16_次の依頼
最初の客は、地図を逆さに持った。
冬の入口の朝だった。橋の広場では、古着の山に白い息が浮き、炭俵を置くたび黒い粉が石へ散った。ミオは苔色の上着の下に毛織を一枚足し、厚い黄土色の首布へ顎を埋めて店を出した。川側から射す光に、紙の端だけが白かった。
ミオは向きを直そうとして、手を止めた。客は自分の立っている岸を探し、その向きに紙を回していた。彼にとっては、そのほうが前が前だった。
「ここから、染め物の店へ行きたいんです」
「では、その向きで。橋を渡って、二つ目の道です」
ミオは紙を奪わず、端から指した。指の出る手袋で、川の線だけを辿る。客は地図を腹の前で回し直した。
客は道をなぞり、頷いた。地図の代金を払い、丁寧に四つへ折って懐へしまう。
絵を描いた人間には少し痛い折り方だったが、持っていく人には使いやすい大きさだった。客は橋のほうへ歩き出した。持つ向きは違っても、行く道は合っていた。
ミオは次の一枚を台へ置いた。
月に一度の小さな市だった。野菜、古着、欠けた皿、冬に使う炭。場所代を払って出した彼女の台には、地図が三種類と、店の道案内の見本があった。
ナギの名前は、そこには書かなかった。
ミオ、と自分の名前を書いた。
*
昼前に、渡し場の世話役が来た。
「板から紙を外せるようにしてくれたの、よかったよ。雨の日は持ち込める」
「留め金は、ユイさんが考えた形です。緩んだら修理店へ」
「また季節が変わったら、道も変えるかね」
「はい。工場跡の工事が終わるまでは、迂回路を。終わったら歩いて確かめます」
世話役は次の印刷分を頼んだ。
ミオは枚数と期日を書き、代金の見込みを伝えた。そのうち、材料費が変わるかもしれない分だけは、別にした。
「断言しないねえ」
「後で勝手に増やしたくないので」
世話役は、それなら分かる、と頷いた。
ミオは書いた紙を二つに分け、一枚を渡した。
炭売りの場所を一つ挟んで、アサが修理品の受け渡しをしていた。ダンの店の小さな出張台だった。濃紺の上着から細い手首が出るのは以前と同じだが、灰色の襟巻きの下に、ミオの知らない毛織の襟が見えた。
アサは壊れた金具を見て、台の右と左へ分けている。ここでできる物と、持ち帰る物だろう。
客が何か尋ねると、彼は一度、自分の手元を見た。それから答えた。
遠くからは、何と言ったか聞こえなかった。
ミオはそれを、無理に聞こうとはしなかった。
*
午後、オトが蓋付きの鍋を提げてきた。敷物を畳んで地図の束を端へ寄せると、台の真ん中に湯気が立った。首布を緩めたミオの頬へ、温かい水気が触れた。
店の昼の客が引けたところだった。屋根を直してから、雨の日にも鍋の置き場所を動かさずに済むようになったという。
「今度は水桶を替えたいね。底が、また少し」
「買ったほうが安い?」
「見てもらってから決める。何でも直せばいいわけじゃないし」
母は椀を置いた。
「売れた?」
「十一枚。店の案内を描く相談が二つ」
「立派じゃないか」
「場所代と紙代を引くと、まだそんなに」
「それは、それで数えな。十一人が持っていったんでしょう」
ミオは台の空いた場所を見た。朝より、紙の束が薄くなっていた。
「今度の仕込み、火曜は抜けたい。店の入口を測りに行く約束をしたから」
「分かった。前の日に豆を浸してくれれば、朝はこっちでやる」
「私がいない分、人を」
「必要なら私が頼むよ」
オトは立ち上がった。
「汁、冷めないうちに」
ミオは椀を取った。母が去ってから、十一枚という数字を、もう一度数え直した。
*
市の終わりに、アサが台を運ぶのを手伝った。
「ダンさんは?」
「ユイと、染め場の出口の工事を見に。僕は受け取りを片付けてから戻ります」
「こちら、持ってもらえますか」
ミオは台の軽いほうを示した。アサは持ち上げ、彼女の合図を待った。
二人で倉の軒先まで運んだ。
「前より軽いですね」
「残った地図が少ないので」
アサが笑った。
「よかった」
「はい」
ミオも笑った。
そのあと、少しだけ沈黙があった。以前なら、どちらかが急いで話を足していただろう。二人は台の脚を畳み、留め具を掛けた。
「仕事を、頼みたいんです」
ミオが言った。
アサは手を止めたが、すぐに留め具を最後まで回した。
「どんな品ですか」
「古い渡し場の看板。倉を片付けたら出てきたそうです。案内図に昔の名前を併記するか、確かめたい。ダンさんには、また掛けられるか見てほしい」
「音だけで名前が分かるとは、約束できません」
