11_消さなかった線
試し刷りには、舟の絵が一つ減っていた。
母がアサから紙を受け取っているころ、ミオは印刷屋の土間にいた。天井から乾きかけの紙が下がり、奥の木版を押す音が、いつもより遅く聞こえた。急いでほしいとは言えない。昨日、予定を変えたのはこちらだった。
ミオは印刷屋の窓際へ紙を運んだ。明るいところで見ると、道の線と、店の名の隙間が広がっていた。代わりに、川の上が少し寂しくなった。
「これでいいかい」
職人が尋ねた。
ミオは人差し指で、橋から渡し場まで辿った。初めて町へ来た人のつもりで、途中の曲がり角を一つずつ見る。
「ここだけ、行き先をもう一段大きくできますか。代金が増えるなら、ほかの飾りを減らします」
「飾りを削るのも手間だよ」
「そうでした」
彼女は自分の財布を開いた。アサから返ってきた六枚は別の紙に包んである。指先がその角に触れ、時計を初めて聞いた午後の自分を思い出してしまった。いま使ってもよい金なのに、包みをほどく気になれなかった。
職人は版の上で待っていた。ミオは自分の売上のほうから数え直した。
「文字を広げるだけなら、この分で足りますか」
職人は金額を見て、版を確かめた。
「この幅なら」
ミオは頷いた。川は寂しいままにしておくことにした。
*
渡し場には、昨日の客とは違う人たちがいた。岸道から石段へ下りるところで、荷を預ける列と舟を待つ列が分かれる。ミオは三つ編みを上着の背へ回し、通り過ぎる籠を避けながら、新しい札を柱に当てた。
ミオは札を仮止めし、少し離れたところから見た。荷物を持った人が前へ来る。後ろの人が、肩をずらして札を読む。
見えた。
客は川上行きの列へ並んだ。正しいほうだった。
ミオは思わず横を向いた。昨日なら、札を持つアサに見えたかと聞けた。その場所には、荷を括る知らない男がいた。
よかった、と自分で声にした。誰も振り向かなかった。もう一人が札を見て曲がり、今度も正しい列へ入った。
ミオは板へ丸をつけた。丸をつける手に、気がつくと力が入っていた。
「こちら、反対側にも同じのを置ける?」
渡し場の世話役が言った。
「枚数を増やす分と、取付けの分がかかります。明日、金額を出してもいいですか」
「今日できないのかい」
「板の残りを確認していないので。できると言って、足りなくなると困ります」
世話役は、では明日で、と言った。
ミオは札の角を押さえた。自分の言葉が、思っていたより硬かったことに気づいた。
川上から舟が来た。波で渡し板が揺れ、待っていた子供が母親の袖を掴んだ。母親は札を指して行き先を教えた。
ミオは、絵を減らしたところをもう一度見た。
仕事が終わると、地図を一枚買いたいという客がいた。壁へ貼るのではなく、折って持ち歩きたいという。ミオは濡れにくい包み紙を添え、橋の位置だけ、その場で説明した。
客は礼を言って去った。
渡された銅貨は、自分で作ったものの代金だった。彼女はそれを、六枚の包みとは別の場所へ入れた。
*
ダンは昼前に来た。
ミオが柱から余分な紐を切っていると、少し離れたところで待った。彼女が道具をしまってから、工事の図を出した。
「これを見やすく描き直してほしい。役所へ出した控えは、金具の向きが分かりにくい」
「誰が使う図ですか」
「俺と、現場で確かめる人間。内と外を取り違えないようにしたい」
ミオは受け取った。
図の端に、採用しなかった金具が薄く残っていた。中から押せば外れる形だった。
「これは?」
「最初に出した案だ。費用が合わないと言われて、外の棒にした」
ダンはそこを隠さなかった。
「新しい紙にも残してください。採用したものと、しなかったものが分かるように」
「残すつもりで持ってきた」
ミオは頷いた。
「明日の夕方までなら。見立てのまとめとは、別の仕事として受けます」
「ああ。いくらだ」
彼女は時間を数え、代金を伝えた。ダンは値切らず、半分を先に渡した。
「アサが」
ダンは言いかけて、止めた。
ミオも待った。
「店の裏口の図、助かってる。今朝、荷車がちゃんと裏へ来た」
「それは、よかったです」
ミオは板を持ち替えた。
ダンは仕事の図を置き、帰っていった。アサがどれだけ落ち込んでいるかは話さなかった。彼女も尋ねなかった。
*
