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遺品に嘘をつく鑑定人  作者: こやみ


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06_三つ打ち

「乗る前に、船を押すな」


 翌朝、組合前の船着き場でトウマが言ったときには、アサの片足は舟にあり、もう片方は岸にあった。背後の事務所から帳面を抱えた人が出てきて、狭い石段を空けようとした、その足だった。


 間の水が広がった。


 ミオが上着の背を掴み、トウマが船縁を杭へ引き寄せた。アサは荷袋の上へ膝をついた。


「押してません」


「足はね」


 ミオが言った。


 アサは彼女を見た。あのとき、橋の籠売りに言われたことを、話してはいないはずだった。


 トウマは笑わず、二人に座る場所を示した。アサより背は低いが、藍の上衣に包まれた胴が太く、舟の揺れを膝だけで受けている。短いつばの帽子の下には深い目尻があり、笑わなくても、こちらの失敗を全部見た顔だった。手の甲が日焼けし、綱を引く指だけ薄い色をしている。


 舟の腹には二の字が白く塗り直され、その下に古い数字が透けていた。


「これが二号ですか」


「これは今の二号。火事のときの舟は、もう荷を積ませてない。あそこに繋いである」


 対岸に、低い舟が一隻あった。端に草が引っかかり、船底を乾かすための板が渡されている。


「今日はこっちで道を見る。昔の舟を見るなら、あとで。いきなり乗るなよ」


 最後の言葉はアサに向けられた。


 ミオは濡れてもよい紙を板へ留めた。板の上から、絵のない新しい案内図が見えた。


「まず渡し場を二つ。そのあと工場でいいですか」


「積んだ袋を下ろせば、空になる。重い舟と軽い舟も違うから、覚えときな」


 トウマが綱を解いた。


 舟は岸から離れた。水運組合の大きな戸が遠ざかり、軒へ掛けた綱が人の腕ほどの細さになった。アサは前、ミオは中央、トウマは後ろで櫂を持つ。舟底の板一枚の下に水があると思うと、岸から近いのに、町からひどく遠かった。


 壁が、歩くときとは違う速さで流れ始める。水面近くの石には、陸から見えなかった青い筋が何本もあった。


     *


 最初の渡し場で、ミオは客の動きを見た。


 籠を二つ持つ女が、案内札を見ずに右へ曲がる。トウマが声を掛けると、女は遠回りして戻ってきた。


「札を、もう少し低くしたいです」


「低くすると、荷で見えなくなる」


「では、曲がる手前にも同じ印を」


 ミオは紙へ二つの矢印を描き、アサへ渡した。


「そこで持ってみて」


 アサは岸へ上がった。船が動かないのを確かめ、今度は一度に足を移した。


 札を持って立つと、トウマが荷袋を肩へ担いだ。ミオも籠を抱え、客と同じところから歩いてきた。


「顔の前です」


「じゃあ、上?」


「少し右。人が立つ場所からずらして」


 アサが腕を伸ばすと、通りかかった子供が札を見て曲がった。


「ここなら見える」


 ミオは印をつけた。


「僕、ずっと立ってるんですか」


「杭を立ててもらいます」


「よかった」


 トウマが最後の袋を下ろし、空の肩を回した。


「若い杭は、飯が要るからな」


 アサは札を返した。ミオは礼を言い、紙の角に時刻を書いた。机で形を整えた地図が、歩く人の肩幅で変わっていくのを、アサは初めて見た。


     *


 二つの渡し場で荷を下ろしてから、舟は南へ向かった。家の軒が途切れ、昨日は陸から見た煙突が、水路の右手へ現れた。


 東の口の前まで下ると、トウマは櫂を短く持ち、舟の向きを返した。


 水路の角から風が落ちてきた。空の舟が少し横へ流される。


「北へ入る角だ。まっすぐ進むと向こうの岸へぶつかる。左へ回す。積んでると曲がりにくい。乗ってる人数で違う」


 ミオは古い図の矢印を見た。曲がり角を大きく回る線の下に、小さく回る線が残っている。


「行きと帰りで、線を分けることがありますか」


「荷のあるなしでな。描いた人は舟に乗ってたか」


「姉です。荷の数を確かめる仕事もしていました」


「なら、その違いを知ってたろう」


 ミオは古い線をなぞらず、その横に短く書いた。


 角の曲がり方を見てから、トウマは東壁の正面へ舟を戻した。荷積み口は舟から見ると高く、煤の奥に残る床が一段引っ込んでいる。アサは首を反らし、ここから品物を持ち上げる腕を想像した。


