05_箱に入っていた事故
役所へ戻ると、イネは三人を裏の部屋へ案内した。
紙を読む部屋には、洗濯物のように紙が吊られていた。梁と梁に張った細い紐から、焦げた端が下がっている。外では町の洗い物が日を受けていたのに、この部屋の窓は半分だけ閉じ、白い布で光を和らげてあった。
ミオは入口で足を止めた。濡れた紙の間に人が入れるだけの隙間があり、窓際に、小さな重しが並んでいる。イネは頭を下げて一枚の下をくぐった。
「触るのは机に出した分だけにしてください。貼りついたところを剥がす人は、別に頼んでいます」
ダンは帽子を窓のない壁際へ置いた。アサは自分の鞄を床へ下ろしたが、すぐ膝へ引き上げた。床にも紙があった。
「金庫は、今まで出せなかったんですか」
「事務室ごと床が落ちていました。土地の買い手が決まって、ようやく揚重機を入れられたんです。扉を開けても、中はこの通り」
イネが一枚の紙を示した。縁は焦げていたが、真ん中の罫線は残っていた。
当日の出荷控えだった。
荷先と数量の下に、違う筆跡で追記がある。
二号積出し後、北通用口の外閂を戻すこと。
残り三反、夜勤にて仕上げ。
バルト、と署名があった。
ミオは読み終え、ダンの工事控えを近くへ引いた。
「夜勤があるのに、戻すんですか」
「そう読めます」
イネが答えた。
「指示が出て、実際にどうしたか。それも調べます」
アサは日付を確かめた。火事の前の日の指示ではない。当日だった。時計から聞いた音より、こちらのほうが、ずっとはっきりした言葉で書かれていた。
「姉が、これを受け取ったんでしょうか」
ミオが尋ねた。
「控えの受領欄は出荷係の印です。交代の人にも聞きます。ナギさんが命令を出した記録ではありません」
ミオは、自分の紙にそこまで書いた。アサも同じことを書こうとして、途中でやめた。二人が同じ紙を二枚作るより、元の行を正しく写すほうがよかった。
別の束には、夜勤者の名前が九つあった。
五つの名前の横に丸がついている。残り四つには何もない。イネは丸の意味を、救助された人だと説明した。
ナギの行は、空いていた。
ミオは紙に指を置かなかった。膝の上で、鉛筆を持ち替えた。首布をほどきかけて、結び目を残したまま手を下ろす。朝、桟道でアサに足を置く場所を教えた声と、次に出た声は、同じ高さなのに薄かった。
「丸を見ていたら、人数を数えられなくなりました」
「名前だけ、別の紙に写しましょうか」
アサが言うと、彼女は首を横に振った。
「大丈夫。今は、これを見ます」
イネは次の紙へ急がなかった。窓の外を荷車が通り、部屋のどこかで、吊った紙の端が触れ合った。
風が強くなり、窓際の紙が隣の一枚へ触れた。イネが立つより先に、ミオが窓を細く閉めた。紙には触らなかった。
「地図も、濡らしたことがあって」
彼女は席へ戻りながら言った。
「乾く前に剥がしたら、川の名前が向こうへ移りました」
イネは小さな重しを一つ替え、二枚の間を広げた。
「ここにあるものは、ほとんど失敗できないので。仕事の遅い部屋に見えるでしょうが」
「遅いとは、思いません」
ミオは言った。アサも頷いたが、彼の紙には、まだ写す予定の空白がいくつもあった。
ダンは机の下に置いた道具袋から、小さな木片を出した。窓の桟へ挟むと、窓は同じ細さで止まった。
「これなら、風が変わっても広がらん」
「帰りに持っていってくださいね」
「余り物だ。置いていく」
イネは木片の裏を見た。寸法を測るための印が、何本も残っていた。
「助かります。ここへ置いておきますね」
イネは窓を押して、木片がずれないのを見た。ダンも一度だけ確かめて席へ戻った。三人の椅子を引くと、吊った紙の下に、ようやく人の通れる道ができた。
*
生きている五人のうち、二人は町を離れていた。三人は町と近郊にいる。
ミオが一人の名を指した。
「エダさんは、今も西の染め場です」
「そうです。前に話を聞いたときの記録が、こちら」
イネは折り畳んだ紙を広げた。
裏口は押しても開かなかった。
ナギは外へ出たと聞いた。
後に荷積み口から戻り、船へ出るよう言った。
「戻ったことも、書いてあります」
ミオは声を落とした。
「知っていました。前にも見せてもらったから。でも、それは鍵を持ち出した後のことだから、別だと言われて」
「以前のまとめでは、そうなっています」
イネは別の紙を示した。工場長の説明として、外閂は退勤時に開放、内錠の鍵を持つ班長不在、とある。
