09_往復した人
ダンは、アサの紙を直さなかった。
ミオの出ていった正面の戸が、最後に一度だけ軋んだ。昼の明かりが床の通路を照らし、その向こうの裏口では、ユイが洗い桶を引き寄せている。アサのまとめを置く場所だけが、作業台の上に空いていた。
設備の寸法を書いた自分の紙だけを取り、店の印を押した。名前を書き、日付を添える。アサの机にあるまとめには触れず、折れた湯沸かしの持ち手を削り始めた。
「鐘の行は消します」
アサは階段の途中から言った。
「消す前の紙を持っていった相手にも伝えろ」
「まだ出していません」
「ミオは見た」
アサは手摺りを握った。
「言います」
ダンはやすりを動かした。
叱られると思っていた。その間は立っていればよいと、どこかで考えていた。ダンが仕事へ戻ってしまうと、自分のすることは一つも減らなかった。
アサは二階へ上がった。
机の上の紙に、取り消す線を引いた。読めないほど塗り潰しそうになり、手を止める。間違えた行が、下に見える程度にした。
音の高さが違う。
その根拠も、まだ紙に残っていた。
*
棚の奥に、小さな折れた錐があった。
春にアサが折ったものだった。古い持ち手を抜こうとして斜めに力を掛けた。折れ口を鳴らすと、その前のダンの声が出る。
『押すな。少し戻せ。おい、そうじゃ——』
アサは指を離した。
何度聞いても、そうじゃないと言われる前に戻せたはずだった。
彼は錐を銅皿へ置き、鳴らした。机の板へ直接置き、鳴らした。皿を布で押さえて、もう一度。
声の太さが変わった。同じ言葉なのに、皿へ置くとダンが少し大柄になったように聞こえる。机では、声の端が硬かった。
「誰が呼んでる」
階下から、今のダンが言った。
「すみません。錐です」
「その返事で分かる家も、どうかと思うな」
ユイが笑いながら上がってきた。
「父さん、まだそこまで怒ってないよ」
「昔の声」
「分かってる。何してるの」
アサは紙を見せた。鐘の高さで場所を決めたことと、材木場の鐘が替わっていたことを話す。ユイは椅子に座らず、窓を半分閉めた。
「ここでも変わる?」
「変わる」
「じゃあ、昨日どこで比べたの」
工場では水の上にいた。時計は岸の荷台で鳴らした。材木場の鐘は、帰り道で聞いた。高さも、距離も、風も違った。
アサは順に書いた。
ユイは、書き終えるまで待った。
「時計の中にある音と、今そこで聞く音を、そのまま並べられないんだね」
「鳴らし方は、できるだけ同じにしたつもりだった」
「支えた物も、距離も?」
ユイは銅皿を持ち上げ、光を跳ね返した。アサはその底を見た。鳴らす指ばかり見ていた昨日の手元には、ほかにも動いていたものがあった。
ダンが上がってきた。手には湯沸かしの蓋があった。
「鳴らす力は俺にはない。だが、同じ板でも支える場所で音が変わるのは分かる」
蓋を机へ置き、縁を持って軽く叩く。次に真ん中を押さえて叩く。音が短くなった。
「これだけで、違う鍋だと言えるか」
「言えません」
ダンは蓋を持ったまま、アサの紙を見た。
「お前が扱えるものだから、全部お前にしか分からんことになるわけじゃない」
アサは消した行の横へ、比較条件が違う、と書いた。
書きながら、同じことを時計の声に対してしていないと分かっていた。
*
ユイが下へ戻る前に、彼女は折れた錐を指した。
「これ、また使う?」
「確かめるのに。自分がそこにいたときの音だから」
「じゃあ、箱へ名前を書いて。鉄屑と間違えてまとめるから」
アサは錐、と書いた。その下に、折った場所と季節も添えた。日付は思い出せなかったので、書かなかった。
時計の箱にも紙を付けた。持ち主と預かった日、外れた蓋。ユイが渡した箱は角がしっかりしていて、抱えると肋骨に当たった。布包みを鞄へ入れるだけで済ませた昨日より、運ぶ物の形がはっきりしていた。
昼の汁を飲む時間はなくなっていた。
アサは残りの蒸し芋を齧りながら、ミオへ渡す紙を書いた。鐘の場所を断定した説明を撤回する。今の鐘と同じ条件で比べていなかった。先方の鐘の交換も確かめていなかった。
その下に、今日使った舟賃を書く。
六枚。
印刷の二枚も足した。
自分で書いた数字を見て、彼は引き出しの銅貨を数えた。全部で九枚あった。うち六枚は、ミオの時計の見立て代だった。
