02_言葉を足す
ミオは椅子を机の横へ運んだ。脚を持ち上げて狭いところを通し、東窓の光がアサの右手に落ちる場所で止めた。上着の肩には、外を歩いてきた日の熱がまだ残っていた。
「向かいでなくていいですか」
「手元を見たいので。邪魔なら戻します」
「いえ」
アサは時計の下へ白い布を敷いた。さっきまでロカの鍵があった場所だ。布の隅に残った黒い繊維を拾い、新しい紙の上に移す。
ミオは丸めていた地図を膝の間へ立てた。筒の縁に糸が巻かれている。ほどいて丸めるたびに折れないよう、補強してあるらしい。
「見つかった場所は、分かりますか」
「東の荷積み口の下。作業棚の後ろに落ちていたそうです。これをもらいました」
地図とは別の、小さな紙が出てきた。工場の略図に、赤い丸と番号がある。回収した人の名前、昨日の日付。時計以外にも、皿や工具を拾った位置が書かれていた。
「勝手に持ち出したものじゃないです。遺族に返す品だって」
「それは疑っていません。音がどこで鳴ったか考えるとき、役に立つので」
アサは紙の端を揃え、写してよいか尋ねた。ミオが頷く。
時計の裏には、ナギという名と、小さな三日月が彫られていた。手のひらに収まる丸い真鍮の背で、そこだけが黒ずみの間から明るく見えた。
「姉は、二十二でした」
ミオは親指を月の下へ置いた。
「いまの私が二十だから、あと二年で同じになるんです。あの頃は、ずっと大人に見えたのに」
アサは頷いた。年上の人が皆、迷わず物を決められるように見えることなら、知っていた。
「お姉さんが彫ったんですか」
「月は私です。名前を彫った店の人が、余ったところを好きにしていいって。十歳でした」
なるほど、とアサは言った。上手ですね、とは言わなかった。三日月は途中で二本に分かれて、豆の莢に見えた。
「変でしょう」
「月なら、分かります」
「姉には、虫に食われた豆って言われました」
ミオが指で三日月を隠した。少しだけ口元が緩んだ。
アサは蓋を持ち上げた。曲がった針や煤には触れず、外れた蝶番を明かりのほうへ向ける。継ぎ目の穴と、ちぎれた金属を混同しないよう、片側ずつ見る。
指を当てると、短いざらついた音がした。
ミオの膝が机に当たった。
「今のも?」
「はい。少し、掃除します」
折れ口に炭の粉が詰まっていた。アサは息を吹きかけず、柔らかな刷毛で受け皿へ落とした。吹けば見えなくなる小さな欠片も、戻せるよう紙に残す。蝶番を削れば手早いが、元の面まで失う。
ミオは口を結んで見ていた。階下で湯沸かしの蓋が鳴り、人の出入りする音がした。
「その筒も、仕事道具ですか」
刷毛を替える間に、アサは尋ねた。
「渡し場の案内図です。初めて来た人が、荷船と渡し舟を間違えるので」
「間違えますか」
「荷船に乗って、川下の倉へ連れていかれた人がいました。私の図を見て」
アサが顔を上げると、ミオは筒を指で回した。
「船の形を描けば分かると思っていたんです。その人には、帆があるかどうかしか違いがなかった」
「どう直したんですか」
「行き先を大きく。荷物だけの船には、そう書きました。絵を少し小さくするのは、悔しかったですけど」
アサは笑いかけて、時計を持つ指へ目を戻した。
「僕も、この机を大きくしたいんです。品物と紙が、いつもぶつかるので」
「先に、そのナットの値札を外しては」
「借り物なんです」
「では、返すところから」
ミオは初めて、背中を椅子に預けた。アサは隣へ置いた皿を一枚片付け、彼女の肘が机に乗るだけの場所を空けた。
十数分かけて、時計は声を出した。
水が板にぶつかる低い音。
カン、カン、カン。
近くで布が擦れ、女の声が、その隙間に挟まっていた。
『……を……せ……』
硬いものが台を擦る。音はそこで切れた。
ミオが息を吸った。
アサは時計を持つ角度を変えた。もう一度。皿を替えて、もう一度。鐘の音は広がったが、声の欠けたところは埋まらない。布の音の奥に、ありそうだと思う音はいくつもあった。どれも、聞こうとすると別のものになった。
「姉に、似ています」
ミオの声は小さかった。
「怒鳴ると、少し掠れるんです。普段は低くないのに」
アサは記録紙に、鐘三つ、水、女の声、と書いた。言葉は『……を……せ……』。その隣に、呼びかけ先不明。
「続きは、ないんですか」
「ここまでです。同じところしか鳴りません」
「じゃあ、その前は」
「前も、僕には」
ミオは両手を膝へ下ろした。
アサは刷毛を置いた。動かす理由のあるものが、もうなかった。
ミオの肩は、部屋へ来たときより小さく見えた。時計の縁から手を離したまま、彼が次に何を言うか待っている。アサは袖を引き、出すぎた手首を隠した。階段の下で言われた「鑑定の方は」が戻ってきた。いま、下のダンを呼びましょうかと言えば、この椅子を別の誰かへ譲ることになる気がした。
