07_地図に汁を落とすな
その日の午後、修理店へ戻ったアサは、舟で膝から滑りかけたミオの紙を思い出していた。
地図用の板は、引き出しの底だった。
ユイが戸棚の下から引っ張り出したとき、アサは売り物だと思って手を出さなかった。角が欠けていたが、広く、軽かった。
「捨てるほう。金具だけ取るつもりだった」
「これ、もらってもいい?」
「削るのは自分で」
アサは板を作業台へ置いた。ミオの紙は舟の上で何度も風を受け、四隅を膝と手で押さえなければならなかった。大きな板なら、書く場所を動かさずに済む。
鉋を出すと、ダンが一度だけ刃を見た。
「こっちは逆目だ。端を割るぞ」
「分かりました」
アサが向きを変える。二度目には何も言われなかった。
薄い木が丸まり、甘い匂いがした。端の欠けを丸く削ると、予定より少し小さな板になった。金具の位置を測り、穴のそばに残る古い傷を避けた。
「形、変じゃない?」
ユイが言った。
「丸いほうが、服に引っ掛からない」
「左右で違うけど」
「持つ向きが分かる」
ダンが鼻で笑った。
アサは削りくずを集めた。捨てる板の手入れに、思ったより時間がかかっていた。材木場でもらった当直の者の行き先は、鞄に入れたままだった。
ロカが、小さな青い箱を持って来た。
「弟のところにあったんです。あの紙を見せたら、物置を探してくれて」
塗りの剥げた木箱だった。蓋は閉じたままで、ロカは底を両手で支えていた。
「魚と花の焼き型が入ってたはずだって。弟は、箱を覚えてました。無理にこじ開けずに持っていけと言うので」
ダンが鍵の欠片を紙の上に並べ、錠の口と比べた。
「新しく作ろう。元の折れ口は、このままで」
ロカは値段を聞き、一度財布を見てから頼んだ。買い物の後に戻ると決め、箱を台へ置く。持ち上げるときより、置くときのほうがゆっくりだった。
アサが地図板の角を丸める間、ダンは短い鉄から新しい鍵を切り出した。紙の上の二片を何度も見直し、古い錠を傷めない太さまで削る。アサは最後の磨きを任され、白い布が引っかからなくなるまで動かした。
戻ったロカの前で鍵を回すと、錠の奥が軽く鳴った。
「開けても?」
「私が」
ロカは両膝で箱を支え、蓋を起こした。薄い金属の魚と花が、重なっていた。魚の尾だけが焦げて黒い。
「父が、祭りに焼いていた形です。私が小さい頃の」
彼女は魚を一つ持ち上げ、手のひらで裏返した。
「こんなに小さかったかしら」
「手のほうが、大きくなったんじゃないですか」
アサが言うと、ロカは自分の指を見て笑った。
「そうね。今度、焼いてみます。味はどうだったか、弟と言い争いになったんですよ」
アサは、きっとお父さんも喜びます、と言いそうになった。
ロカは型を箱へ戻し、先に笑った。
「焦がしたら、私のせいですけどね」
彼女は代金を払い、新しい鍵を別の紐へ結んだ。折れた二片は、音を残すために包んで手提げへ入れる。
客が帰ると、アサは板の角をもう一度撫でた。父親が箱を運ばせた日までは、分からないままだった。それでも、ロカの手には型があり、粉を買う予定ができていた。
*
夕方、ミオが正面の戸を押してきた。三つ編みの先が少しほどけ、首布を外して手に持っている。外の暑さは引き始めていたが、朝から歩いた靴には新しい泥が重なっていた。
渡し場で使った紙のうち、二枚は縁が濡れ、一枚には指の跡がついている。彼女はそれを一枚ずつ広げ、乾いているところへ印刷屋の見本を重ねた。
「見本の文字、小さすぎました。大きくすると店の名を一つ動かす必要があって」
「舟を小さくすれば」
アサが言うと、ミオは彼を見た。
「今朝、同じことを言われました。とても悔しかったです」
アサは板を差し出した。
ミオは片手で持ち、膝に置き、紙を留めた。留め金を二つ動かしてから頷く。
「これなら、立って描けます。いくらですか」
「余り物だから」
「削るのにかかった時間は?」
アサはダンを見た。ダンはミオのほうを見ていた。
「だったら、店の道を描いてくれませんか」
アサは言った。
「橋から、ここの裏口まで。品物を持ってくる人が、表の階段に迷い込むので」
「できます。両側に入口があると、分かりにくいですね」
ミオは空いた紙へ、まず橋を描いた。
アサは、店の大きな看板も描こうと言った。ダンは、小さくていい、そこまで来れば店が見える、と言った。
「看板を立派に描きたいのは、分かります」
ミオの言い方に、ユイが笑った。
アサは鉛筆を借り、川に舟を一つ描いた。船縁を高くしすぎ、底が細くなった。
「荷を積む前に沈む」
ダンが言った。
「人は乗れるでしょう」
「乗った人の足から沈む」
ミオまで言った。