アサは銅貨を、三枚と六枚に分けた。
今日の損失を返すなら、八枚。最初の見立てまで返せば、十四枚だった。
彼は三枚を掌へ乗せ、戻した。
階下へ降りると、ユイが戸車を桶へ入れていた。今月の家賃の残りを埋める仕事だった。
「それは僕が」
「帰ってから洗って。泥を緩めてるだけ」
「ありがとう」
「持っていくもの、揃えた?」
アサは鞄を開けた。時計の箱、元の記録、取り消す紙。確かめるよう指で触れ、口を閉めた。
*
水運組合までの道で、ダンは石段を下りるときだけ、右膝をゆっくり曲げた。平らなところへ出れば足は進むのに、段を越えるたび歩幅が縮む。アサは荷車の車輪が通る平らな側へ寄った。
「荷車に乗ればよかったですね」
「歩かんと、ますます固まる」
アサは歩く速さを落とした。
ダンは店の戸車の話をした。片側だけ新しいものに替えると、もう片側に重さが寄る。洗ってから、減り方を比べろ。アサは頷きながら聞いた。
「僕の紙、もう一度見てもらえますか」
「寸法のところなら見る」
「そこだけじゃなくて」
ダンが止まった。
「何を見てほしい」
アサは鞄を抱え直した。
「分かったことより、大きく書いていないか」
「俺に分かるところはな。全部の責任を引き取るって意味ではないぞ」
「はい」
二人はまた歩き出した。
水運組合の入口に、ミオがいた。板に留めた地図を脇へ抱え、もう一方の手に、届いた帳面を持っている。
川へ向かって大きく開いた戸の中は、表から見るより奥が深かった。壁には棚いっぱいの帳面、軒の下には濡れた綱。中央の長机でイネが箱を端へ寄せ、トウマが腰掛けを持ち上げていた。ミオは戸口で帳面の端を押さえ、その支度が済むのを待っていた。
アサは門をくぐる前に、ミオへ声を掛けた。
「先に、言うことがあります」
彼は取り消す紙を出した。
ミオは地図を壁へ立て、両手を空けた。
その仕草を見て、時計を初めて受け取ったときの自分を思い出した。渡すものの重さは、紙になってもなくならなかった。
*
ミオは、取り消しの紙を最後まで読んだ。
「今日使った八枚は返します。今すぐ全部は出せないので、日を決めて」
アサが言った。
「金額は、これで合っています」
ミオは頷いた。
「鐘が別の場所だったという説明も、取り消すんですね」
「はい。決められる比べ方をしていませんでした」
「分かりました。私の控えにも挟んでおきます」
ミオは紙を折り、鞄へ入れた。
安心してよいのかどうか、アサには分からなかった。彼女は許すとも、許さないとも言わず、奥の机へ歩いた。
トウマが帳面を開いていた。
角は丸く擦れ、綴じ紐だけが新しかった。荷の代金や樽の数の間に、火災の日の頁がある。いつもの細い字の下へ、大きな字で何行も書き足されていた。
「これは、戻ってから書いた。走りながら時計と紙を見ていたわけじゃない」
トウマは最初に言った。
「時刻は前後すると思ってくれ。順番は、その晩に出荷の者とも確かめた」
十九時過ぎ、東荷積み口へ。
女一名、北通用口へ。
東へ戻る。
負傷者ほか五名を収容。
最後の行の脇に、女、班長ナギ、出荷係確認、とある。
ミオは姉の名前を指で追った。頁を隠さないよう、指は余白に置いていた。
「裏へ回ったのが姉で、そこから、また東に」
「そうだ。名前を確かめたのは戻った後だが、同じ人を乗せたのは俺が見た」
トウマは別の紙を出した。当日の届けの控えだった。北通用口への寄港は、乗った女の求めによる、と書かれていた。
「誰かを岸へ降ろして終わり、にはならなかった。北で降りた人が戻ってきて、東へ戻せと言った」
「裏口は開かなかった?」
「開いたところは見ていない。女の人が金具へ手を伸ばしたのは見た。煙が流れてきて、俺は目を覆った。その後、戻ると言われた」
ミオは息を吐いた。
「鍵を持って、町へ帰ったわけじゃない」
「この舟では帰っていない。それは言える」
イネが帳面の番号を書き、写しの末尾へ出所を添えた。
ダンは北通用口の行を見ていた。指先を、自分の膝に何度か押し当てた。
*
トウマは棚から、折り畳んだ布を出した。
舟を守るための古い覆いだった。灰色の布の一辺に、熱で縮んだ跡がある。
「前の届けと一緒に置かせてもらってた。あの晩、舷に掛けた。火の粉を避けるために」
イネは過去の保管品一覧を見て、頷いた。
