15_地図を書き換える
正式な訂正が届いたのは、それから十日後だった。
工場の屋根は、もうなかった。予定どおり始まった解体は、保存する扉と部材を避けて進んでいた。水路から見える煙突の下に、新しい空の形ができていた。
ミオは母と一緒に工務課へ行った。オトは店の前掛けを外し、紫褐色の上着の襟を直してきていた。役所の高い窓の下では、かまどの前より小さく見えた。ミオは椅子を母の隣へ寄せた。
イネは新しい報告を二人へ渡した。以前の記録も、訂正の経緯が分かる形で保存するという。
オトが最初の頁をめくり、また戻した。
「どこから読めばいい?」
ミオは姉の名のある行を示した。以前は、その後ろを読む前に胸が詰まった。今日は母の指が隣にある。
「鍵を持って外へ出たことを、避難を妨げた原因とする判断は、取り消す」
声に出すと、オトの指が止まった。
次の行には、内側の鍵で外の棒は動かないこと、火災中にその棒が掛かっていたことが書かれていた。ミオはゆっくり読んだ。イネは二人の前へ扉の図を置き、どの部分を指すかだけを添えた。
夜勤と閉鎖を指示したバルトの名、安い形に変えて施工したダンの名も続いた。注意書きも、採用されなかった案も、同じ報告に残っている。
「前の役所の調べ方も、ここに?」
ミオが尋ねると、イネは頷いた。
「見ていない外閂を、開いていたとして扱った。その確かめ方も見直します」
工場側の報告には確認の裏付けがなく、現物とも合わない。ミオはそこまで読み、もう一度姉の名へ戻った。今度は、その前後の行も読めた。
「ナギの責任とされた分は、なくなるんですね」
オトが尋ねた。
「はい。外へ出た事実を、そのまま避難妨害の責任にはできません。救助に関わった行動も、確認できた範囲で追記しています」
イネは答えた。
ミオは紙を膝へ置いた。母の手が、紙の角に触れた。
二人とも、すぐには何も言わなかった。
*
補償の扱いも、見直されることになった。
工場側は、土地の売却代金の一部を、遺族と負傷者への追加の支払いへ充てる。ナギの責任を理由に差し引かれていた分は、オトへ戻す。金額と期日を記した別紙があり、受け取る手順も決まっていた。
バルトは町の工場会で管理を任される立場から外れ、報告の訂正を各関係先へ伝えることと、工場側の負担分を履行する責任を求められた。
「これで、全部終わったということにされるのは困ります」
オトが言った。
イネは頷いた。
「支払いと、失われた時間は別です。今回確認した責任と、実行することを決めたものです」
オトは別紙を受け取り、折った。金額のところで指が止まり、隣の期日をもう一度見た。
「この日なら、冬の雨に間に合うかもしれない」
「店の屋根を直します。ずっと、雨漏りしていたから」
ミオは母を見た。
「残りは、考える。今日ここで、ナギならどう使うかは決めない」
オトは紙を袋へ入れた。
ミオも、自分の報告をしまった。
*
帰り道、二人は工場の見える橋へ寄った。
解体の音が、遠くで規則的に鳴っていた。金属が落ちる音ではなく、木を外す音だった。煙突の脇を、人が小さく動いている。
「音を聞きたい?」
オトが尋ねた。
ミオは時計の入った鞄へ手を置いた。
「今日は、いい」
「そう」
母は頷いた。
「店に戻ったら、何を作る?」
「魚団子は焼く。あとは豆」
「ナギ、豆の皮が嫌いだった」
「むいてやると、豆が少ないって怒った」
ミオは笑った。母も、鼻から息を漏らして笑った。
ミオは口を手で覆った。笑い方まで姉に似たのかと思い、手を下ろした。橋の下を空の荷船が通る間、母は欄干にもたれ、豆の皮をむく手間についてまだ文句を言っていた。
ミオは橋のたもとへ、新しい案内図が貼られているのを見た。角が雨で浮かないよう、板にきちんと留めてあった。
川下の工場の場所には、旧染織工場跡、と書かれている。
次に刷るときには、道が変わる。
*
アサが報告の写しを受け取ったのは、夕方だった。
イネから、調査で使った資料の返却とともに届いた。自分の撤回文も添付され、音から断定しなかった範囲も、そのまま残っていた。
彼は机で最後まで読んだ。
ナギは帰ってこなかった。ミオとオトが今日、どんな話をしたかも、アサは知らなかった。
