10_その音はどこにある
ミオは最初の日と同じ場所へ椅子を運んだ。
アサの横だった。机を挟んで向かい合うより、近かった。
日が西へ回り、東窓の照り返しだけが天井の隅に残っていた。ミオは上着を脱がず、地図板を椅子の脚へ立てた。アサの肘から彼女の袖まで、手のひら一つぶんしかない。初めて隣に座られたときは、その近さが嬉しかった。いまは紙をめくる音まで大きかった。
彼女は受け取った二枚の紙を並べた。聞こえた音の記録と、アサが説明を書いた紙。折り目はついていなかった。地図筒に入れて運んでいたからだった。
アサは時計を皿へ置いた。
窓を閉めるか尋ねると、ミオは開けておいてと言った。水路の匂いが、二人の間へ入ってきた。
指で蝶番をなぞる。
鐘が三つ鳴る。水が板に当たり、布が擦れる。
『……を……せ……』
音が切れた。
「この中の、どこですか」
ミオが尋ねた。
「妹を頼む、という言葉は」
アサは紙へ目を落とした。
「音が重なっているところです」
「もう一度。聞こえたところで、止められますか」
「途中で離せば」
「では、お願いします」
アサは鳴らした。
声の出る直前に指を離せば、何も示したことにならない。声の後に離せば、また同じ問いが来る。
彼は最後まで触っていた。
ミオは時計を見たまま待った。首布の結び目を指で押し、手を下ろした。待ちきれないのなら怒鳴ってほしいと、アサは思った。その考えが浮かんだことにも、顔が熱くなった。
「二号を寄せて、と言ったとしても」
アサは話し始めた。
「お姉さんが、ミオさんのことを思っていなかったとは——」
「姉の気持ちを聞いていません」
ミオが遮った。
大きな声ではなかった。アサの声だけが、急に行き先を失った。
「あなたが聞き取ったと言った音を、聞いています」
アサは、記録の『……を……せ……』へ指を置いた。自分が書いた文字だった。汚れを取って、皿を替えて、それでも書けたのはここだけだった。
「ここから、そう受け取ったんです」
「考えた、ということですか」
「はい」
「聞き取ったのではなく?」
彼は頷きかけて、声を出した。
「聞き取っていません」
ミオの指が、紙の端から離れた。爪の下に白い線が残り、ゆっくり赤みが戻った。彼女は口を開きかけ、一度閉じてから、次の問いを出した。
「初めて鳴らした日も?」
「はい」
階下で戸が閉まった。客が帰った音だった。ダンの足音が作業台のほうへ戻り、金属を置く音がした。
ミオは原記録の、不明という二文字を見た。
「私がこれを聞いたとき、頼んだ相手が分からないという意味だと思いました。そう言いましたよね」
「言いました」
「あなたも頷いた」
「はい」
「妹のことを頼んだという、その部分も、分からなかった」
アサはまた、はいと答えた。
ミオは椅子の背へ体を預けた。時計を持つ手がないことに気づいたように、両手を膝へ置いた。
「知らなかったんじゃなくて、知っていたんですね。自分が聞けなかったことを」
「知っていました」
アサは膝の上で拳を握った。
「嘘をつきました」
言ってから、次の言葉を探した。慰めたかった。力になりたかった。喜んでもらいたかった。
どれも自分のしたかったことだった。
「ごめんなさい」
彼はそれだけ言った。
*
ミオは水のコップを取った。底が受け皿へ当たり、小さく鳴った。持つ手をもう片方の手で包んでから口へ運んだ。
一口飲み、置く場所を確かめた。地図に汁を落としたときと同じように、紙から離した。
「どうして、そこまで言ったんですか」
彼女が尋ねた。
アサは壁の札を見た。古道具と遺品のご相談。アサ。
「何も返せないのが、嫌でした」
「音は返してくれました」
「それだけだと」
彼は息を吸った。
「若いから分からないと思われたくなかった。頼んでよかったと、思ってほしかったんです」
ミオはすぐには答えなかった。
アサの紙には、見立て代六枚、と書かれていた。
「私は、鐘も声も聞けて、それからあなたが言葉を教えてくれたと思っていました。私に聞こえないところを、仕事をしている人なら聞き分けられるのかと」
ミオは説明の紙を一度持ち上げた。
「これは私が勝手に信じたことに、なるんでしょうか」
「なりません。僕が、聞き取れたと言いました」
「それを、紙に書いてください」
アサは新しい紙を取った。
妹を頼むという言葉は聞き取れていない。初回から判別できていなかった。聞き取れたという説明は誤りだった。
誤り、の文字でミオが顔を上げた。
「間違って聞いた、ではないですよね」
アサは横線を引いた。
聞き取れていないと知りながら、聞き取れたと伝えた。