アサは二つの紙を見比べた。逃げる人を助けたことと、その前に出口を閉ざしたことは、紙の上では両方成立する。その真ん中に、見えていない扉があった。
船の記録は、水運組合にあるという。イネは帳面の名と日付、二号船を扱っていた船頭の名を書いて渡した。
トウマ。
「今日は川下へ荷を運んでいます。明日の午前は戻るはずです。記録は、組合に出してもらうよう連絡しておきます」
「一緒に乗れますか」
ミオが尋ねた。
「本人と相談してください。舟を出す費用はこちらで立会い分を持てますが、皆さんの私用までは」
「仕事も合わせられたら、と思って。渡し場の案内図を直しているので」
ミオは自分の地図を出した。イネは少し笑った。
「あの渡し場、私も荷の列へ並びましたよ。字を大きくしてもらえると助かります」
「ここの紙がないと、描けないところもあります」
ミオは地図をしまい直した。
アサの書いた船頭の名は、一文字だけ濃かった。芯が欠けて、書き直したのだった。
*
バルトは、午後の終わりに来た。
戸口で帽子を取り、イネへ挨拶し、三人を見た。背の高い、細い男だった。撫でつけた髪の白いところがこめかみにまとまり、頬の窪みから顎まで、縦の線が長い。濃緑の上着には雨染みがなく、磨いた靴が部屋の敷居で揃った。革の手袋を片方だけ持ち、もう片方の手には書類袋があった。
「オトのところの、ミオさんだね」
「はい」
「案内図、川下で見た。荷先が分かりやすくなった」
「ありがとうございます」
ミオは地図筒を脇へ寄せ、椅子を一つ空けた。
バルトは座らなかった。今は工場会の共同出荷場を預かっている、とイネが紹介した。彼は机の出荷控えを見て、手袋を折った。
「これが出たと聞いた。読めるところがあってよかった」
「この追記を確認したいんです」
イネが言った。
「ご自身の指示ですか」
「私の字だ。盗みが続いていた時期だから、荷を出した後は閉めるようにしていた」
「夜勤の間も?」
ミオの声に、バルトが顔を向けた。
「出入りするときには、現場の者が開ける。誰もいない口を、開け放しておくわけにはいかない」
「人は、中にいたんです」
バルトは手袋を机へ置いた。手袋の指を揃えてから、ミオの顔を見た。
「それは知っている。私も、その九人の名前は忘れていない」
部屋の中で、吊った紙が一枚揺れた。
「ナギが戻って、人を船へ出したことも知っている。そこまで否定しているわけではない。だが、その前に鍵がなかった。私にできる説明は、当時した通りだ」
アサは、鞄の中の時計を意識した。
何か言えれば、と思った。
妹を頼むと言っていた。その人が、逃げたはずがない。
口に出す前に、ダンの太い指が机へ置かれた。出荷控えと、以前の説明の間だった。
「外が開いていたのを、見たのは誰だ」
「閉まっていたのを、君は見たのか」
「見てない。だから扉を見る」
ダンは言った。
「俺が付けたものだ。鍵の話だけで終わらせるわけにはいかん」
バルトはイネへ視線を戻した。
「調査には協力する。ただ、まだ決まっていないことを町へ広めないでもらいたい」
「資料の写しには出所を記します。結論も、確認できたところからです」
イネは新しい紙を一枚出し、今日の確認事項を書き始めた。
バルトは手袋を取った。ミオに何か言いかけ、代わりに、通路を空けてくれてありがとうと言った。
出ていく背中は、急いではいなかった。
*
日が傾いたころ、三人は役所を出た。坂の下には木版を干す印刷屋の窓があり、その先で荷車が橋を待っていた。ミオは眩しさに目を細め、地図筒の紐を肩へ掛け直した。長い部屋にいたのに、体のほうが縮まったようだった。
ダンは店へ、ミオは印刷屋へ向かうという。納品は三日後だった。アサはミオの写しの半分を持って、途中まで歩いた。
「ナギさんが戻ったのは、確かなんですね」
「エダさんは見ています。ほかの人も。ただ、外に何をしに行ったかは、ここには書いてない」
ミオは筒の紐を結び直した。
「戻ったなら、助けるつもりだったんじゃ」
「そうかもしれない。私は、そう思いたいです。でも、その前に何をしたかも知りたい」
アサは頷いた。
印刷屋の前には、赤い札が吊られていた。受け取る前に必ず綴りを確かめること、と書いてある。
ミオは紙を受け取ると、最初に、自分の名前を見た。次に地図の端から一つずつ、通りの名を指で追った。
アサは入口で待った。
『妹を頼む』。
自分の書いた五文字だけが、紙の上へ戻ってきた。綴りは、間違っていなかった。




