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風林火山 ~甲府に還る日~  作者: Yoshhi‑Yama


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第四話「待つ者の川中島」

第四話は戦国パート。永禄四年、第四次川中島の戦いへと発っていく弟・新八と、それを見送り、待ち続ける梅たちの日々を描きます。史実に伝わる出来事も一部取り入れていますが、望月家の人々はすべて、この物語のための創作であることをお断りしておきます。

挿絵(By みてみん)

出陣の朝は、拍子抜けするほど静かに明けた。


新八は、母の形見だという鎧直垂を身につけ、玄関先で梅と向き合った。まだ声変わりの残る、少し高い声で、努めて明るく言う。


「姉上、行って参ります。すぐに戻りますゆえ」


「新八」


梅は、弟の胴に巻かれた紐の結び目を、もう一度きつく結び直した。手が震えているのを、悟られないようにしながら。


「風のように、駆けなさい。けれど、無理はしないで。あなたが山のように帰ってくることだけを、私は待っています」


新八は一瞬、驚いたように目を見開き、それから照れくさそうに笑った。


「姉上の書いた旗が、御本陣にあるのですね。それだけで、心強い」


梅は何も言えず、ただ深く頷いた。弟の背中が、大手門の向こうへ消えていくまで、梅はその場を動かなかった。


それから半月あまり、望月の屋敷には、重い沈黙が続いた。


父・新左衛門は床から起き上がれる日が増えたものの、まだ本調子には遠い。梅は、家のことと、父の看病と、そして「待つ」という、これまで経験したことのない仕事に、日々を費やした。


噂は、少しずつ屋敷にも届いた。信濃の川中島で、両軍がぶつかり合ったこと。武田方も上杉方も、これまでにない激しい戦になったこと。そして――軍師・山本勘助様が、討死なされたらしいという知らせ。


その報せを聞いたとき、父は目を閉じたまま、長い間、何も言わなかった。


「勘助様は……」


ようやく絞り出した父の声は、涙で濡れていた。


「あの御方があってこその、御旗であった。あの御方が、この四つの言葉を、御屋形様に進言なされたと聞く」


梅は、自分が書いた旗が、その人の最後の戦いに掲げられていたことを思うと、胸が押しつぶされそうになった。だが、今、悲しみに沈んでいる暇はない。まだ、新八の安否が分からないのだ。


夜ごと、梅は縁側に座り、遠く信濃の方角へ目を凝らした。何も見えるはずがないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。


――徐かなること林の如く。


じっと息をひそめ、嵐が過ぎるのを待つ林のように。梅は、その言葉を、幾度も自分に言い聞かせた。速さだけが強さではない。今、自分に必要なのは、揺らがずに待ち続けることだと。


新八が屋敷に戻ってきたのは、それからさらに十日ほど経った、肌寒い夜のことだった。


「姉上……ただいま、戻りました」


土埃にまみれ、右腕を布で吊った弟の姿を見た瞬間、梅は駆け寄り、抱きしめることも忘れて、ただその場に泣き崩れた。


「よく……よく、戻ってくれました」


新八の傷は深くはなかったが、目の前で多くの朋輩が斃れるのを見たという。あの快活だった弟の顔から、あどけなさが完全に消えていることに、梅は気づいた。戦とは、こういうものなのだと、梅は初めて、実感として理解した。


新八が帰還してからひと月後、父・新左衛門は、静かに息を引き取った。まるで、弟の無事を見届けるのを待っていたかのように。


葬儀の後、梅は父の文机の前に座り、硯と筆を見つめた。この役目を、これから誰が継ぐのか――誰も、その問いを口にしなかった。だが、答えは、すでに屋敷の誰の目にも明らかだった。


「姉上が、望月の右筆をお継ぎになるのですね」


新八の言葉に、梅は静かに頷いた。もう迷いはなかった。


翌年の春、梅のもとには、近隣の百姓や町人の娘たちが、ぽつぽつと集まるようになった。文字を教えてほしい、という頼みだった。表向きは望月家の内職のようなささやかな集まりだったが、梅は一人ひとりに、根気よく手習いを教えた。


「なぜ、女子に文字など、と仰る方もおられましょう」


ある日、教え子のひとりにそう問われた梅は、少し考えてから、静かに答えた。


「風のように速く動ける者、林のように静かに支えられる者、火のように何かを守るために燃える者、そして山のように動かぬ心を持つ者――そのどれもが、この世には要るのです。それは、男も女も同じこと」


その言葉が、後の世にどう伝えられていったのか、この物語では詳しくは語らない。ただ、望月の家に、女たちが学ぶ小さな灯りが点り続けたことだけは、確かなことだった。


その年の秋、梅は望月家の蔵の奥深くに、あの日書いた御旗の控え――同じ文字を認めた、もう一幅の絹地を、大切に仕舞った。


いつか、誰かがこれを開く日が来るように、と願いながら。

第四話、お読みいただきありがとうございました。川中島の戦いという史実の大きな出来事の陰で、待ち、支え、そして次の世代へと灯りをつなぐ人々がいた――そんな回になったかと思います。


梅の物語は、ひとまずここで大きな山場を越えました。次回、第五話は再び現代パートへ。志乃が、これからの自分の生き方を選び取っていく回になります。物語も、いよいよ終盤に近づいてまいりました。

関連動画です。梅の目線から見た川中島の戦いを楽曲にしました。https://youtube.com/shorts/trQFpI6tVy4

弟の新八の目線から見た姉への思いを楽曲にしました。https://youtube.com/shorts/pWZCOIuH7e4

(第五話へ続く)

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