彼は自分の名前を書いた。
ミオはその紙を受け取り、元の二枚と重ねた。古い説明を破りはしなかった。
*
「母にも、見せました」
ミオが言った。
「最初の紙です。母は、姉の声をまた聞けるなら、店を早く閉めようかと言っていました」
アサは引き出しに手を掛けた。
「お母さんにも、説明に」
「先に私から話します。訂正した紙は、明日、持ってきてください」
「分かりました」
「勝手に、先に謝りに行かないでください。私がまだ何も話していないところへ来られると、困ります」
アサは頷いた。
ミオは一度、目を閉じた。目尻に溜まったものを袖で拭かず、鞄から自分の布を出して押さえた。アサが差し出せるものを探す前に、その布をしまった。
時計を包み始めたが、いつもの速さではなかった。四隅の一つを折り直してから、顔を上げた。
「返金も、お願いします」
「六枚、今返します」
アサは分けてあった銅貨を出した。ミオは数え、財布へ入れた。いつもの仕事の支払いと同じ手つきだった。
「今日の八枚は、日を決めてください。口約束にしたくないので」
アサは、今ある三枚と、これから店で働いて受け取れる分を考えた。
「三枚は明日。残り五枚は、十日以内に。紙にします」
「分かりました」
彼は書いた。
ミオは時計の箱を閉めた。ユイが選んだ箱に、アサが書いた品物の名前が貼ってあった。彼女はその紙を剥がさなかった。
「調査は、続けます」
ミオが言った。
「姉が戻ったことも、扉がどうなっていたかも、あなたの説明とは別に確かめられるので」
「僕は」
「しばらく、一緒には動きません。私の名前を、あなたのまとめから外してください。私の測量を使う必要があれば、先に言ってください」
アサは、三人の名前のある紙を出した。
ミオは自分の名前を指で押さえた。消すのはアサがした。紙が薄くなるまで擦らず、取り消したと分かる線を引いた。
彼女はそれを見届けて立った。
「時計は、持って帰ります」
「はい」
「母が聞きたいと言ったら、音だけを聞かせてもらうかもしれません。でも、今日は約束しません」
「分かりました」
アサは立ち上がった。荷物を持とうとする手を、自分の机の縁へ置いた。
ミオは板と地図と時計を自分で持った。入口で、鞄の紐を掛け直した。
「姉が私の名前を呼んでいなかったことに、怒っているんじゃありません」
彼女は振り返らずに言った。
「知らないことを、知らないまま渡してくれなかったことに、怒っています」
階段を下りる音がした。
アサは追わなかった。下でダンと短く言葉を交わす声がし、戸が閉まった。
机には、時計の形に皿の中の布が窪んでいた。
アサはその窪みを直し、刷毛を片付けた。紙を重ねると、一番上に、自分が嘘をついたと書いた行が来た。
今度は裏返さず、階下へ持っていった。
*
ダンは紙を読み、机へ置いた。
「これは、ミオにも渡したか」
「はい。六枚も返しました」
「ほかに、同じことを言った客はいるか」
アサは答えかけて、口を閉じた。
いない。そう言ってしまえばよかった。覚えている限りでは、妹を頼むという言葉を作ったのは一度だけだった。
「紙を見ないと、分かりません。聞いたことより、はっきり言ったものはあるかもしれない」
「見ろ」
ダンは立ち上がり、戸の鍵を掛けた。店じまいの時刻だった。
アサは作業台の前に立ったままだった。
「看板を、下ろします」
「いつまで」
「前の仕事を確かめて、間違いがあった相手に説明するまで。新しい依頼を受けても、同じふうに答えそうだから」
ダンは頷いた。
「うちから紹介した客もいる。俺から、ここに尋ねてくるよう伝える相手は伝える。ただし、説明はお前がしろ」
「ここには、いても」
「寝床と客の金を、一緒にするな」
ダンの声が少し強くなった。
「働いた分の賃は払う。飯も食え。だからって、客に返すものを俺が返すことにはならん」
アサは下を向いた。
「はい」
「明日は戸車を洗え。半日分は家賃、余分に手伝う分は賃金だ。先に借りて返したことにするなよ」
ダンは湯沸かしを棚へ戻した。アサは札を下ろし、二階へ持って上がった。
壁に、四角く明るい跡が残った。
アサは梯子を畳み、上着を脱いだ。背の汗が冷えていた。寝床の布を引けば札は見えなくなるが、今夜は引く気になれなかった。階下でユイがかまどの火を落とし、ダンが戸の金具を一つずつ確かめる音を、起きたまま聞いていた。
*
翌朝、橋にはまだ客の列がなかった。アサは濃紺の上着の内側に紙を入れ、ミオの家へ行った。昨夜より軽い財布が、歩くたびに胸から離れた。
店はまだ開いていなかった。戸の横に豆の入った籠があり、オトが虫食いを除いていた。