同じころ、アサは染料蔵の裏を歩いていた。表通りの店より一段低いところに、古道具を並べた小さな店がある。軒の鍋が風で触れ合い、どれも自分を呼ぶように鳴った。返す三枚をまだ作れていない指で、戸を叩いた。
十二件のうち、最初に会えたのは、割れた湯沸かしを持ってきた男だった。音に櫂を水へ入れるような音があったため、アサは船旅に使われた品だろうと説明した。
記録を読むと、船旅に使われた品、とだけ書いてあった。
だろう、は紙から落ちていた。
「それで、旅の道具だと分かったわけじゃないんです」
アサは男に説明した。
「水音だけでは、どこだったか決められません。そう考えた、ということを、確かなことのように書きました」
男は店の奥から湯沸かしを出した。
「旅の話がつけば面白いと思って、客にも話したよ」
アサは頭を下げた。
「その分の見立て代を返します。すぐに全部は」
「品物まで偽物になったわけじゃないだろう」
「はい」
「ただ、話に払った金はある。半分の三枚でいい。書き直した紙も置いていってくれ」
アサは返す日を記した。別の約束の五枚と重ならないよう、働ける日を数えた。
男は紙を受け取り、湯沸かしの脇へ置いた。
「もう、お前さんの見立てがついてるとは書けないな」
「分かりました」
アサは外へ出た。
道端に流れた水が、樽の底に当たっていた。櫂のようにも、洗い物のようにも聞こえた。彼は確かめずに歩き去った。
*
次の客は、記録を一緒に見てくれた。
折れた鋏から、子供が数を数える声が出た件だった。アサは聞こえた数字だけを書き、誰の声かは持ち主に確かめていた。訂正すべき説明はなかった。
「こちらの仕事は、このままで大丈夫だと思います。でも、ほかの依頼で嘘をついたので、念のため確かめに来ました」
「分かった。うちのことまで、間違いにしなくていいよ」
客はそう言った。
アサは紙に、持ち主と確認済み、と記した。
戻る途中で雨が降り始めた。
アサは紙を上着の内側へ入れ、修理店まで走った。ユイが戸を開け、まず床を拭ける布を指した。
「今日は二人」
アサは濡れた髪を押さえながら言った。
「返すのが三枚、増えた」
「明日の磨き、やる?」
「やる」
「では、これ。軸を磨く前に、練習用の棒で」
ユイは古い棒を渡した。
アサは作業着へ着替え、灯りの下に座った。磨いたつもりの表面に、斜めから光を当てると傷が残っていた。
削りすぎず、同じところへ力を掛けすぎず、何度も布を動かした。
外では雨が続いていた。二階の窓を閉め忘れていないか気になったが、席を立つ前に棒を台へ留めた。
ユイがそれを見て、初めて頷いた。
*
六日目の朝、雨上がりの岸には、昨日まで水に沈んでいた石が出ていた。
ミオは靴の泥を落とし、古い地図を板へ留めた。トウマは舟を岸へ寄せたまま、彼女が見る場所を見ている。
「水が低いと、ここを擦る」
彼が櫂で石を示した。
「荷を積んでたら、もう少し外。帰りの空舟は、その内側を回れる」
ミオは姉の描いた二本の線を見た。薄いほうの線に、短い矢印がある。濃いほうとは逆を向いていた。
消し忘れではなかった。
「姉は、行きと帰りを分けていたんですね」
「この水なら、使える線だ」
トウマはそう答えた。
ミオは濃い線を消さず、薄い線もなぞらなかった。別の紙へ二本を写し、それぞれの脇に荷と空、と小さく書く。まだ断定せず、トウマと確かめた範囲だけを添えた。
地図を描いたナギの手を、覚えていた。
姉は机へ斜めに紙を置き、鉛筆を短く持った。ミオが横で花を描いていると、紙の端をこちらへ寄せてくれた。姉の図には花がなく、ミオの図には荷物の数がなかった。
同じ机に、違うものを描いていた。
「もう少し、北へ寄ってもらえますか」
ミオが言った。
トウマは頷き、綱を外した。
*
工場の柵の外に、イネがいた。
高いところで作業をする人が二人、声を掛け合って梁へ綱を回していた。下では別の人が、動かす先の空間を確かめている。
ミオは舟から降りずに、予定を尋ねた。
「順調です。上の重いものが外れたら、扉の前へ入れます。二日後を目安にしてください」
イネは柵の位置を示した。
「今日は、そこから先へは寄らないで」
トウマは舟を止めた。
舟は北東の角を左へ回った。西へ延びる細水路と工場の壁の間に、石の通路が見えた。数段の石段を上がれば、あとは通用口まで平らに歩ける。東の窓の下で足を置くところを探したのとは違った。