「ミオ、って」
彼女が言った。
「名前を呼んだようにも聞こえたんです。最初の、音が重なるところ。私の思い込みでしょうか」
アサは、もう一度時計に触れた。
カン、カン、カン。
ミオ。そう思えば、その二音はありそうだった。舟。そう思えば、水際の誰かを呼ぶ声にもなった。
紙の上には、二つの音しか書けていなかった。
分かりません。喉の奥で、その短い返事を作った。ミオは顔を寄せて待っていた。初めて入った部屋で、名も知ったばかりのアサの答えを待ってくれていた。
乾いた唇を舐めた。これを言えば、彼女は時計から顔を上げるだろう。自分に頼んでよかったと思うだろう。
「妹を、頼む、と」
分からないと答える代わりに、その言葉を選んだ。言い終えた舌を、下の歯へ押しつけた。
ミオが顔を上げた。彼を見た目が、先ほどより大きく開いていた。
「そう、言ってるんですか」
まだ戻せた。かもしれない、でも足りない。分からないと伝え直すだけでよかった。
その目が曇るところを見たくなかった。上着の中で、汗が背を一筋下りた。
「はい。聞き取れます。妹さんのことを、誰かに頼んでいる言葉です」
紙に書いた音のどこにも、妹はなかった。
ミオは時計から手を離し、目の下を指の腹で押した。
「すみません。そうですか」
彼女は窓のほうを向いた。水路から照り返した光が、頬の下だけ明るくした。
アサはその横顔を見ていた。
下から、ユイが名を呼んだ。返事をしても声が出なかったので、咳払いをした。
「あとで行く」
大きすぎる声になった。
*
ミオは六枚の銅貨を置いた。
アサは数え、受取を書いた。聞こえた音を写した紙と、説明の紙を重ねる。説明の欄に『妹を頼むとの言葉』と書くとき、筆先が一度止まった。
「この、不明というのは?」
ミオが原記録を指した。
「呼びかけた相手が、誰なのか」
「ああ。頼んだ相手までは分からないんですね」
彼女が自分で埋めた言葉に、アサは頷いた。口を開かずに済ませたせいで、先ほどの声より嘘が軽くなる気がした。受取を押さえる左手の爪が、紙へ食い込んだ。
紙を渡すと、ミオは折らずに地図の筒へ挟んだ。
「これが最期かどうかは、分からないんですよね」
「時計が折れたときの音ですから」
「ええ。それは、分かりました」
彼女はそこを、間違えてはいなかった。
アサは、受け取った銅貨を引き出しへ入れた。一枚だけ縁に引っかかり、押し込むと、乾いた音がした。
「もう一つ、頼みたいことがあるんです」
ミオは地図を広げた。工場の建物と水路が描いてある。川の流れを示す矢印だけ、色が違った。
「これ、事故の記録につけられた図です。こっちが、姉の仕事道具に残っていた図。裏口の位置が違うんです」
新しい図では、工場の北側に一つ扉がある。古い図には、その東寄りに細い線があり、消し跡の上から別の矢印が書かれていた。
「姉は、鍵を持ったまま持ち場を離れたと言われています。そのせいで人が逃げられなかったって」
アサは地図から目を上げた。
「鍵を?」
「九人残っていて、五人が助かりました。姉を含めて四人が亡くなりました」
ミオの指は、扉の印から動かなかった。
「姉がどこへ行ったか、私にも分からないんです。でも、これだけ違っていて、決まったことになってるのが嫌で」
「聞き直してもらったことは」
「あります。現場が危なくて入れないことと、元の資料では結論が変わらないことは聞きました。今度は片付けで物が出てきたから、図も見直せるかもしれないって」
彼女は作業予定の写しを出した。二週間後、取り壊し開始。
「まず明日、ここを測ります。私が地図を描いて、音はあなたに聞いてもらえませんか。全部をあなたに決めてほしいんじゃなくて」
ミオは言葉を探した。
「私にはできないところを、一緒に」
アサは鉛筆を取った。
妹という語は、聞き取れていなかった。それでも、この先を調べて、彼女に渡せるものが見つかれば。
「行きます」
答えてから、地図の縮尺を確かめた。
階段が軋んだ。ダンが、水を入れた二つのコップを持って上がってきた。
「冷めた飯を食わせるのはいいが、飲まずに喋るな」
彼はコップを置き、地図を見た。北側の扉に、太い指が止まった。
「この裏口なら、俺が金具を付けた」
ミオがダンを見上げた。
「鍵のところですか」
「外の閂だ。中から鍵を回しても、そっちは上がらん」
アサは、開いたままの引き出しを膝で閉めた。
ダンは椅子を引き寄せた。階段側にその大きな体が座ると、ミオは膝の地図を窓側へ寄せた。アサは机の向こうへ移った。二人の肩が並んでいた場所を、角の尖った紙が横切った。




