第17話 前の領主様は、全部ひとりで抱えてしまったようですわ
古い石造りの建物には、長いあいだ誰も住んでいなかったらしい。扉を開けた瞬間から乾いた埃の匂いが漂い、壁際に並ぶ棚の多くは傾き、机の上には朽ちかけた紙束や用途の分からない魔道具が置き去りにされていた。
それでも、人間がここで生活していた痕跡だけは、はっきり残っている。
椅子や寝台、食器、書きかけの記録。そして何よりも、壁へ直接刻まれた文字があった。
「《終焉迷宮管理記録》……」
セレスティアはその文字をもう一度読み上げ、すぐ下へ視線を移した。
そこには、《第百階層統治計画》とある。
今、自分が領都を置いている第百階層。そこを、過去にも誰かが統治しようとしていたということになる。
ガレンは部屋の奥まで進み、棚の中を覗き込みながら尋ねた。
「どれくらい昔なんだ?」
「紙の状態だけでは分かりませんわね」
ノルドが崩れかけた記録紙を慎重に持ち上げ、その表面へごく弱い魔力を流した。紙の縁に、古い保存魔術の光がかすかに浮かぶ。
「保存魔術が掛けられてる。かなり弱ってるけど、これがなかったら、とっくに読めなくなってたはずだ」
「つまり、それなりに昔?」
「ああ。少なくとも数十年程度じゃないと思う」
リシェルは部屋の隅にある小さな祭壇のような台を眺めながら、腑に落ちない様子で首を傾げた。
「でも変だよね。人間がここまで来た記録なんて、地上には残ってないよ。人類最深到達記録は八十二階層なんでしょう?」
「公式にはな。昔、一人だけ秘密裏に来たとか、その可能性はある」
ガレンの推測を聞きながら、セレスティアは壁へ刻まれた文字に指先を触れた。
「この方、冒険者ではなかったのではありません?」
「なんで分かる?」
「書いてあるのが《攻略記録》ではなく、《管理記録》と《統治計画》だからですわ」
敵を倒した記録でもなければ、どの階層へ到達したかを誇る内容でもない。この場所を攻略するのではなく、管理し、暮らせる場所として治めようとしていた。
その考え方は、自分とひどく似ている。
◇
最初に読めそうだったのは、机の一番上に置かれていた記録だった。
紙自体はかなり傷んでいたが、ノルドが保存魔術を補助したことで、どうにか文字を追える状態にはなった。
「《管理開始、二十三日目。第百階層の魔物は命令に従順。戦闘能力は非常に高い。ただし、休息の概念が乏しく、消耗が激しい》」
セレスティアが読み上げると、リシェルが思わず小さく息を呑んだ。
「同じだね。セレスティアが最初に見たときと」
「ええ」
続きを読む。
「《食料環境も劣悪。栄養塊のみ。改善が必要。寝床を試験導入、反応良好。温水設備についても検討する》」
「温泉まで?」
リシェルが思わず笑ったが、セレスティアは首を横へ振った。
「天然温泉かどうかまでは分かりません。ただ、この方も食事や寝床や休息を改善しようとしていたのは確かですわね」
同じことを考えた人間が、過去にもいた。
セレスティアは少しだけ複雑な気持ちになった。
モフルに名前を尋ねてみたが、返ってきたのは首を傾げる仕草だった。
『……ワスレタ。ミンナ、ワスレタ』
「ずいぶん昔ですものね」
『デモ、ココ、ダイジ』
名前は失われても、この建物が大切な場所だったという記憶だけは残っているらしい。
誰かが、ここで本気で迷宮を変えようとした。その痕跡だけが、今まで消えずに残っていた。
◇
次の記録には、《管理開始、六十一日目》とあった。
「《居住区画の改善は順調。ただし、各階層からの要望が急増し、対応が追いつかない》」
ガレンが嫌そうな顔をした。
「今のネストみたいだな」
「少し似ていますわね」
「少し?」
リシェルが指を折りながら数え始める。
「宿泊希望、休暇希望、仕事を変えたい、温泉へ入りたい、それから箱の蓋を増やしたい――」
「最後だけは特殊例です!」
セレスティアが即座に否定すると、ガレンが笑った。
「でも要望そのものは増えてるだろ」
「そこは否定いたしません」
記録へ視線を戻す。
「《九十九階層より要請。九十八階層より要請。九十七階層より要請。すべて対応する。すべて自分で確認する》」
そこで、セレスティアの眉がわずかに寄った。
「《住民の希望は、管理者である私が直接聞くべきだ。食料配分も自分で。勤務表も自分で。設備調整も自分で。階層間交渉も自分で行う》」
リシェルが何とも言えない顔でセレスティアを見た。
「……何です、その目は」
