04_扉を残す
翌朝の工務課で、ダンは帽子を握ったまま立っていた。
岸から坂を一筋上がった石造りの役所だった。高い窓の光が、待合いの床を四角く白くしている。濡れた靴が滑らないよう麻の敷物があり、その端でダンの厚い靴が止まっていた。ミオは机に近い側、アサは入口に近い側に立ち、呼ばれるのを待った。
アサは座ってくださいと言いかけ、やめた。椅子は二つしかなく、一つにはミオの地図、もう一つには役所の猫がいた。
猫は地図を見ていた。
「下ろしていいですよ」
奥から出てきた女が言った。
アサが猫へ手を伸ばすと、女は地図のほうを指した。
「それを机へ。猫は噛みます」
ミオが地図を移した。アサは、その空いた椅子をダンに押した。
女はイネと名乗った。灰色の立ち襟の上着に革帯を締め、束ねた短い髪の端が襟から跳ねている。鼻筋の通った細い顔は、こちらへ向けるより先に三人の持つ図を見た。袖口には白い粉、短靴には外の泥。机の端にも、紙より先に小さな石が並んでいた。
「扉を見たいとのことでしたね」
「残していただきたいんです」
ミオが言った。
「解体の順番が来たら、他の鉄と一緒に運ばれる前に。外の閂と、中の鍵のところを」
ダンが控えを出した。紙は茶色くなっていたが、角の穴に新しい紐が通してあった。
「俺が付けました。前にも渡したものです。取付位置が分かる」
イネは控えと地図を並べた。日付、工場名、金具の寸法を読み、壁の予定表を見た。
「扉の一帯は保存対象にできます。動かす前にこちらで確認します」
あまりにすぐ答えが出たので、ミオは口を閉じた。
「ただ、今、下へ入ることは認められません。上の梁が残っています」
「いつなら」
「支えを入れて、上から外します。早ければ来週半ば。今日、現場で作業の順を相談しましょう」
イネは三人を見た。
「品物の音もあると聞きました。何が分かりますか」
アサは鞄の留め具を開いた。
「鐘と水音、女の人の声が」
説明の紙へ指が触れた。妹を頼むとの言葉。ミオも、その紙を持っている。
「時計の蝶番が折れる直前のものです。火災の時刻と同じか、どこで鳴ったかは、まだ確かめていません」
「では、今は場所を考える材料ですね。品物はどなたのものですか」
「私の姉のものです」
ミオが回収位置の紙を出した。イネは番号を書き留めたが、音をここで鳴らせとは言わなかった。
「昼までに、今回出てきた書類の一覧も揃えます。当時の調査分と合わせて見られるようにします」
「新しい書類があるんですか」
「事務室の金庫から。一部は水で貼りついています。読めるものから」
ダンが控えの紐を触った。
「昔の結論は、どうなります」
「今、変わるとは言えません。変えるために何が必要かは、一緒に確かめられます」
イネは三枚の入場札を出した。
猫はアサの鞄を嗅いだ。蒸し芋の包みが、一晩入ったままだった。
*
工場へは荷車に同乗した。
道具と書類を運ぶ車で、人が乗るための座席はなかった。アサは削った木材の上に腰を置き、揺れるたびに体を浮かせた。ミオは膝で地図筒を挟んでいる。
「歩くより楽だと思いました」
「歩くより早いとは言いました」
イネが言った。
南の工場は、町の家並みが切れた先にあった。荷車は西の陸道を進み、長い煉瓦塀の前で止まった。表門の奥には、平屋の家を幾つも横へ繋いだほどの建物がある。屋根は半分なく、煙突だけが高く残っていた。
塀の切れ目の先、東側で水が光っている。その水路が建物の向こうで折れ、北の裏手を回るのだと、ミオが膝の地図を見せた。荷車から見えるのは、西の入口と欠けた屋根ばかりだった。
壁の上に草が生え、水路側の新しい柵では、立入禁止の布が風で裏返っていた。
荷車を降りると、ダンが一度、表門を見た。門脇の作業小屋では、記録係が木箱のような写真機を三脚へ載せていた。黒い布を被る人の足だけが見える。イネは全景を撮り終えるまで道を空けるよう、荷車を端へ寄せた。
ミオは表門を見上げず、まっすぐイネの後を歩き、入ってよい範囲を確かめた。
乾燥炉のあった西側は、煉瓦の山になっていた。表門から作業場への道は、そのそばを通る。
「ここが火元です。炉の内張りと排気の不備は、前の調査で確認しています」
イネが言った。
ミオは頷いた。知っている場所の名を、知らない高さの瓦礫と見比べていた。
北側へ向かう途中、仮の桟道があった。一人ずつ渡るように言われ、アサは先に足を出した。板が軋む。
「真ん中へ」
ミオの声がした。
「端を歩いたら、荷重が片寄るから」