「同じものです。以前も預かっています」
トウマは布を机へ広げず、二人に端を持ってもらった。水を吸わせたら、もっと重かったという。
「北へ入ったとき、これで片側を覆った。女の人の足元までは見えたが、金具をどうしたかまでは見えなかった」
アサは布を持った。腕に重さがかかり、正面のミオの顔が半分隠れた。胸の高さへ来た灰色の縁の上に、目だけが見える。トウマは膝を折って机の脇へ沈み、あのときの目の高さを示した。
「見えなかったところが、これくらいですか」
「もう少し高い。俺はしゃがんで櫂を持ってた」
ミオが布を上げた。
机の上にあった北側の図が見えなくなった。
アサの腕がだるくなった。布の向こうでミオが手を動かしても、その指は見えない。自分がいま見たと言えるのは、揺れる布と、その上の顔だけだった。
「その後は」
ミオが尋ねた。
「東で板を渡し直した。最初に乗った人が中へ戻って、ほかの人を連れてきた。一人ずつ手を取って乗せた。五人乗ると、舟がかなり下がった」
エダが肩を貸したと言った場面だった。
ミオは布を下ろし、折り目を合わせて畳んだ。アサが持つ端を示して、そこを内側へ、と言った。
二人で畳むと、布は元より少し大きな四角になった。トウマはそれでいいと言い、棚へ戻した。
*
「東で船を呼んだのは、姉ですか」
ミオが時計の箱を開いた。
アサは彼女の顔を見た。ミオはトウマを見ていた。
「鐘だけなら、誰が引いたかまでは分からん。だが、乗ってきた人に、二号を寄せたのは俺だと言った。向こうも、二号を呼んだと言った」
「その人が、ナギ」
「帳面で名前を確かめた人だ」
時計を机へ置き、アサが音を鳴らした。
カン、カン、カン。
水音と、布の擦れる音。
『……を……せ……』
誰も、すぐには話さなかった。
トウマが顎を掻いた。
「二号を寄せて、とは、よく言う。ここもそうだったかもしれない。だが、この音で全部そう聞こえるとは言わん」
ミオは原記録を取り出した。
アサの字で、二つの音が書いてある。彼女はその上へ指を置いた。
「二号を呼んだことは、音とは別に確かめられる。音の全部が、その言葉だったかは分からない」
イネが頷いた。
「分けておきましょう」
アサは自分の鉛筆を持った。書かなければならないことが、分かっていた。
その場でミオが彼を問い詰めることはなかった。彼女は帳面の最後の行まで写し、イネへ受け取った紙の数を確かめた。
アサは、書き上げた紙を見せようとした。ミオは先に立ち上がった。
「あとで、二人で聞かせてください。最初の説明について」
彼女は言った。
「ここで、姉の話と一緒に流してしまいたくないので」
アサは頷いた。
*
組合を出るころには、夕方だった。
ダンはイネと扉の図を見直してから帰ると言った。ミオは印刷屋に寄る。その間、アサは橋のたもとで待つことになった。
彼は一人で、岸へ降りた。石段の下に腰を下ろすと、橋の欄干が頭の上を横切った。荷車を待つ人の靴しか見えず、誰もこちらの仕事を尋ねなかった。
舟が通り過ぎた後、波が石に当たり、小さな水音が続いた。時計の中にもある音だった。どの波なのか、誰が乗った舟の波なのかは、この音だけでは分からない。
彼は箱を開かなかった。
子供の頃は、鳴らせるだけで人が集まった。折れた針金から、叔父の歌が出た。割れた鍋の取っ手から、猫を追う姉弟の声が出た。皆が笑い、もう一回と言い、彼は何度でも触った。
仕事にしてからは、そのあとに質問が来た。
誰の声ですか。何を言ったんですか。どうして、そんなことをしたんでしょう。
全部に答える人を、鑑定士と呼ぶのだと思っていた。
橋の上でミオが名を呼んだ。
アサは立ち上がった。膝に砂がついていた。払う手が、いつもより遅かった。
「印刷は」
「明日の朝、受け取れます。直しは渡せました」
「そうですか」
話をそこへ留めたいと思った。文字の大きさを尋ね、舟の絵をからかってもらい、板の留め具を直す約束をすれば、まだ歩ける気がした。
ミオは修理店のほうへ向き直った。
「最初と同じ机で、聞きたいです」
アサは彼女と並んだ。ミオの靴は夕方の石を迷わず踏み、三つ編みの先が背で小さく跳ねていた。いつもなら紙を見せてもらえる腕の間に、今日は鞄があった。
橋は下りていた。待つ理由は、何もなかった。




