01_折れた鍵
折れた鍵が、男の声でくしゃみをした。
向かいに座ったロカが、両手で口を覆った。ふっくらした頬まで指が埋まり、蜂蜜色の袖が肘からずり落ちた。父親のくしゃみを聞くまでは、膝の手提げを握って、ひどく行儀よく座っていた。
アサは指を止めなかった。鍵の折れ口を、腹でゆっくりとなぞる。薄い銅皿の上で、鍵の大きいほうと小さいほうが、触れ合わない距離に並んでいる。
『……青い箱、先に運んどけ』
何かを引きずる音。すぐ近くで紙が擦れ、遠くで誰かが笑う。
『そっちは、まだ——』
そこで音が切れた。
下の修理場から、やすりの音が戻ってきた。消えていたわけではない。アサもロカも、十秒ほど、その音を聞かなくなっていただけだ。
部屋の東窓には、水路の照り返しが揺れている。窓へ寄せた小さな机を二人で囲むと、椅子を引くたびに背中の棚が近かった。西の奥は布一枚で仕切ってあり、その下から寝台の脚が覗く。アサは朝、そこへ蹴り込んだ靴下が出ていないか、客を迎える前に二度確かめた。
「もう一度」
ロカは口を覆ったまま言った。
「できます。同じところですが」
子供の頃から、アサが折れた金属に触ると、壊れる直前の音が鳴った。七つのとき、匙を曲げて遊び、折れたものを隠したことがある。探し当てた母の前で触ってしまい、折る前の自分の「もっと曲がる」が三度も響いた。
二度目の父親は、最初とまったく同じところでくしゃみをし、青い箱を運べと言い、言い終える前に黙った。
「このくしゃみ、店でもするんですよ。粉が飛ぶから、横を向いてって何度言っても」
ロカが笑ったので、アサも少し笑った。
笑ってよかったらしい、と分かってからだった。
彼女の父は、去年まで橋向こうで菓子を焼いていた。冬に亡くなり、店は畳んだ。折れた鍵は、残った仕事着の内ポケットから出てきたという。
何の鍵なのか。それだけでも知りたいと、ロカは持ってきた。
最初は、くしゃみしか聞こえなかった。
アサは鍵を明かりにかざし、折れ口に詰まった黒いものを見つけた。油を吸った布の繊維だった。針で金属を傷つけないよう、毛抜きで一本ずつ取った。指の角度を変え、鍵が皿に触れる位置を変え、ロカに椅子を近づけてもらった。
そうしてようやく、青い箱が聞こえた。
「錠前の中で折れたのなら、箱の鍵でしょうか」
「箱とは、限りません」
アサは記録紙に書きかけた『箱の鍵』を、小さく横線で消した。
「扉かもしれないし、折れる前から曲がっていたのかもしれない。音だけでは、どの錠に差していたかまでは」
「ああ、そうね。ごめんなさい、つい」
「いえ。いくつか確かめれば分かります」
アサは紙に「確かめるもの」と書いて、鉛筆を止めた。
机の脚がかたつき、アサは膝で押さえた。窓から入る風に記録紙がめくれる。文鎮代わりの大きなナットには、下の店の値札がついたままだった。
壁の札だけは新しい。
古道具と遺品のご相談。アサ。
空いた下の一行に「鑑定士」と書き足すか、昨夜も迷った。
ロカがそこへ目をやったので、アサは背筋を伸ばした。まだ十八の顔には頬の丸みが残り、細い顎だけを上げると、かえって首が頼りなく伸びた。額に落ちる茶色の髪を払い、仕事をする手のほうへ彼女の視線が戻るのを待った。
「お父さんが、青い箱を運ぶよう言ったことは、聞こえます。ですが、この鍵が折れたのがいつかは、まだ分かりません」
「最後の日かどうかも?」
「はい」
ロカは鍵を見た。
その沈黙に、アサは紙の端を揃えた。一度揃えたものを、もう一度。
