08_都合のよい道
四日目の朝、アサは鐘の音を四度鳴らした。
二階の東窓に白い光が広がっていた。寝床の仕切りはまだ開き、上着は椅子に掛かったままだ。机の上では、昨夜の食卓へ持っていった紙の隅だけが少し波打っている。
ミオが来る前だった。窓を開けたまま二度、閉めて二度。どちらも同じ三つの鐘なのに、開いた窓では水路の音と混じり、閉めると壁へ近づいたように聞こえた。
彼は昨日の紙を見た。
工場の鐘は高い。材木場の鐘は低い。
その下へ、新しい行を書いた。
時計の鐘は工場外からの音。姉の声とは別の呼び出し。
「可能性」と書こうとした場所に、筆先の丸い跡が残った。
ミオに両方あると言われたことを、覚えていた。トウマの舟に乗った女の話も消えていなかった。だからこそ、こちらの行を太くしたかった。別の鐘だと言い切れば、妹を頼んだ声のほうを、もう一度訊かれずに済む。
彼は紙を窓へ近づけた。断言した行は、明るいところでも同じ文字だった。
階段で靴の音がした。
「おはようございます」
ミオは新しい板を持っていた。昨夜つけた留め金に、朝の案内図が挟まっている。
「先に、これを」
アサはまとめの紙を差し出した。説明はアサ、地図はミオ、設備はダンと、上に名前を分けて書いてあった。
ミオは鐘の行で止まった。
「別の呼び出しだと、分かったんですか」
「音の高さが違います。材木場の鐘のほうに合うので」
ミオは時計へ視線を移した。
「聞かせてもらえますか」
アサは鳴らした。ミオは身を乗り出し、三つ目が消えるまで待った。
「私には、昨日の鐘と同じようにも聞こえる」
「皿を通すと少し変わります。でも、低いほうが残っているんです」
自分の言葉を言い終えてから、窓を閉めたときの音を思い出した。
「当直の人に聞けば、位置も確かめられます」
彼は次の行を指した。
ミオは少し黙り、鞄の中の小さな財布を確かめた。
「午前中だけ。午後は届いた帳面を見ます。そのあと、自分の地図を直すので」
「間に合います」
アサは時計を包んだ。書いた紙の控えを取り、机へ残す。出るときに、開いていた窓を閉めた。
*
川下への定期舟には、卵の籠が積まれていた。屋根は中央の客席にだけあり、岸側の船縁には綱で縛った長い薪が並ぶ。アサは昨夜と同じミオの隣を探し、彼女が地図板を膝へ置くのを見て、一人分ほど離れて腰を下ろした。
アサは今度こそ上手に乗り、座った直後に、足元の籠を動かすなと言われた。ミオは舟賃を二人分払ってから、手帳に六枚と記した。往復の札が二つ渡された。
「あとで半分を」
「まとめてにしましょう。調査で使った分だから」
ミオは札の一つをアサに渡した。
川は工場の先で広がっていた。町から離れるほど、岸にあるものの名前をアサは知らなくなった。白い屋根の下に木が積まれ、太い煙突のない小さな炉が並んでいる。
「乾材倉は、どれですか」
船の男に尋ねると、もう少し先だと言われた。
アサは地図を出した。材木場の門番が描いた丸は、川岸に近かった。実際には、岸から少し入ったところに細い道が延びていた。
舟を降りて歩き始めると、ミオが立ち止まった。
「これ、距離の図ではないんですね」
「場所は合っているはずです」
「道を尋ねてから行きましょう」
彼女は倉の前で木を削っていた女に話しかけた。曲がり角を二つ、一つ目の赤い戸は通り過ぎる。女は足で道を示し、雨の後だから川側を歩くな、と添えた。
ミオは言われた順を紙へ書いた。
アサは、門番の描いた丸を見た。
そこへ行けば確かめられる。それより前を、考えていなかった。
倉へ向かう道の途中で、ミオは濡れた板を避け、土の固いほうへ曲がった。
「あとで、門番の人に道を伝えます。次に来る人が迷わないように」
「地図にするんですか」
「頼まれれば。でも今は、説明だけ」
アサは自分の紙を畳んだ。
「全部、直して回ったら、仕事が終わらなくなりませんか」
「なります。だから、分かるところだけです」
彼女は水溜まりを跨いだ。地図の筒の先が木の枝に当たり、立ち止まって向きを直す。
「アサさんは、聞こえないものを頼まれたら、どうしてるんですか」
「ほかに品物がないか、聞いたり」
「何もなかったら」
答えの前に、ミオが次の角を確認した。倉の屋根が見えた。
「あそこですね」
アサも屋根を見た。
「なければ、ないと伝えます」