「ええ。最初に品物を見て、どこまでできるか相談したいです」
ミオは品物の持ち主から預かった紙を出した。場所と、来られる時刻が書いてある。
アサは読み、仕事の範囲を二つに分けた。音と刻印を見ること。使うための修理を見積もること。
「僕の分は、この代金で。余分な調査が必要なら、先に相談します」
ミオは金額を確かめた。
「それでお願いします」
アサは紙を返した。手渡すとき、彼女の顔を見た。
「また頼んでくれるんですね」
声は小さかった。
ミオは少し考えた。
「前と同じ頼み方では、ないです」
「はい」
「今のやり方で、一緒に確かめたいと思いました」
アサは頷いた。
ミオは、もう全部赦したとは言わなかった。朝、時計の箱を見て、あの午後の言葉に腹が立った日もある。いま、畳んだ台の向こうでアサは返事を待っている。彼のために怒りを片付けるのではなく、自分が頼みたい仕事を、今日の条件で頼もうと思った。
「明後日の午前で、どうですか」
「空けておきます。ダンには、戻ってから確認します」
二人は道具を持って、別々の仕事場へ戻った。
橋が上がり始め、アサが一瞬、歩く速さを上げた。すぐに止めたので、ミオは笑った。
「走っても、下がりませんよ」
「知ってます」
今度の返事は、それほど尖っていなかった。
*
二日後、北渡しの倉の前室で、今度はアサが椅子を机の横へ動かした。
岸に面した低い建物で、道具を広げる机と腰掛けが置いてある。開けた戸の外に渡し場の杭、その上に看板を戻す軒が見えた。アサは上着を脱いで柱へ掛け、窓の明かりを遮らない側へ回った。
ミオが図を広げる場所と、ダンが金具を見る場所を空ける。持ち主は、古い渡し場の世話をしてきた男だった。看板を倉から運び出すのに、隣の店の人にも手伝ってもらったという。
木の板は、思っていたより重かった。ミオが両腕を広げたくらいの横幅があり、二つの台へ渡すと、椅子に座る膝の前まで来た。アサは灰青の袖を折り、板の角が通路へ出ないよう置き直した。
表の文字は二度塗り直され、上の「北渡し」の字が薄くなっている。吊り下げる金具の片方が、途中で折れていた。
「ここなら、音を鳴らせると思います。汚れを取ってもいいですか」
アサが尋ねた。
「頼むよ」
男は頷いた。
アサは受け皿を置き、古い埃を刷毛で落とした。削れそうな錆の塊を見つけたが、無理に剥がさなかった。必要な折れ口だけを、明かりの下で確かめる。
ダンは板の裏を見ていた。革前掛けの膝を床へつき、新しい留め具をつけられるところを探している。弱った縁を避け、木目に沿って指を進めた。ミオは窓側で表の読める文字を写し、重なった線は別の紙へ移した。
アサの前には、折れた金具の端が見えていた。二人の手が止まったのを見てから、声を掛けた。
アサは金具に触れた。
風が鳴った。
『白瀬渡し、か。長かったな』
男の声だった。少し遠くから、別の人が、そっちを持って、と言った。
布を引く音。息をつく音。
そこで切れた。
「白瀬」
持ち主が呟いた。
「祖父が、そう呼んでいた気がする」
アサは鳴った言葉をそのまま書いた。ミオにも持ち主にも見てもらい、もう一度鳴らした。
同じ声が、同じところで息をついた。
「白瀬渡し、と言っています。それから、長かったな。看板を外している場面かもしれませんが、そこは音だけでは決めません」
アサが説明した。
「何年前だろうね」
「分かりません。これをしまった記録は、ありますか」
「倉の帳面なら、探してみるよ」
男は看板の下を指した。
「そこに書いてある字も、白瀬なのか」
ミオは写した線を、光へかざした。
「白の形は合います。次の字は塗りが重なっていて、まだ全部は読めません。古い地図にも同じ名があるか、照合します」
男は頷いた。
持ち主は机の下から別の小箱を出した。しまったときの紙があるかもしれないと言って、紐をほどく。アサは椅子を少し引き、その箱の置ける場所を作った。
*
ダンは、折れた金具を外す案を出した。
「これを継ぐと、音を出している折れ口を塞ぐことになる。新しい金具をつけて、古いものは別に残せる。板の裏には補強を入れる」
「また掛けられるかい」
「このまま風を受ける場所は勧めない。屋根の下なら、補強したうえで」
持ち主は店の軒先を示した。ミオが日当たりと、道から見える角度を確かめた。
アサは見立ての代金を伝え、受け取った。追加で古い資料を探す分は、ミオの地図の仕事として別に相談することになった。