アサは消そうとしたが、彼女が紙を引いた。
「これは端に残します。舟へ一人ずつ乗る注意の横に」
「僕の失敗を」
「人の役に立ちます」
ユイが机に伏せて笑った。アサは鉛筆を返し、代わりにミオの古い地図を留め直した。
*
オトの店へ着くころには、空が紫色になっていた。開け放した売り窓の下に客が並び、川側の卓だけが一つ空いている。ミオが奥へ声を掛けると、母は鍋から目を離さず、その卓を顎で示した。
今日は団子が残っていた。アサは数える前に、自分の一本を注文した。ダンがその皿を覗き、二本にすればいいだろうと言った。
「食べたい量を自分で決めています」
「財布がだろ」
ユイは遅れて来る予定だった。修理した湯沸かしを、仕事帰りの客が受け取るという。先に食べていて、と店の黒板に書いて残した。
ミオは窓側に座り、隣の椅子へ地図筒を置いた。アサは向かい、ダンは通路側へ大きな体を収めた。卓へ地図を広げると、三人の肘の内側だけが、紙のための四角になった。
オトが汁を置く前に、アサは器の場所を空けた。ダンは器を持ち上げたまま図を覗いた。
一滴、落ちた。
「地図に汁を落とすな」
ミオが言った。
敬語がなくなった。
ダンが器を引き、アサが布を差し出した。ミオは擦らず、紙を上から押さえた。
「すまん」
「これは、今日描いたほうだからいいです。姉のほうには、置かないで」
彼女は二枚を入れ替えず、古い図だけ少し遠くへ置いた。
「そっちも写して、新しい線だけ残せばいいんじゃないか」
ダンが言った。
「新しい線が正しいとは、まだ限らないから。姉も何度か描き直しています」
ミオは、裏の水路にある二つの曲線を指した。
「今日、空の舟と荷のある舟は違うと聞きました。これ、間違いを消した跡じゃなくて、使い分けかもしれません」
アサはトウマの櫂を思い出した。空の舟が横へ流れた、あの角だった。
「姉さん、絵を描くのが好きだったのか」
「必要なところだけ描いてました。私の図を見ると、木を描く前に入口を描けって」
「正しいな」
「その木が好きで、地図にしたかったのに」
ミオは団子を一口食べた。
ナギが帰ってくると、二階へ上がる前に、いつもこの卓へ座った。低くまとめた髪から短い毛が飛び出し、ミオより細長い顔が疲れていた。靴を脱ぎ、靴下のまま足を投げ出すと、甲に残った帯の跡を親指で揉んだ。
「足が邪魔」とミオが言えば、「道を描けるくらい避けられるでしょ」と返した。紙を端へ寄せるのは、その後だった。
いま、卓の下へ自分の靴を引くと、そこには誰の足もなかった。
オトが通りかかり、古い図を見た。
「あの子、道を覚えるのは早かったね。鍋の置き場所は最後まで覚えなかったけど」
「置き場所が、毎週変わるから」
「使いやすくしてるんだよ」
「姉もそう言ってた。店を並べ替えるとき」
オトは笑い、隣の客のところへ行った。
アサは団子を噛んだ。
ミオは汁の跡の残った紙へ、新しい線を引いていた。
*
ユイは、空の湯沸かしの袋を持って来た。前掛けを外し、短い上着を羽織っている。アサが椅子を引く前に、ミオの地図筒を持ち上げてその下へ入り、椅子の背に袋を掛けた。
「返せた?」
アサが尋ねた。
「うん。ついでに、送風機の話もした」
ダンが顔を上げた。
「軸も作り直すと、いくらかかるか聞かれた。明日、見積もりだけ持っていく」
「請けるとは言ってないな」
「言ってない。見積もりを作るとは言った」
「大きい仕事だ」
「小さくするために、必要なところを確かめるんでしょう」
ユイは団子の皿を自分へ寄せた。ダンは何か言おうとして、汁の器を置き直した。今度は地図から離した。
「先に見せろ」
「見せる。でも、駄目って言うなら、どこが駄目かを言って」
ミオは二人を見た後、アサへ小声で言った。
「私も、地図を見せるときに使いたいです、それ」
アサは頷いた。自分の紙を見せるときには、どうだろうと思った。
鞄から材木場の話を書いた紙を出した。
「鐘について、もう一つ当たれるところがあります」
材木場の当直をしていた男は、今は川下の乾材倉にいる。アサが訪ねた門番は、当日の鐘はその男なら知っているかもしれないと言った。
「工場の鐘とは別の音が、入った可能性です」
「明日は帳面も届きますね」
ミオが言った。
「午後です。それまでに戻れます。別の音なら、お姉さんが船を呼んだことにはならない」
「船を呼んだかどうかは、まだ両方ありますよね」
「ええ。確かめれば」
アサは、次の言葉を飲み込んだ。
隣でユイが、送風機の軸の寸法をダンへ示していた。どこが駄目か。父親は図の一箇所を指し、娘はそこへ小さな丸をつけた。
アサの紙には、まだ丸が一つもなかった。