「いや、ちょっと前のセレスティアに似てるなって」
「今は分担しております!」
「役所を作るまでは、全員の勤務表を自分で見てたよな」
ガレンまで加わり、セレスティアは少しだけ目を逸らした。
確かに、似ている。
必要だから自分でやる。自分が一番分かっている。自分がやったほうが早い。誰かに任せて間違えられるくらいなら、自分でやればいい。
王宮にいた頃の自分も、ずっとそうだった。
「……続きを読みますわ」
今度の声は、先ほどより少し静かだった。
◇
《管理開始、百四十七日目》。
そこから先の文字は、それまでより明らかに乱れていた。
「《睡眠時間、三時間。各階層からの報告、未処理百二十六件。食料問題、自分が行く。設備故障、自分が行く。住民同士の争い、自分が行く》」
読み進めるほど、セレスティアの胸に覚えのある感覚が積もっていく。
「《誰かへ任せると遅い。私がやれば、もっと早い》」
その一文で、リシェルは何も言わなくなった。
セレスティア自身も、王宮で何度そう考えたか分からない。人へ説明する時間があるなら自分でやる。間違えられるくらいなら自分で確認する。責任を取るのも自分なのだから、最初から最後まで自分でやればいい。
「セレスティア」
リシェルが優しく呼んだ。
「大丈夫です。少し耳が痛いだけですわ」
そう答えて、さらに読む。
「《住民たちは休めと言う。必要ない。私は管理者だ。皆を休ませるために、私が休むわけにはいかない》」
そこで、セレスティアは続きを読めなくなった。
ミノタウロスも、ゴルドも、ケルベロスも、自分へ同じことを言った。休め、と。
そして自分は最初、大丈夫だと答えた。
「……馬鹿ですわね」
ぽつりと漏れた声に、リシェルが尋ねる。
「誰が?」
「この方です。それから、以前のわたくしも」
セレスティアは苦笑した。
◇
記録は、その後急速に暗くなっていった。
「《管理開始、二百一日目。第九十一階層で事故。判断遅延。対応できなかった。負傷者多数》」
さらに続く文字は、ほとんど自分自身を責める言葉ばかりだった。
私がもっと早ければ。
私が全部見ていれば。
私が。
私が。
何度も、同じ言葉が繰り返されている。
「逆になってるな」
ノルドが静かに言った。
「全部自分でやろうとしたから遅れたのに、遅れた理由を『もっと自分でやらなかったから』って考えてる」
「ええ」
一度、自分が責任を負うことが当たり前になると、失敗したときに人へ任せる方向へは考えにくくなる。
もっと頑張る。
もっと寝ない。
もっと抱える。
それが責任感だと思い込んでしまう。
「《住民から補助管理者を選ぶ提案。却下。権限を渡せば混乱する》」
ガレンがため息をついた。
「決定的だな」
「役所を作った今のセレスティアとは逆だね」
リシェルの言葉に、セレスティアは小さく頷く。
「今なら分かります。赤布ゴブリンには連絡を、バルガには工房を、ゴルドには厨房を任せる。皆が自分の担当を持ったほうが、領地はわたくし一人で管理するよりずっとよく回る」
「でも、昔のセレスティアだったら?」
ガレンの問いに、少し考えてから答えた。
「この方と同じ判断をした可能性はありますわね」
「認めるんだな」
「認めます。誰かへ任せて失敗されたら、自分でやらなかったことを後悔していたでしょうから」
「今は?」
「任せて、確認します」
リシェルが少し笑う。
「全部任せきりじゃないところはセレスティアらしいね」
「当然でしょう。領主ですもの」
◇
最後に近い記録は、紙ではなく、小さな記録魔石の中に残されていた。
ノルドが慎重に魔力を流すと、淡い光が灯り、ひどく疲れた声が部屋へ響いた。
『――記録、三百十二日目。第百階層から第八十七階層まで、管理範囲拡大』
「八十七階層まで……」
ガレンが低く呟く。
今のセレスティアより、遥かに広い。
『住民数、四千八百二十一。未処理申請、千三百七十六。管理補助、なし』
リシェルが息を呑んだ。
セレスティアは黙ったまま聞き続ける。
『私が、全部やる。ここを、誰も苦しまない場所にする。だから、私が止まるわけにはいかない』
理想そのものは、自分とほとんど同じだった。
誰も苦しまない場所を作りたい。
休める場所を作りたい。
暮らせる場所へ変えたい。
ただ、そのために全部を一人で抱えた。
そして、音声はそこで途切れた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