それでも、鍵を持ち出した人が逃げ道を塞いだという説明は、正式に取り消されていた。
アサは紙を畳み、下へ降りた。
ダンは同じ報告を読んでいた。施工のところを二度見てから、工事の控えと一緒に袋へ入れた。
「エダさんの染め場、どうでした」
「外から閉める棒はあった。作業中に掛からんよう、置き場と手順を変える。大きく直すところは、別に見積もりを出した」
「請けるんですか」
「条件が合えばな。ユイと見た」
アサは頷いた。
ダンは報告の袋を高い棚へ上げず、すぐ届くところへ置いた。
*
その週、ミオは事故の経路図を、町へ寄託するために清書した。店の閉まった卓へ大きい板を置き、母がかまどの火を落とす音を聞きながら、表題を描き直した。
館内で見るための一枚と、元の資料に当たるための束を作った。姉の古い図は手元へ引き、その写しに、描いた人の名前を添えた。
紙の脇に、消した表題が並んだ。
姉が救った五人、と書くこともできた。だが、エダが誰かの肩を支え、船頭が板を渡し、別の工員が後ろから押したことが、そこから落ちる。
ミオは、火災時の避難と救助の経路、と書いた。
その下に、一人ずつ、分かる行動を置いた。届かなかったところには、線を想像で延ばさなかった。
書き終えると、母に見てもらった。
オトは姉の名前を読み、それから図の全体を見た。
「ナギの仕事が、見えるね」
ミオは目を伏せた。
「うん」
その返事だけ、少し時間がかかった。
*
渡し場の世話役が、次の版の相談に来た。
工場跡の岸を通る道は、工事が済むまで使えない。迂回する場所を大きく示してほしいという。
ミオは店の卓を拭き、自分の地図を広げた。
「工事が済んだら、また変えますか」
「変えてほしい。ずっと古いままだと、また皆が迷う」
「では、貼る板は同じものを使って、図だけ替えられるようにします。修理店にも相談します」
世話役は頷いた。
ミオは新しい仕事の欄へ、日付と頼まれたことを書いた。事故の資料とは別の帳面だった。
オトが、焼き上がった魚団子を一皿持ってきた。
ミオは地図を少しずらし、器を置く場所を空けた。
*
朝、金槌より先に起きる日が増えた。
寝床の布を開けると、東窓はまだ青かった。アサは上着を羽織り、足を探って靴を履く。前なら蹴り込んだ靴下は、夜のうちに椅子へ掛けていた。階下では、冷えた作業台が窓の形に濡れて見えた。
アサは水桶を二つ、台所と修理場へ運んだ。二つ一度には運ばなかった。最初の桶を置き、次の桶を取りに戻るあいだに、橋が上がる音がした。
秋が深くなると、水に触れた指はなかなか温まらなくなった。
彼は手を拭き、古い布を細く切った。修理した金具を包む布だった。音を鳴らすより先にする仕事が、一日にいくつもあった。
磨き仕事の賃金を受け取った夕方、アサは古道具屋へ三枚を持っていった。湯沸かしに船旅の話をつけた分だった。店主は銅貨を箱へ入れ、書き直した紙がまだ品物の横にあるのを見せた。
「これで受け取った」
その短い返事を聞いてから、アサは帰った。ミオへの実費は既に返し終えている。控えに残った最後の数字も消えたが、壁へ戻す札は、まだ寝床の脇に置いてあった。
*
十二件の記録を確かめるには、一月以上かかった。
町を離れている客には手紙を書いた。何が聞けて、何を推測として伝えたか。元の紙を見てもらい、違う記憶があれば教えてほしいと頼んだ。
返事には、別に困っていない、とだけ書かれたものもあった。詳しく話を聞きたいと、店へ来た人もいた。もう頼まない、と言った人もいた。
返事を待つあいだ、控えには送付済みとだけ記した。
最後の客が町へ戻った日、アサは仕事の後で会いに行った。宿の台所脇の腰掛けで、男は旅の汚れの残る荷袋を足で寄せた。
「そっちへ座りな。立ったままだと、宿賃を取りに来たみたいだ」
アサは座り、以前渡した紙と自分の控えを並べた。男は日付の欄を指した。
「この日が、音の鳴ってた日だったか?」
「見てもらった日です。音のほうの日は、まだ分かりません」
「ああ、そう聞いた。ここの書き方で分からなくなった」