「ミオは印刷屋へ行ったよ」
顔を上げずに言った。
「先に話すと言っていたので。今日、紙を届ける約束です」
「聞いた」
アサは訂正した紙と、三枚の銅貨を出した。残り五枚を返す日も書いた。
オトは手を拭き、文字を一行ずつ読んだ。
「最初から、分からなかったんだね」
「はい」
「なのに、分かったと」
「はい」
オトは籠の脇に紙を置いた。前掛けの胸が一度大きく上下した。アサが何か言うのを待っているように見えたが、彼は、ごめんなさい、とだけ言った。
「私も、あんたにお礼を言おうと思ってたんだよ」
彼女は豆を一つ取った。
「ナギの気持ちを、届けてくれたと思ったから」
アサは戸口の木目を見た。黒く磨けたところがある。昨日まで、そこへ籠を置くことしか考えていなかった。
「それは、僕にはできませんでした」
「できないことは、できないでよかったんだ」
オトは豆を戻した。虫食いの籠ではなく、使うほうだった。
「音は、聞けるんだね」
「聞けます」
「ミオから、私が望むなら聞かせてもらっていいと。時計は中にある」
アサは顔を上げた。
「聞く前に、もう一度だけ。時計の蝶番が折れる直前の音です。ナギさんの最期かどうかは分かりません。言葉も、あの紙に書いた以上には」
「分かった。机、空けるよ」
オトは籠を移した。
アサは布を敷き、時計に触れた。同じ鐘と水、同じ欠けた声が、豆を選ぶ朝の台所へ響いた。
オトは目を閉じなかった。時計を見ていた。
「もう一度、いいかい」
アサは鳴らした。
言葉の意味を添えなかった。終わると、時計を包み直した。
「ありがとう」
オトは言った。
アサが顔を上げると、彼女は包みを引き寄せた。
「音を聞かせてくれたことには、お礼を言うよ。昨日のことは、まだ別だ」
「はい」
オトは三枚を数え、受け取ったと紙に書いた。
アサはそれを持って帰った。戸を出る前に、ミオは怒っていますか、と尋ねたくなったが、やめた。昨夜、本人が答えていた。
*
店を出て坂を上ると、イネは工務課の戸口で外套の紐を結んでいた。足元には現場へ運ぶ箱が二つある。アサのために一日を空けて待っている人ではなかった。
アサは最初から聞き取れていなかったと話し、元の紙と撤回を書いた紙を出した。声が小さくなり、イネに聞き返された。もう一度、同じことを言った。
イネは鞄を机へ置いた。
「こちらに渡した記録以外に、その説明をしましたか」
「依頼人へ。紙も渡しました」
「では、元の紙と撤回した紙、両方の写しをください。こちらの調査に混じらないようにします。ミオさん自身の話は、本人へ確かめます」
アサは二枚を出した。
「僕が音を鳴らすことも、もう」
「必要なら、現物と、聞いた人が分かる形でお願いします。あなたの説明を、そのまま結論にすることはありません」
イネは時計の回収番号の横に、今日の日付を書いた。
「扉の作業は続けています。明日は上の梁を一つ外す。危険なので、見に来るなら柵の外です」
アサは頷いた。
イネは鞄を持ち直し、現場へ向かった。
*
昼から、アサは戸車を洗った。
桶の底へ黒い泥が落ちた。溝に細い糸が絡み、一本ずつ引き抜かなければならなかった。急いで引くと奥で切れる。
ユイは向かいで、送風機の軸を測っていた。ダンは客へ修理の値段を説明している。
若い女が店へ入ってきた。
「音の人は、今日はいませんか」
アサは濡れた手を上げた。
「僕です」
「折れた指輪があって。父のだったんですけど」
女が袋を出しかけた。
アサは立ち上がり、手を拭いた。
「今、新しい見立てはお受けしていません。前の仕事に、聞けていないことを聞けたと説明したものがあって、訂正しています」
女は袋を持ったまま、ダンを見た。
ダンはアサを見ていた。上の部屋へ連れていく階段は空いているのに、彼の前で女の袋だけが閉じられた。
「いつなら、頼めますか」
「まだ、日を決められません」
女は袋をしまった。
「そうですか。では、また」
また、が本当にあるかは分からなかった。
アサは戸口まで送り、戻って戸車を持った。洗い残した泥が、指へついた。
「そこ、軸の内側も」
ユイが言った。
アサは頷いた。彼女はその後、何も言わず、自分の軸へ戻った。
夕方、十二件の記録を机へ並べた。仕事にしてから残した紙は、それだけだった。紙のない相談も思い出せるよう、日付の順に、間へ空白を置いた。
いちばん古い紙は、端に茶の染みがついていた。
アサはロカの鍵の紙を、その隣へ置いた。聞こえたこと、確かめること。二つの欄が、まっすぐではなく、少し斜めに分かれていた。
新しい紙にも、同じ二つの欄を引いた。