アサは足を移した。下には、黒い水が溜まっていた。鏡のような水面に、欠けた屋根が映っていた。
通用口は見えなかった。
あるはずの場所に、梁と壁が折り重なっていた。枯れた蔓の間に、鉄の端が少し覗いている。ダンが一歩進み、イネが手で止めた。
「そこで測ってください。近づくのは、支えを入れてからです」
「あの鉄が、閂かどうか」
「今は、ここから見えることだけ」
ダンは靴を引いた。
アサが巻尺を持つと、ダンは自分の端を杭へ掛けた。ミオが距離を書き込む。塀の角から扉の中心まで、古い図と二歩以上違っていた。
「図を描いた人は、ここへ入れたんでしょうか」
ミオが尋ねた。
「当時は、今より上の壁がありました。工場の提出図をもとにした部分があります。そこは分けて記します」
イネは作業の責任者を呼び、梁をどちらから外すか話した。扉の付近を赤い紐で囲み、番号札を付ける。外した部材を置く場所も、柵の内側に決めた。
ミオは、その作業が終わるまで見ていた。
「ここが残るなら、測れます」
帰りの桟道で、彼女が言った。
「なくなる前に全部知ろうと思っていたから、何からすればいいか分からなかった」
アサは、札のついた赤い紐を振り返った。
それを付けたのは、自分ではなかった。
*
東側を見るため、三人は柵に沿う仮の見学路を回った。煉瓦壁の中ほどに、荷を丸ごと差し出せる大きな口がある。下の石積みは、そのまま水へ落ちていた。
窓というには大きく、扉というには敷居が高い。中の床から腰を上げ、敷居を越え、それから舟へ下りる高さだった。陸の戸口のように一歩で外へ出ることはできない。ミオは足を止め、紙の上で同じ大きさだった二つの入口を見直した。
ミオは回収図を開いた。
「時計は、この奥ですね」
「作業棚の裏。棚を動かせるところまで補強したので、品物を回収しました」
イネが柵の外から位置を示した。床の端に、荷擦れを防ぐ鉄の帯が残っている。
岸の杭の向こうに、小さな屋根があった。古い鐘が吊られ、綱の切れ端が垂れていた。
アサは水路の縁へ沿って視線を動かした。荷積み口のすぐ下には、歩ける岸がない。北へ回る細水路の先で、ようやく石の通路が現れる。そこから裏口の外へ出られる形だった。
「ここから、裏へ歩いて回れないんですね」
「この口から出たら、まず舟です。陸側の道へ出るには、建物の中を戻って西の門を使う」
イネが答えた。
ミオは図の余白に、水面から敷居までの高さを書いた。次に、裏へ回る水路の曲がり方を描く。
「舟の人には、この角も見てもらいたいです。図だと、真っすぐ抜けられるように描かれているから」
「工場の図は、建物が中心でしたからね」
「逃げた人が通る場所も、描いておきます」
ミオは鉛筆を二度削った。削りくずを川へ落とさず、空いた袋へ入れた。アサが袋の口を持つと、彼女は描き終えた場所を指した。
「そこの長さ、帰りに歩幅でも確かめましょう。巻尺を掛けられなかったので」
アサは頷いた。次に自分がすることが、一つ決まった。
「あれ、まだ鳴りますか」
アサが尋ねた。
「船の人に聞いたほうが早いですね。こちらでは動かしていません」
彼は鐘の位置を地図に書いた。時計の音と、同じ音かもしれない。
ミオが横から覗き、鐘の印を少しずらした。
「岸に付けないで。杭は水の上です」
「少しの違いでしょう」
「舟に乗るときには、少しじゃないです」
ダンが頷いたので、アサは消して描き直した。
帰る前に、イネは三人を表門へ集めた。作業予定は紙にし、変更があれば惣菜屋と修理店へ知らせることになった。
「今日はここまでです。見つけたものがあれば、勝手に動かさず連絡してください。皆さんが見た場所も、次の人が確かめられるように」
ミオは預かった札を返した。
帰りは歩く、と言ったので、アサも荷車を断った。ダンは木材の上へ腰を下ろした。
「尻が痛くなりますよ」
「昨日しゃがんでた膝が、まだ文句を言ってる」
荷車が先に出た。
アサとミオは西の道へ出て、水路沿いの町へ戻った。遠くの二階屋の竿に、白い布が何枚も見える。あの下まで行けば、人の声と店の匂いが戻る。
途中でミオは低い石へ靴を掛け、土を落とした。上着の背が張り、三つ編みが肩から落ちた。爪先には、昨日と同じ白い粉がついている。
「昨日も来てたんですか」
「時計を受け取りに。ついでに外を歩きました」
「一人で?」
「道を描くときは、たいてい一人です」
ミオは立ち上がった。
「でも、今日は杭を見落とさなくてよかった」
アサは鞄の中の鉛筆を触った。鐘を描き直したところだけ、紙が少し薄くなっていた。