男は元の説明を覚えていた。アサは空白へ、見立てをした日、と書き添えた。聞いた内容を変える訂正も、追加の返金もなかった。
「次は、紙にそう書いておいてくれ」
客が言った。
「はい」
アサはその日のうちに、自分の控えへ補った。
十二枚を一つの袋へ入れたとき、袋は最初より厚くなっていた。正しかった紙も、間違った紙も、同じ袋に入れた。
*
ロカが、大きな手提げを抱えて来た。
蜂蜜色の服の上に、厚い肩掛けを巻いている。頬は寒さで赤く、戸を閉めた後も、外から来た人の匂いがした。
「青い箱の鍵、よく回ります。弟が今度はなくすなって、うるさくて」
彼女は紐につけた新しい鍵を見せた。アサが仕上げたときより、指の触れるところが明るくなっていた。
「あの型、使いました」
ロカは紙包みを一つ置いた。
魚の形をした菓子が入っていた。尾の先だけ、色が濃い。
「弟と焼きました。昔の味かどうかは、決着がつかなくて。これは今の私たちの味です」
ダンが一つ食べ、甘いと言った。
「菓子ですから」
ユイが横から取った。
アサは包みを見ていた。
「ほかの依頼のことは、聞きました。ダンさんから、紙を確かめに来ると」
ロカが言った。
「あの鍵のとき、分からないと言ってくれたことと、嘘をついたことは、両方あったんでしょう」
「はい」
「鍵を丁寧に扱ってくれたお礼は、これで。今度頼むときには、私も、どこまで分かったのか聞きます」
アサは菓子を一つ取った。
尾の先が、少し苦かった。胴は甘く、噛むと細かな音がした。
「おいしいです」
彼が言うと、ロカは、では来月もう少し焼く、と答えた。
*
冬が近づくと、修理店には戸の金具が増えた。二階の窓を閉めても、階下の戸が開くたび冷たい空気が足首へ来る。アサは灰色の襟巻きを椅子に置き、作業台の灯りを一つ近づけた。
風が入る前に直したいという客が、一日に何人も来た。ダンは見積もりを分け、ユイはできるものから日を決めた。アサは磨きと運搬だけでなく、傷の位置を描く仕事も任されるようになった。
蓋を外す前にダンを呼ぶと、ダンも首をひねる品があった。二人で水路向こうの職人へ持っていき、戻す順に部品を並べてもらった。翌週には、その職人から古い金具の印について相談が来た。
「この字、読めるか」
アサは明かりへかざし、紙を薄く当てて形を写した。
「二文字目は読めます。一文字目は、擦れていて。作った店の印か、後から付けた字かも確かめたいです」
「調べてくれるか」
「時間がかかるなら、先に代金を相談してもいいですか」
客は頷いた。
ダンは横で別の品物を見ていた。会話へ入らなかった。
アサは新しい記録紙を出した。
*
その夜、アサは壁の札を持って下へ降りた。
古道具と遺品のご相談。アサ。
字は少し擦れていた。
「また出したいです」
彼はダンへ言った。
「前の仕事は確かめました。返す約束も終わりました。今日頼まれた金具の字は、僕の仕事として調べたい」
ダンは札を見た。
「難しいものを、一人で決めるつもりは」
「ありません。音を聞いた人にも、聞けた範囲を確かめてもらいます。ほかの手掛かりが要るときは、調べるか、調べられる人を頼みます」
「客が、いますぐ答えを欲しがったら」
アサは札を持ち直した。
「すぐに言えることまでを渡します。残りは、まだないと」
ダンはしばらく黙っていた。
「俺が一回頷いたら、それでずっと大丈夫になる話じゃないぞ」
「分かっています」
「なら、自分の札を、自分で掛けろ」
アサは外へ出た。
岸道の油灯が、上着の白い直し跡を照らした。梯子を壁に掛けると、店の中からユイが出てきて、脚を押さえた。ダンは戸口で灯りを上げた。
金具は、札を外した日と同じところにあった。アサは紐を通し、引いて確かめた。風で壁へ当たらないよう、下にも小さな留めをつける。足元でユイが手を離してよいか尋ね、彼は下りるまで待って、と答えた。
鑑定士、と空いた行へ書き足すことは、まだしなかった。
いつか書くなら、その字の下で、自分が客と話すことになる。
店へ戻ると、ユイが魚の菓子を一つ残していた。
「尾の先、焦げてないのを選んだ」
「ありがとう」
アサは半分に割った。
半分を渡すと、ユイは当たり前のように受け取った。