◇
「その方は、どうなったのです?」
セレスティアが尋ねると、モフルは古い寝台を見つめながら、小さな声で答えた。
『タオレタ。ズット、ネナイ。ゴハン、タベナイ。ミンナ、ヤスメ、イッタ。デモ、ヤスマナイ』
戦死したわけではない。
魔物に殺されたわけでも、冒険者に討たれたわけでもない。
ただ働き続け、眠らず、食べず、全部を一人で抱えた結果。
『アルヒ、オキナカッタ』
リシェルが目を伏せた。
ノルドが、少し間を置いて尋ねる。
「そのあと、管理はどうなった?」
『ナクナッタ。ケンゲン、キエタ』
「迷宮側へ戻ったのか」
『ウン』
補助管理者はいなかった。
仕組みもなかった。
全部が一人の頭、一人の判断、一人の権限に集まっていた。
だから、その一人が消えた瞬間、全部が止まった。
「……最悪の属人化ですわね」
「ぞくじんか?」
ガレンが首を傾げる。
「その方がいないと、何も動かない仕組みです。領主が倒れたら領地まで倒れる。それでは、領地とは呼べませんわ」
セレスティアは少し寂しそうに、記録魔石を見つめた。
◇
その日の午後、セレスティアは古い管理記録を一冊ずつ整理していた。
持ち帰るものと、ここへ残すもの。崩れそうな記録にはノルドが保存魔術を施し、リシェルはモフルたちから昔の話を聞いている。ガレンは建物そのものの補修箇所を確認していた。
そんな中、赤布ゴブリンが勢いよく駆け込んできた。
『ホウコク!』
「はい?」
『ネスト、ダイジョウブ! セレスティアイナイ。デモ、ダイジョウブ!』
続けて、ゴルドは食堂、バルガは工房、受付も温泉も問題なく回っていると報告する。
セレスティアは目を瞬いた。
自分がいなくても、ネストは動いている。
料理は出る。
工房は働く。
宿は開く。
温泉も役所も止まらない。
「それは、とても良い報告ですわ」
『セレスティア、イラナイ?』
「そこまで言われると少し腹立ちますわね!」
『チガウ?』
「違いませんけれど!」
それでも。
これでいい。
自分がいなくても回る。
それこそ、良い領地なのだ。
セレスティアは古い記録魔石へ視線を戻し、小さく呟いた。
「わたくし、同じにはなりませんわ」
◇
夕方、一行は古い管理施設の前へ集まった。
「この建物は残したいです?」
セレスティアの問いに、モフルたちは揃って頷いた。
「では壊しません。必要な補修だけいたしましょう。それと、この方の記録も残します」
失敗の記録ではある。
しかし、この人が寝床を作り、食事を変え、休息を考えたからこそ、今のセレスティアはその先へ進める。
「名前、どこかに残ってないかな」
リシェルが言うと、ノルドが一冊の帳面を開いた。
「探してみる」
「お願いします」
その瞬間、セレスティアの管理画面が小さく点滅した。
――特殊条件達成。
「今度は何です?」
――旧管理者記録を確認。
――統治失敗原因を認識。
――新規権限を解放。
表示されたのは、《代理統治権》。
領主不在時には指定した住民へ限定管理権限を自動委譲し、領主が行動不能になった場合でも領地運営を継続できる。
説明を読み終えたセレスティアは、しばらく黙っていた。
「何だ?」
ガレンが尋ねる。
「正式に、わたくしがいなくても領地を回せるようになります」
「それって」
リシェルも意味を理解したらしい。
「前の人が一番必要だったものじゃない?」
「ええ」
セレスティアは古い建物を見つめた。
「ですから、この方の失敗も無駄ではありませんわ」
そしてすぐに顔を上げる。
「ネストへ戻ったら、代理責任者を決めます」
ガレンがにやりと笑った。
「自分が休むため?」
「領地を守るためです!」
「温泉に長く入れるな」
「それは別ですわ!」
重くなりかけていた空気に笑いが戻る。
第九十四階層は、まだセレスティアの領地ではない。
けれど、ここで得たものは領地一つより大きかった。
誰も苦しまない場所を作ろうとして、誰よりも自分を苦しめ、最後には全部を止めてしまった前の管理者。
その失敗を、今度は繰り返さない。
セレスティアはもう、一人で領地を作っているのではない。
ネストには任せられる者がいて、自分へ休めと言ってくれる者もいる。
自分が倒れても続いていく場所へ。
領都は、少しずつ変わり始めていた。
世界最難関ダンジョンの最下層で、新しい領主はようやく理解し始めている。
自分が全部やることと、責任を持つことは、同じではないのだと。