お父さんは大事な仕事をあなたに残したんですね。
そう言えば、喜ぶだろうか。
言葉は喉まで来たが、青い箱の中身さえ知らなかった。
「その箱に、心当たりはありますか」
「二つあったの。粉を入れる大きいのと、焼き型をしまう小さいの。小さいほうは、弟が持っていったかもしれない」
ロカは膝の上の袋を探り、古い荷物の一覧を取り出した。店じまいのとき、親戚が書いたものらしい。砂糖壺三つ。長机一つ。割れ皿ひとまとめ。
アサはその脇に、父親の言葉をそのまま書き写した。
「こちらが聞こえた言葉です。こっちの欄は、これから確かめること。弟さんには、両方見せてください」
「鍵は直せる?」
「下で見てもらえます。ただ、折れ口を継ぐと、今の音は出せなくなります」
ロカの手が止まった。
アサは、鍵の二つの欠片を別々の紙に包んだ。
「急いで直さなくてもいいです。合う錠が見つかれば、新しい鍵を作れるかもしれません」
ロカは包みを受け取って、それからもう一度、銅皿を見た。
「最後に一回、いい?」
アサは紙を開き直した。
外で昼の鐘が鳴っても、指を急がせなかった。
*
「鑑定、銅貨六枚。聞き直し、銅貨ゼロ枚」
ダンが帳面を読み上げた。
「聞き直しは、込みです」
「毛抜き貸し出し。ナット貸し出し。俺の昼飯を買いに行く約束」
「最後のは覚えてます」
「だったら、忘れる前に行け」
ダンは眼鏡を額へ押し上げた。角張った顔に太い眉、短い黒髪のこめかみにだけ白いものが混じる。四十七歳。アサが一度、老眼鏡と言ったときには、これは細かい仕事用だと、鍋を二つ運びながら訂正された。
赤錆色のシャツを腕まくりし、厚い胸に革の前掛けを掛けたダンが立つと、窓の明かりが半分隠れる。本人はその幅を忘れて、よく入口で客と鉢合わせした。
北窓に沿う長い作業台には、口を開けた湯沸かしと、羽根の外れた送風機が並んでいた。工具を吊った壁と品物の棚の間を、一本の通路が裏口まで抜けている。南側の階段から下りてきたアサは、床の綱を跨いだ。重い品は裏の路地から運び入れるのに、客はよく階段へ持ち上げようとする。
奥の低い台では、娘のユイが届いた歯車を油紙から出していた。二十一歳。父より頭一つ低いが、品物を押さえる前腕はアサより頼もしい。短い栗色の髪を赤茶の布帯で留め、青緑の前掛けへ、もう油の指跡をつけている。
「三人分。父さんには魚団子を二本。私も二本」
「俺は三本だ」
「昨日、一本残した」
「あとで食おうと思ってた」
「私が食べた」
ダンが口を開いたところで、ユイはアサへ銅貨を渡した。
「あなたの分は?」
「自分で出せます」
少し強く言いすぎた。
ユイは手を引っ込めず、銅貨を一枚ずつ数え直した。
「うん。だから、いくつ頼むか聞いたんだけど」
「……一本」
アサは腰の前掛けを外し、灰青のシャツの上から濃紺の上着を羽織った。袖口の白い線は、仕立屋が直した跡だ。半年前に買ったときには長すぎた袖が、もう少し足りない。肩にはまだ余っている。両手を突っ込むと見えなくなる深いポケットが、この上着のいちばん気に入っているところだった。
「帰ったら戸車を洗っとけ。今月の部屋代、残り二日分だ」
ダンの店の二階には、仕事場の奥に寝台を置ける隙間がある。家賃の一部は修理の手伝いで払う約束だった。朝、金槌の音より早く起きられた日は、まだ三日しかない。
「分かってます」
「その紙、油がつくぞ」
「あ」
アサは作業台から記録紙を取り上げ、鞄へ入れた。さっき消した『箱の鍵』が、一枚目の真ん中に見えた。