自分の声は、いつもと変わらなかった。ミオは、そうですよね、と言って歩き出した。
*
当直だった男は、倉の二階で帳付けをしていた。窓は材木置場を向き、足元の床板の隙間から鉋を使う音が抜けてくる。白い顎髭の先に木屑をつけたまま、男は二人を見ると、自分の帳面に紙を挟んだ。
客の椅子は一つしかなかった。ミオが座り、アサは戸の脇で立ったまま、用意した質問を出した。
人が来るとは聞いていなかった、と言った。アサは紹介された経緯を説明し、ミオは調査のために少し時間をもらえないか頼んだ。
「火事の晩に鐘を鳴らしたのは、こちらですか」
アサが尋ねると、男は眉を寄せた。
「何の鐘だい」
「材木場の呼び鐘です。三つ鳴った音があって」
「鳴らしたかもしれない。船は毎日呼ぶから」
男は手元の紙を畳んだ。
「火事の時間なら、鐘を鳴らすより、材に水を掛けていたな。向かいから火の粉が来るかもしれないんで」
「その前には?」
「いつの、その前だ」
アサは時計の包みを開いた。音を聞いてもらえば、と思った。男は鐘を聞き、女の声で少し顔を近づけた。
「これで、うちだと分かるのか」
「工場の鐘より低いので」
「うちの鐘は火事の翌月に替えた。古いやつは、割れていたんだ。今の音を聞いたんなら、同じじゃない」
アサは指を離した。
ミオが時計を見ずに、男を見た。椅子の上で体ごと向き直り、アサの説明を待たずに尋ねた。
「替える前の鐘は、残っていますか」
「金物へ出した。記録は材木場にあるだろう。見積もりの名なら、同じ箱だ」
「当時、誰かが妹を頼むと言う声を、聞きませんでしたか」
アサの口から出た。
男はゆっくり首を振った。
「聞いていない。だが、聞いていない言葉はたくさんある。俺は向かい側にいたんだから」
ミオが椅子から立った。
「ありがとうございました。今のお話を記して、出所をあなたのお名前にしてもいいですか。覚えていない部分は、そのままにします」
男は頷いた。
アサは包みを閉じた。机には時計を置いた丸い跡が残り、男が布で一度拭いた。
*
帰りの舟を待つ間、ミオは待合いの屋根の下で板を膝へ置いた。座れる幅を少し残していたが、アサは柱に背を寄せて立った。川からの反射が二人の足元でちらつく。待合いの時計の針は、もう昼へ近かった。
自分の案内図に、鉛筆で細かな修正を入れる。立ったまま使えるように作った板が、待合いの腰掛けでも役に立っていた。
「すみません。無駄足に」
アサが言った。
「聞かないと分からなかったことはあります」
ミオは紙を押さえた。
「でも、分かったと書く前に、鐘が同じか確かめてほしかったです」
「替わっていたなんて、門番の人は」
「私も知りませんでした。だから、分からなかったんですよね」
アサは黙った。
ミオは描きかけの矢印を消した。人の肩に隠れない位置へ、少しずらす。
「午前のうちに、この直しを印刷屋へ持っていくつもりでした。午後には木版を使う人がいるので。今日は、試し刷りを頼むと二枚余分にかかります」
「それは、僕が」
「後で整理しましょう。今は、帳面に間に合うよう戻りたい」
舟が来た。
アサはミオの紙へ手を伸ばしかけ、時計の入った自分の鞄を持ち直した。ミオは自分の板を抱え、先に乗った。
町までの間、彼女は地図の文字を直し続けた。アサは風が当たらない側へ座り、鞄を膝へ立てた。紙がめくれなくなると、ミオは一度だけ礼を言った。
それ以上、話は続かなかった。
*
修理店へ戻ると、ダンはアサのまとめを持っていた。
「これを出すつもりか」
「直します。材木場の鐘が、替わっていたので」
「それだけか」
ミオは階段の一段目に靴を掛けかけ、下ろした。自分の地図を取りに行く、水運組合には予定の時刻に来る。そう告げて出ていった。戸が戻るまでアサは彼女の背を見ていたが、ダンの手には、まだ三人の名前のある紙があった。
ダンは三人の名前が並ぶところへ指を置いた。
「俺の名前があると、俺もその鐘を確かめたことになる」
「設備のところだけです」
「なら、分けろ。お前の結論に、俺の寸法を敷くな」
アサは紙を受け取った。
鐘の行だけを消そうとして、手が止まった。先に書いた三人の名前のほうが、消しにくかった。
ユイが階段の横から、空いた小箱を持ってきた。
「時計、持ち歩くならこれを使って。布だけじゃ、留め具を押す」
「ありがとう」
アサは受け取った。
箱には、まだ何も書かれていなかった。