ミオは、その高さを書いた。
「東なら、高い敷居を越えて板を下りないと舟へ出られない。北の扉なら、そのまま歩いて外へ出られる」
彼女が言うと、トウマは頷いた。
「怪我をした人なら、北へ出せるほうが早かったろうな。ただ、実際に何を考えたかは本人に聞けない」
「ええ」
ミオは二つの出口を線で結んだ。
ナギが北へ回り、東へ戻った。帳面にある往復を、地図の上へ置く。
町へ逃げるための道には見えなかった。開かない出口へ外から行き、開けられずに戻ったと考えれば、舟が二度同じ角を回った理由がつく。
姉を信じたいから浮かんだ考えかもしれなかった。
ミオは線の横へ、確かめる、と書いた。
*
昼、エダの染め場へ行った。
低い平屋の染め場だった。中庭へ向けて大きな桶が並び、軒から竿へ長い布を渡してある。まだ濡れているところは濃く、風で乾いた端は白っぽい。ミオは布の間を通らず、道側の呼び鈴を鳴らした。
エダは手を洗ってから出てきた。
「図、できたの」
「途中です。あなたがどこを通ったか、確かめたいところがあって」
二人は裏の空いた場所へ出た。ミオは木箱を扉に見立て、地面に出口の幅を描いた。正確な現物の再現ではなく、どちらを向いていたか話せる程度のものだった。
「ここから押した、と思います。人が後ろにいて、片腕しか出せなくて」
エダは箱の脇へ立った。肩を前へ出し、すぐに戻す。頭布の端から覗く顎が上がり、唇が細くなった。ミオは鉛筆を止めた。
「押すのは、もうしなくていいです」
ミオが言った。
「位置だけで」
エダは頷いた。二人とも、その箱から少し離れた。
「鍵がないという声を聞いて、ナギを探した。でも、鍵を見たわけじゃない。外へ出たと誰かが言った」
彼女は地面の線を見た。
「後で、ナギが戻ってきた。東へ回れ、って。姉さんに怒鳴られたみたいで、一瞬、腹が立ったのを覚えてる」
「姉は、急ぐとそういう声になるので」
ミオの口元が少し動いた。
「私は年上だったからね。今となっては、妙なことを覚えている」
エダは布を干したほうを見た。
「でも、あの子一人で皆を運んだわけじゃない。私も、人の腕を引いた。男の人が板を押さえた。誰かが後ろから支えてくれた。そこは、消さないで」
「消しません」
ミオは名前を確かめ、分からない人は分からないままに記した。
エダは家から椀を二つ持ってきた。薄い茶が入っていた。
「お母さん、店を続けたね」
「はい」
「最初の年は、買いに行くのが怖かった。顔を見ると、帰ってこなかった人のことを話さないといけない気がして」
ミオは椀を持った。
「母は、魚団子が売れると喜びます」
エダが笑った。
「では、魚団子を買いに行く」
ミオは頷いた。聞き取りの紙には、その約束は書かなかった。
*
夕方、ミオは坂の工務課へ図を届けた。上着の裾に水の点が残り、三つ編みを結ぶ紐は一本緩んでいた。役所の窓へ地図を上げるイネを見ながら、ミオは自分の髪を結び直した。今日は自分で選んで、ここまで歩いた。
姉の古い線、新しい測量、舟の記録、人の通った道。全部を一枚にすると見えなくなるので、三枚に分けた。重ねる位置の印だけを揃える。
イネは三枚を窓の光にかざした。
「裏口と東を、往復した理由を考える図ですね」
「はい。実際に閂を外そうとしたかは、今ある記録だけでは言い切れません。でも、外から金具に手を伸ばしたことと、この道はつながります」
イネはその説明を、図の下へ書くよう頼んだ。
「設備を調べた後、音の記録も同じ位置へ置いて見たいと思っています。個別に聞く形でも進められます。アサさんと同席する必要はありません」
ミオは窓から図を下ろした。
「私が決めてもいいんですね」
「あなたの品物と、あなたの調査ですから」
ミオは時計の箱を鞄の中で触った。
「条件を書いて、渡します」
ミオは言った。
「一緒にするなら、同じ失敗にならない方法で」
帰りに惣菜屋へ寄ると、母が魚団子を裏返していた。
「エダさんが来るかもしれない」
「何本いる?」
「分からない。取り置きじゃなくて、そのうち」
オトは頷き、いつも通りの本数を焼いた。
ミオは手を洗い、客の椀を並べた。明日は、新しい案内図の金額を返事しなければならなかった。