紙を裏返しかけて、やめた。
*
橋は上がっていた。
上がった橋板の隙間から、染料樽を積んだ荷船がゆっくり現れた。
北の丘から下ってきた水路は、町の真ん中で家々の間を曲がる。石の土台に木の柱、くすんだ白壁。二階の軒が岸の両側へせり出し、その向こうから工場の煙突が顔を出していた。窓から延びた竿では洗濯物が、さらに下の舟では染めた反物が揺れている。上も下も布ばかりの町で、橋が開くたび、人の流れだけが止まった。
濡れた綱の匂いと、近くの工場で煮ている染液の匂いが混じっていた。橋待ちの人々は慣れたもので、話を続ける者もいれば、欄干に肘をついてパンを食べる者もいる。
アサは背伸びをして、向こう岸の惣菜屋を見た。
団子の残りが少ない。
「走っても下がらないよ」
隣の籠売りが言った。
「走ってません」
「足はね」
アサは爪先を下ろした。
横を、少年が蓋のない鍋を抱えて通った。片側の取っ手が根元からなくなっている。
「ダンのところ?」
「うん。母さんが、捨てろって」
修理場では、使える金属も引き取る。
アサは鍋の底を指した。
「穴は?」
「開いてない。けど取っ手、ない」
「じゃあ、捨てるって言う前に、直す値段を聞いてみて」
「高いよ」
アサは鍋を持たせてもらった。煤の下を親指で拭うと、修理用の穴を空けられそうな厚みがあった。
「値段は、俺には決められない。ただ、持って帰るときにまた落とすと危ないな」
鞄から荷紐を出し、鍋を下から支えるように回した。持ち上げ、傾け、もう一度結び直す。隣の籠売りが無言で指を出し、緩んでいた結び目を押さえてくれた。
「そっちを潜らせな」
「知ってます」
「なら、やりな」
アサは言われたとおりにした。
橋が下がり始めた。少年は新しい紐の取っ手を両手で持って、人の流れへ入っていった。
惣菜屋へ着いたとき、団子は四本だった。
*
自分の昼飯を蒸し芋に変えて戻ると、階段の下に客がいた。
アサより少し年上の女だった。苔色の短い上着に濃茶のズボン、半長靴のつま先まで白い土がついている。脇に丸めた紙を抱え、もう一方の肩には鞄。背を壁につけずに立つ姿が、今も道の途中にいるようだった。
襟足から垂らした一本の三つ編みを背へ払い、壁の札を読んでから、アサを見た。彼より少し低い位置に、横へ長い目があった。目が合っても、すぐには笑わなかった。
「鑑定の方は、いつ戻りますか」
アサは団子の包みを背中に隠した。
「僕です」
「あ」
短い声だった。
そのあとを、アサは待てなかった。
「品物を見せてください。折れた金属なら、音を鳴らせます」
「じゃあ、見てもらえますか」
女は肩の袋から、小さな布包みを取り出した。
焼けた懐中時計だった。
蓋が外れ、蝶番の片方が折れている。文字盤は煤で半分隠れ、針は重なったまま動かなかった。
アサは、すぐには手を出さなかった。
「どこで見つかったものですか」
「南の染織工場。四年前に焼けたところです。取り壊す前の片付けで、昨日」
奥のやすりが止まった。
「ミオです」
彼女は時計の裏を上にした。焼け残った刻字を、布の端でそっと拭う。
「姉のものなんです」
ナギ、と読めた。
アサは団子を作業台に置き、両手を空けた。
「階段、狭いので。紙は僕が持ちます」
「これは大丈夫。時計をお願いします」
渡された重さを、アサは両手で受けた。
背後でダンが椅子を引く音がしたが、アサは振り返らなかった。先に立って階段を上がり、机の上のナットを、値札が見えない向きに置き直した。




