第五話「動かぬ心」
第五話は現代パート、そして物語もいよいよ終盤です。志乃が、東京での仕事や、これからの暮らしについて、自分なりの答えを見つけていく回になります。
甲府に来て、二週間が過ぎた頃。志乃のスマートフォンに、東京の元上司から連絡が入った。
『体調はどう? 実は今度、部署の再編があって、もし戻る気があるなら、前より少し働きやすい形で席を用意できると思う』
画面を見つめながら、志乃はしばらく動けずにいた。それは、以前の自分なら、飛びついていたはずの誘いだった。
夕方、縁側で洗濯物を取り込んでいたハツに、志乃はぽつりと打ち明けた。
「東京の会社から、連絡があったの。戻ってきていいよって」
「そうかい」
ハツは手を止めず、淡々と続けた。
「志乃は、どうしたいんだい」
「分からない……。でも」
志乃は、庭先の掛け軸――今はもう蔵に戻さず、居間に小さく飾ってある、あの四行の文字を見つめた。
「前は、とにかく速く走ることばかり考えてた。誰かに追い立てられるみたいに。でも、こっちに来て、色んな話を聞いて……速く走ることだけが、強さじゃないんだなって、思うようになった」
「林のように、かい」
「うん。それに、火のように、何かに本気になることも。山のように、動かないでいることも」
ハツは洗濯物を抱えたまま、志乃をじっと見つめ、それから、ふっと目を細めて笑った。
「あんたのひいひいお祖母ちゃんの、そのまたお祖母ちゃんも、きっとそうやって、悩んだんだろうねぇ」
その週末、志乃は春香のカフェを手伝いに行った。
古い民家を改装した店内には、地元の食材を使ったメニューと、春香が集めた甲府の歴史にまつわる小さな展示コーナーがあった。志乃は、これまでの仕事で培った企画書づくりの経験を活かして、春香と一緒に、店のリーフレットとSNSの構成を考えた。
「志乃、やっぱり筋がいいね。東京で消耗してたのが、もったいないくらい」
「消耗、してたのかな、私」
「してたよ、絶対。前に帰省してきたとき、目の下、真っ黒だったもん」
軽口を叩き合いながら、志乃は久しぶりに、仕事が「怖くないもの」だと感じている自分に気づいた。急かされているのではなく、自分のペースで、誰かの役に立てる感覚。それは、東京での日々にはなかった手応えだった。
「実はさ」
春香が、コーヒーを淹れながら言った。
「うちの店、望月さんのお宅の掛け軸の話、置かせてもらえないかな。歴史好きのお客さん、けっこう多いんだよね。武田神社の近くだし」
志乃は少し迷ったが、やがて頷いた。
「うん……いいよ。むしろ、ちゃんと調べて、きちんとした形で、残しておきたいなって思ってたところ」
家に帰った志乃は、居間で、改めて掛け軸の前に座った。
東京に戻るか、甲府に残るか――その問いに、まだはっきりとした答えは出ていない。けれど、以前のように、答えの出ない問いに押しつぶされそうになることは、もうなかった。
「私は、私のペースで決める」
声に出してみると、思いのほかしっくりと、その言葉は胸におさまった。
その夜、志乃は久しぶりに、元上司へ返信を書いた。すぐには戻れないこと、けれど、いずれ何らかの形で、自分の経験を活かせる仕事はしたいと思っていること。丁寧に、けれど自分の言葉で、正直に綴った。
送信ボタンを押した後、志乃は縁側に出て、夜風にあたった。
秋の気配を含んだ風が、庭の木々をさらさらと鳴らしている。志乃はふと、この風の音を、どこかで聞いた気がした。
――疾如風。
板の間で、白絹に向かう梅の後ろ姿が、瞼の裏をよぎった気がした。
「あなたも、こうやって、迷ったのかな」
答えは返ってこなかったが、志乃はもう、それでいいと思えた。
関連動画:https://www.youtube.com/shorts/dgoFWusvA9c
第五話、お読みいただきありがとうございました。志乃が、東京と甲府のあいだで揺れながらも、自分なりの答えに近づいていく回でした。梅の生き方が、少しずつ志乃の中に息づいてきたようにも感じます。
次回、いよいよ最終話です。二つの時代の物語が、ひとつに重なる瞬間を描きたいと思います。ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございます。
(最終話へ続く)




