第一話 掛け軸の家
※本作はフィクションです。武田信玄・山本勘助など実在の歴史上の人物や実在の地名が登場しますが、物語・人物像は作者の創作です。
はじめまして、あるいはこんにちは。『風林火山 ~甲府に還る日~』第一話をお届けします。
このお話は、東京で働きすぎて心が擦り切れてしまったヒロイン・志乃が、山梨県甲府市の実家に帰るところから始まります。実家には、武田信玄公の軍旗として知られる「風林火山」の言葉が記された、望月家の家宝の掛け軸が眠っていました。
現代パート(志乃の物語)と、戦国パート(掛け軸にまつわる先祖の記憶)を交互に描いていく形式です。第一話は、その両方の入り口となる回になります。どうぞゆっくりお付き合いください。
各駅停車の窓に、南アルプスの稜線がゆっくりと流れていく。
望月志乃は、四年ぶりに乗る身延線の硬い座席で、自分の膝の上に置いたキャリーケースの取っ手を、意味もなく握ったり離したりしていた。スーツケースの中身は、着替えと化粧品と、あとは会社に置いていくのが惜しくて持ち帰った、使いかけの栄養ドリンクの空き瓶が二、三本。
――もう無理です。
先週、そう言おうとして、結局言えなかった。かわりに「体調不良で」と診断書を出して、有給休暇をかき集めて、逃げるように東京駅から新宿を経由し、この電車に乗った。三十二歳、独身、貯金は心もとなく、次の仕事の当ても何もない。
甲府盆地に入ると、車窓いっぱいに、ぶどう畑と桃畑が広がった。八月の終わりの陽射しは、まだ夏の名残りを濃く残していて、遠くに霞む山々の向こうに、うっすらと富士山の頭が覗いている。
「――帰ってきちゃった」
誰に言うでもなく呟いた声が、思いのほか掠れていた。
甲府駅からタクシーで十五分。武田神社にほど近い、古い住宅地の一角に、望月家はある。かつては土地の名主だったという話を、志乃は子どもの頃、祖母から何度も聞かされた。今ではその面影は、大きすぎる門構えと、手入れの行き届かない庭にしか残っていない。
「志乃かい」
引き戸を開けると、廊下の奥から祖母のハツが顔を出した。八十三歳になる祖母は、以前より一回り小さくなったように見えたが、志乃を見る目だけは昔と変わらず、しゃんとしていた。
「連絡もしないで、急に……ごめんね、おばあちゃん」
「いいよ、いいよ。おかえり」
それだけ言うと、ハツはそれ以上何も聞かなかった。なぜ帰ってきたのか、いつまでいるのか、仕事はどうしたのか――そういうことを、祖母は志乃が話したくなるまで、決して尋ねない人だった。志乃はその優しさに、玄関先で少しだけ泣きそうになった。
その夜、久しぶりに祖母の作った鶏もつ煮とほうとうを食べながら、志乃はようやく少しだけ息の仕方を思い出した気がした。
「そういえば志乃。悪いんだけどね、来週あたり、蔵の掛け軸、虫干ししなくちゃいけないんだよ」
箸を止めた志乃に、ハツは湯呑みを両手で包みながら続けた。
「毎年、お盆過ぎのこの時期にね、風を通してやらないといけないの。だけど、ほら、あたしはもう脚が悪くて、蔵の梯子が上れなくてねぇ」
「掛け軸って……あの、武田さんの?」
「そう。風林火山のね」
望月家に伝わる家宝の掛け軸のことは、志乃も子どもの頃に一度だけ見せてもらった記憶がある。当主が代替わりするときと、こうした虫干しのときにしか広げない、という決まりがあるとかで、志乃が最後に見たのはもう二十年以上前、小学生の頃だった。
「望月家のご先祖様がね、武田のお殿様にお仕えしていたんだって。お前のひいひいお祖父ちゃんが、そう言っていた。詳しいことはもう、あたしもよく分からないんだけどねぇ」
ハツは懐かしそうに目を細めて、遠くを見るような顔をした。最近は少し前のことを忘れっぽくなった祖母だが、こういう昔語りになると、驚くほど滑らかに言葉が出てくる。
「明日、手伝ってちょうだいな。ちょうど天気もいいみたいだし」
「うん……いいよ」
行くあてもなく、やることもない志乃には、断る理由がなかった。
翌朝、志乃は母屋の裏手にある土蔵の重い扉を、軋ませながら開けた。
蔵の中は、外の暑さが嘘のようにひんやりとしていて、埃と古い木材の匂いがした。行李や葛籠、使われなくなった漆器の箱が積まれた奥に、桐箱に入った掛け軸が、まるでそこだけ特別な空気をまとっているかのように、静かに置かれていた。
「気をつけてね。もう三百年以上前のものだって話だから」