ダンは補強の長さを測り、ミオは古い図を見に行く日を決めた。アサは一度椅子へ座り、聞いた音を写した。窓の下で櫂を洗う音がして、今の音は今のまま通り過ぎた。
アサは原記録の写しを一枚、持ち主へ渡した。話したことも短く添え、分からない日時の欄は空けたままにした。
「ここ、空いたままでいいんだな」
男が尋ねた。
「はい。後で確かめられたら、出所と一緒に書き足せます」
男は紙を受け取り、看板の隣へ置いた。
*
その週の終わり、ミオは古い町の図を持って修理店へ来た。乾燥させた木を床へ渡し、ダンが看板の補強を終えたところだった。ミオは読めた古い字の写しをその横へ置いた。
今の北渡しと同じ位置に、白瀬渡しとある。ミオは橋と道を一つずつ指し、別の渡しではないことを確かめた。看板の塗りの下に残る字とも合った。
「年は、まだ分からないんですね」
アサが言うと、ミオは頷いた。
「でも、前の名前は書けます」
彼女は新しい案内図の北渡しの下へ、小さく旧称を加えた。
修理の終わった看板を、三人で持ち主へ届けた。
北へ続く岸道は、軒が低くなる角で細くなった。冬の薄い日を受けた白壁に、看板の長い影が斜めに走る。朝からほどけなかった霧が川の端へ残り、三人の靴音がそのすぐ横を通った。
アサが片側を持ち、ダンがもう片側を持った。ミオは前を歩き、狭い角で人が来ないか確かめる。
「右を、少し上げて」
ミオが言った。
アサは言われたとおりにした。板は壁に触れずに通った。
軒へ掛けるのは、ダンの仕事だった。アサは下で支え、ミオは道へ出て傾きを見た。金具を留め終えると、持ち主が上塗りの字と、その下に残った古い字を交互に眺めた。
「二つの名前があるのも、悪くないね」
「今の行き先が分かるように、案内のほうは大きくします」
ミオは答えた。
古い金具は、番号と出所を書いた箱へしまった。音を聞きたい人が来たときに、勝手に触って怪我をしないよう、折れ口には蓋のついた仕切りを作った。
持ち主が三人へお茶を出した。
アサは両手で椀を受け取った。
*
帰り道、ミオは地図筒を肩へ掛け直した。姉の時計は、家の食器棚の上に置いてきた。母が聞きたいと言う日も、自分が聞きたくなる日もある。今朝は箱の位置を少し奥へ寄せ、母の鍋の蓋を取ってから出てきた。
今日は、自分の地図の仕事で歩いていた。
アサが道の途中で立ち止まった。
「ここの名前、前の図と違いますね」
「店が替わりました。次の版で直します」
「看板の字が、裏側からも見えると分かりやすいかも」
「では、店の人に聞いてみましょう。勝手に決めずに」
ダンが後ろから追いついた。
「相談するなら、飯の後にしろ」
アサとミオは顔を見合わせた。
「今日は、何本ですか」
ミオが尋ねた。
「二本だ。あとで食おうと思って残すと、誰かに食われる」
「ユイさんには、自分で言ってください」
ダンは返事をせず、惣菜屋へ向かった。
*
店は混んでいた。橋の西側から眺めたときには小さかった売り窓が、近づくと人の背中で見えなくなる。ミオは外で首布をほどき、客の籠を避けて先に入った。アサとダンも、冷たい上着の肩をすぼめて続いた。
オトは三人を見ると、奥の卓を指した。器を下げたばかりで、天板がまだ少し濡れている。アサは布を借りて拭き、乾いたことを確かめてから紙を置いた。
ミオが新しい案内図を広げた。窓から遠い奥の卓で、油灯が四角い紙を照らしていた。今はアサが通路側、ミオがその隣、ダンが向かいだった。誰かが椀を取るたび、ほかの二人が少し肘を引いた。
ダンは汁の椀を持ち、紙から遠いところへ置いた。アサは自分の団子を二本、手前へ寄せた。
「今度は、先に確保するんですね」
ミオが言った。
「自分で買った分です」
「知っています」
彼女は笑った。
オトが湯を足しに来た。何を聞き出したかではなく、今日の仕事は終わったかと尋ねた。
「看板は、掛かりました」
アサが答えた。
「地図も、次に直すところが決まりました」
ミオが続けた。
ダンは、板の補強の話をしかけ、オトに食べてからにしなと言われた。
水路から、橋を上げる鐘が聞こえた。
アサは窓へ顔を向けた。荷船がゆっくり通っていく。岸では、籠を持った人が待っていた。
「舟を描くなら、今度は自分で描きます」
彼はミオへ言った。
「沈まないのをお願いします」
「まだ一隻も沈めていません」
「絵の話だ」
ダンが言った。
アサは鉛筆を取った。
ミオが地図の端を押さえ、ダンが皿を退けた。アサは二人の間へ、今日、歩いて確かめた道を描き始めた。
(了)




