「わたくしへの緊急連絡は?」
「ありません」
「一度も?」
「はい」
「……そう」
少しだけ。
寂しい。
ほんの少しだけ。
でも。
それ以上に。
嬉しい。
「では」
セレスティアは。
報告書へ承認の印を入れた。
「今後も同程度の問題は、皆様で判断してくださいませ」
「はい!」
その瞬間。
管理画面が静かに開いた。
――統治評議会による独立処理を確認。
――領地運営安定度上昇。
――領主依存率、大幅低下。
「領主依存率なんて項目までございましたの……」
少し不満を覚えながらも。
数字は。
確かに。
良い方向へ動いている。
その直後。
もう一つ。
別の通知が現れた。
――第九十四階層より連絡。
「モフルたちから?」
――旧管理記録の追加資料を発見。
セレスティアの表情が変わった。
――旧管理者の個体名を確認。
「名前が……?」
昨日まで。
誰も思い出せなかった。
前の管理者。
その名が。
ようやく見つかった。
さらに。
もう一行。
――記録内に地上側施設への言及あり。
セレスティアは。
表示を見つめたまま。
しばらく動かなかった。
「地上側?」
ガレンたち三人を。
帰すために探しているもの。
第百階層の管理画面では、地上側設備へ接触しなければ修復できないと表示された。
地上転移門。
その手掛かりが。
旧管理者の記録に。
残っている可能性がある。
セレスティアは。
すぐに立ち上がりかけて。
そこで止まった。
「……赤布ゴブリン」
『ハイ!』
「第九十四階層へ、追加資料をこちらへ持ってこられるか確認してください」
『セレスティア、イカナイ?』
「今すぐ行く必要はありません」
以前なら。
自分で。
すぐに走っていただろう。
しかし。
資料だけなら。
運んでもらえばいい。
「内容を確認してから、必要なら参ります」
『ウン!』
赤布ゴブリンが走り出す。
「それから!」
『?』
「途中で勝手に読んで、全階層へ広めない!」
『……』
「その間は何ですの!?」
『ヨマナイ!』
「絶対ですわよ!」
勢いよく駆けていく背中を見送りながら。
ガレンが笑った。
「一晩休んだだけで、ずいぶん変わったな」
「何がです?」
「すぐ自分で行かなくなった」
「必要なら行きます」
「でも、必要かどうか先に考えるようになった」
セレスティアは少しだけ黙り。
やがて。
「……そうかもしれませんわね」
と。
小さく笑った。
領主がいなくても。
領地は動く。
誰か一人が。
全部を背負わなくても。
町は続いていく。
そして。
その仕組みができたからこそ。
セレスティアは。
ようやく。
自分にしかできないことへ。
時間を使えるようになり始めていた。
地上への道。
前の管理者が残した謎。
そして。
まだ第九十四階層の先に続いている。
世界最難関ダンジョンの上層へ向かう道。
領都が。
自分の足で立ち始めた今。
止まっていた物語もまた。
少しずつ。
地上へ向けて動き始めようとしていた。