ハツの声を背中で聞きながら、志乃は箱を両手で抱え、縁側まで運んだ。桐箱の蓋には、達筆すぎて志乃には読めない文字で、何か書きつけがある。紐をほどき、蓋を開けると、古い和紙特有の、乾いた甘い匂いが立ちのぼった。
慎重に取り出した掛け軸を、志乃は縁側の鴨居に吊るされた金具にかけ、そっと紐を引いた。
墨の色は、もう完全な黒ではなく、深い飴色に変わっている。かすれた勢いのある筆致で、大きく四行、文字が並んでいた。
疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、動かざること山の如し……ね」
志乃が呟くと、ハツが嬉しそうに頷いた。
「よく知ってるじゃないか」
「昔、おばあちゃんに教わったんだよ」
普段は上半分しか広げないのだと、ハツが言った。掛け軸全体を虫干しするのは、本当に久しぶりのことらしい。志乃は言われるまま、さらに紐を緩め、軸をゆっくりと下ろしていった。
すると、四行の文字の下、これまで折りたたまれて隠れていた部分に、もう一行、小さな文字があることに気がついた。
「……おばあちゃん、これ」
「なんだい?」
ハツが老眼鏡を押し上げて覗き込んだが、掠れがひどく、二人ともうまく読み取れない。ただ、その最後に、かろうじて一文字だけ、志乃にも見覚えのある字が読み取れた。
――望。
望月の、望という字だった。
「望月……って、書いてある、よね?」
「あら、ほんとだ。こんなところ、今まで気づかなかったねぇ」
夏の昼下がりの光が、縁側いっぱいに差し込み、古い墨の跡を金色に浮かび上がらせていた。志乃はその一文字を、指先で――触れてはいけないと分かっていながら――そっとなぞった。
その瞬間、耳の奥で、ごう、と風の音がした気がした。
蝉の声も、庭木の匂いも、何も変わっていないのに、志乃はほんの一瞬だけ、自分がひどく懐かしい場所に立っているような、奇妙な感覚に襲われた。
「志乃? 顔色、悪いよ」
「あ……ううん、なんでもない。ちょっと、立ちくらみ」
その夜、志乃は久しぶりに、実家の自分の子ども部屋で布団に横たわった。畳の匂いと、開け放した窓から入る虫の声。東京のワンルームでは決して聞こえない音に包まれながら、志乃はいつのまにか、深い眠りに落ちていった。
夢を見た。
見たこともないはずの景色なのに、なぜかよく知っている場所のような気がした。躑躅の咲く館の広縁。遠くに霞む山々――今日、電車の窓から見たのと、よく似た稜線。若い女がひとり、筆を執り、大きな布に何か文字を書きつけている。風が強く、女の結った髪が幾筋か頬にかかっているが、女はそれを払いもせず、ただ一心に筆を運んでいる。
疾如風、徐如林――。
女の口が、そう動いた気がした。振り向いたその顔は、驚くほど、鏡の中の志乃自身によく似ていた。
「あなたは……」
志乃が声をかけようとした瞬間、風が強く吹き、布がはためき、視界のすべてが白く染まっていった。
目を覚ますと、朝だった。
障子越しの光が、まだ柔らかい。志乃はしばらく天井を見つめたまま、夢の続きを掴もうとしたが、記憶は指の間からこぼれる水のように、すぐに形を失っていった。ただ、胸の奥に、これまで感じたことのない、奇妙な確かさだけが残っていた。
――もう少し、ここにいよう。
東京に戻る日のことは、まだ何も考えられない。けれど、あの掛け軸の下に隠れていた「望」の一文字と、夢に見たあの女のことを、志乃はどうしても確かめたくなっていた。
台所からは、もう祖母が朝食の支度をする音が聞こえてくる。志乃は布団から起き上がると、久しぶりに、深く息を吸い込んだ。
窓の外では、今日もぶどう畑の向こうに、甲府の山々が、静かに、動かず、そこにあった。
――不動如山。
その言葉の意味を、志乃はこれから、少しずつ知っていくことになる。
第一話、お読みいただきありがとうございました。
疲れた志乃が、少しずつ甲府の空気を吸い直していく様子と、掛け軸に隠れていた「望」の一文字――ここから物語が二つの時代へと広がっていきます。
次回、第二話は舞台を五百年ほど遡り、志乃の夢に現れた女性の正体である戦国パートをお届けします。「風林火山」の文字が、どのようにして生まれたのか。よろしければ、続けてお付き合いいただけると嬉しいです。
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