第二話「風の文字」
第二話は、舞台を永禄四年(一五六一年)の甲斐国、武田信玄公のお膝元・躑躅ヶ崎の館へと移します。
前話で志乃が夢に見た女性の名は、望月梅。望月家に代々仕える右筆(書役)の娘です。彼女がなぜ、あの「風林火山」の旗の文字を書くことになったのか――今回はその一夜を描きます。現代パートの志乃の物語は、また次話以降で動いていきますので、今しばらく戦国パートにお付き合いください。
永禄四年、甲斐国。
躑躅ヶ崎の館は、朝から慌ただしかった。
望月梅は、渡り廊下の隅で膝をつき、庭先を行き交う足音の数を、ただ息をひそめて数えていた。今日、信濃へ向けて発つ支度が整う。数日のうちに、川中島でまた戦になる――そう、屋敷中の誰もが知っていた。
「梅、父上が呼んでおられる」
弟の声に、梅ははっと顔を上げた。十六になる弟の顔は、まだあどけなさが残るのに、腰に差した小刀だけが妙に大人びて見えた。
父・望月新左衛門は、望月家に代々伝わる「右筆」の役目を継ぐ者だった。武田の御屋形様――信玄公の御用にかかわる書状や、旗指物に記す文字を任される、地味だが由緒ある役目である。梅は物心ついたときから、父が硯に向かう背中を見て育った。
その父が、十日ほど前から高熱で臥せっている。
「父上……」
薄暗い部屋に入ると、布団に横たわった新左衛門が、辛うじて目を開けた。頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。
「梅か……。すまぬ、今日という日に、この様では」
「お話しにならないでください。今は休んで――」
「聞け」
新左衛門の声は掠れていたが、なお鋭さを失っていなかった。
「山本勘助様より、御使者があった。此度の御旗、疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山……あの御旗の文字を、明日までに新しく認めよとのこと。わしがやらねば、他の右筆に回される」
「それは……仕方のないことでは」
「いや」
新左衛門は、震える手で梅の腕を掴んだ。
「あの御旗は、御屋形様が最も大事になさる御旗ぞ。孫子の兵法から取られた、あの四つの言葉――軍勢の心そのものじゃ。生半な者の手で書かせるわけにはいかぬ」
梅は、父が何を言おうとしているのか、すぐには理解できなかった。理解したくなかった、というほうが正しいかもしれない。
「まさか……私に、書けと」
「お前は、幼い頃からわしの筆を見て育った。それに――」
新左衛門は、痩せた顔に、微かな笑みを浮かべた。
「お前の筆は、わしより、よほど生きておる」
女子が右筆の真似事をするなど、あってはならぬことだった。だが、屋敷の奥で仕える女たちに文字と算用を仕込み、時に主家のために遣わす者を育てる――望月の家には、そういう役目を担う血筋もあると、梅は伯母から聞かされたことがある。血が、そういう形で流れているのだと。
「できませぬ。私のような者が、御屋形様の御旗に触れるなど」
「梅」
弱った父の声とは思えぬほど、その一言は静かに、そして強く、梅の胸を刺した。
「風のように速く動かねばならぬときもあれば、林のように、静かに息をひそめねばならぬときもある。今のお前に必要なのは、どちらだ」
梅は、しばらく答えられずにいた。
やがて、震える指先で、父の手をそっと握り返した。
「……分かりました」
その夜、梅は誰もいない板の間に、真新しい白絹の旗地を広げた。
灯明の火は頼りなく揺れ、外では秋の気配を孕んだ風が、板戸を小さく鳴らしている。梅は墨を磨りながら、幾度も深く息を吸った。
これから記す四つの言葉が、これから戦場に立つ幾百、幾千の男たちの目に映ることを思うと、指先が凍りついたように動かなくなる。もし自分の筆が乱れれば、それは父の――望月家の恥になる。いや、それだけではない。この旗の下で戦う者たちの、命運を左右するかもしれない。
――疾きこと風の如く。
梅は筆を執った。迷いを振り払うように、一息に、最初の一画を落とす。
墨が白絹に吸い込まれていく感触は、これまで手習いで使ってきたどんな紙とも違った。だが、不思議と筆は止まらなかった。父の背中を見つめ続けた十数年が、指先に宿っているような気がした。
――徐かなること林の如く。
二行目は、あえて筆をゆるめた。急いてはならぬ。梅は自分にそう言い聞かせながら、一画一画、丁寧に墨を置いていく。
――侵し掠めること火の如く。
三行目を書くとき、梅の脳裏に浮かんだのは、これから戦場に赴く弟の顔だった。あの子は、まだ元服して間もない。恐ろしくないはずがない。それでも槍を取り、馬に乗り、御屋形様のために働くという。ならば、この一文字にも、その火のような覚悟を込めねばならない。
――動かざること山の如し。
最後の一行を書き終えたとき、梅の額には、季節外れの汗が滲んでいた。灯明に照らされた白絹の上で、四行の文字は、まるでそれ自体が呼吸しているかのように、力強く並んでいた。
しばらくその場に座り込んだまま、梅は自分の書いた文字を見つめ続けた。
やがて、筆の先に残った墨で、旗の端――誰の目にも留まらないであろう、ほんの小さな余白に、梅はもう一文字だけ書き加えた。
――望。
これを記したのが、望月の女であったことを、いつか誰かが知ってくれるように。あるいは、誰も気づかぬままでもいい。ただ、自分がここにいたという証を、この一筆に残しておきたかった。
数日後、その旗は山本勘助のもとに届けられ、信玄公の本陣に掲げられて、川中島へと向かうことになる。
梅がその後どうなったか、この物語は、まだ語らない。
ただ、望月の家には、いつしかこんな言い伝えが残った――女子であっても、風のように速く、林のように静かに、火のように熱く、そして山のように動かぬ心を持つ者があった、と。
障子の隙間から差し込む月明かりの下、梅は久しぶりに、静かな眠りに落ちた。
その夢の中で、梅は見たこともない景色を見ていた。四百六十余年後、同じ甲斐の地に立つ、見知らぬ着物――いや、見たこともない形の衣をまとった、ひとりの女の姿を。
その女は、梅と同じ顔をしていた。
第二話、お読みいただきありがとうございました。
望月梅が、父に代わって旗の文字を書き上げるまでの一夜、いかがでしたでしょうか。彼女が旗の端にそっと書き加えた「望」の一文字が、五百年の時を超えて、志乃のもとに届いていた――というのが、この物語の縦糸になります。
次回、第三話では再び現代へ。志乃が「望月梅」という名前の手がかりを探り始めるところから、物語が動き出します。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。感想・評価、ブックマークなど、いただけますと本当に励みになります。次話もどうぞよろしくお願いいたします。