 トウマは櫂を止め、安全な距離で舟を杭へ繋いだ。イネの手配した現場の人が、離れた仮の足場から見ている。


「鐘は、あれです」


 アサが指した。


「呼び鐘だ。三つ鳴らせば、空いてる荷船を寄せてくれということになる」


 トウマは現場の人に声を掛け、綱を下ろしてもらった。朽ちたところを避け、新しい綱を一時的に繋ぐ。


 アサが引いた。


 カン、カン、カン。


 水の上に音が転がった。


 ミオが鞄を押さえた。時計は布に包まれて、その中にあった。


「似ています」


 アサも頷いた。彼は舟の底へ銅皿を置こうとし、トウマに止められた。


「揺れてる上でやるな。落とすぞ」


 岸へ戻り、動かない荷台の上で時計を鳴らした。鐘、水、布、欠けた声。ミオは紙に書いた順を指で追った。


 トウマは二度聞き、顎を掻いた。


「呼び方は同じだ。だが鐘はほかにもある。向かいの材木場にも、少し上の染料蔵にも」


「ここだとは、決まらない?」


「鐘だけならな。鳴らす癖もある。急げば詰めて打つ。風でも聞こえ方が変わる」


 アサは紙へ、同じ合図は他所にも、と書いた。


「あの日、ここへ来たんですか」


 ミオが尋ねた。


「来た。火が見えて、鐘も聞こえた。東で人を拾い、北へ回った。そのあと、東で五人を出した」


「最初に乗った人は?」


「顔は煤でよく分からなかった。荷の仕切りをしていた女の人だ。ナギという名は、岸へ戻ってから出荷の者に確かめて書いた」


 ミオの鉛筆が止まった。


「姉、だと思います」


「帳面と、当時書いた届けを見よう。俺も順番を話すとき、後で聞いたことを混ぜるかもしれん」


「北で、何をしようとしていたんですか」


 ミオが尋ねた。


「外の金具へ手を伸ばしたところは見た。ただ、煙を避けて目を覆ったので、どう動かしたかは分からん。そこも、届けを確かめて話したい」


 トウマは時計を見た。


「北で何分止まったかも、今ここで言えない。あの晩は、普段の一分と同じ長さじゃなかった」


 ミオは頷き、続きを急かさなかった。


 アサは、同じ合図は他所にも、と書いた行を見ていた。


     *


 帰りに、古い二号船を見た。


 船底に水が溜まらないよう、小さな栓が外してあった。トウマは板の上から中を見せ、火事の後に直した箇所を指した。


「ここに掛けた板を、荷積み口へ渡した。人を乗せると舟が下がるから、板が急になる。怪我をした人は、まず部屋から高い敷居へ上がるのが難しい。それから、この板を舟へ下りる」


 ミオは自分の膝へ手を当てた。二十歳の彼女にも、大きく跨ぐ必要のある高さだった。


「最初から、皆さんをここへ呼べたんでしょうか」


「中の様子は見えんかった。俺が言えるのは、外からできたことだけだ」


 トウマは板を戻した。


 水運組合の帳面は、川上の保管所から翌日の便で届くという。火災の届けと一緒に、イネへ回す手配になっていた。三人で確認する時刻を決めた。


 荷車を引く女が、岸でミオに声を掛けた。


「お母さん、脚はどう?」


「もう大丈夫です。エダさんこそ、それ、一人で?」


 西の染め場のエダだった。頭布へ髪を包み、長い輪郭の口元をきつく結んでいる。灰色の仕事着と前掛けには、洗っても落ちない藍の染みがあった。荷車の車輪が石の隙間にはまり、彼女は長靴の踵で石を押していた。左肩を引いたまま、右腕に力を集めている。


 アサとトウマが片側を持ち上げると、車輪が動いた。


 ミオは時計のことと、扉を調べる予定を話した。


 エダは荷車の柄を置いた。


「裏口を押したとき、胸の辺りで何かが当たった音はした。鍵がないって、後ろで誰かが言った。でも私は、錠前を見ていない」


「ナギを見たのは、そのあとですか」


「荷積み口のほうで。白い布を手に巻いていた。窓に上がれない人を先に、って。私も肩を貸して、二人で上げた」


 彼女は左肩を回した。


「船に下りたときには、あの子は中へ戻っていた。そこから先は見えなかった」


 ミオは短く礼を言い、どこまで書いてよいか尋ねた。エダは、今のことは全部いい、と答えた。


「思い出せるか分からないことまで、今日ここで約束はできないけど」


「はい。調べた道を後で見てもらえたら、それだけでも」


「昼休みなら。染め場の人に声を掛けて」


 女は荷車を引いていった。ミオはその背中が曲がり角を抜けるまで見てから、自分の紙に、見たことと聞いたことを別の行で書いた。


 ミオは午後の渡し場へ向かった。案内図の文字の大きさを、もう一度客に見てもらうという。


 アサは時計を持って修理店へ帰った。


 途中、材木場の鐘が鳴った。三つだった。


 工場の鐘とよく似ていた。


 彼は立ち止まった。時計の中で鳴っていた鐘が、こちらのものなら。姉の声と、船を呼んだ人が別なら。


 ミオの望む言葉と、鍵を持って工場を離れた人を、同じ場所で考えずに済む気がした。


 道端で紙を出し、材木場の名を大きく書いた。


 門の向こうには角材が乾いた山を作り、人がすれ違うたびに木屑が舞った。アサは工場へ目を戻さなかった。鐘が一つ違う場所から聞こえれば、あの机で自分が言った言葉まで、支え直せるような気がした。


 舟から降りるとき、トウマが言った順番も隣にあった。東、北、東。女の人。


 アサは先に、材木場の門を叩いた。


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