13_壁の向こう
八日目の朝、工場の空が広くなっていた。
アサは柵の手前で立ち止まった。前には壁の上に引っかかっていた梁が、地面へ下ろされていた。西の表門から、東の荷積み口の明るい四角まで見通せる。図ではひと続きだった建物に、風の通る道ができていた。
梁には縄の跡が白く残り、切った端から、新しい木の色が見えている。
焦げた外側のすぐ内側に、木があった。
「荷物は、ここへ」
イネが場所を示した。
アサは模型の箱を置き、ミオは地図を広げた。ダンは現場の責任者と、扉の周りで外してよいものを確認している。
北の扉に手をつける前に、時計の見つかった東の棚を見ることになった。屋根のない区画へ、新しい支えが入っていた。
ミオは入口で息を止め、ゆっくり吐いた。いつもの半長靴が、床の黒い粉を踏む。苔色の肩に埃除けの布を掛け、三つ編みをその中へ入れていた。家で地図を描くときには出ていた首が、今日は隠れている。
「足元、見えますか」
アサが尋ねた。
「見えます。先へ行ってください」
彼は進んだ。
荷積み口の内側、窓の下に長い作業棚があった。荷を数える人が立ち、帳面や小物を置ける幅だ。棚の脚は焼けて短くなり、後ろの東壁に沿って傾いている。時計を回収した人が、動かした位置と、動かす前の位置を別々の札で示した。
アサは棚と壁の細い隙間を覗いた。外の水は窓のもっと下で光っている。ここへ落ちた物が、そのまま舟へ転がっていく場所ではなかった。
「この隙間へ入っていました。蓋も近くに。拾った場所はこの印です」
ミオは持参した回収図の丸と照合した。
アサは指を伸ばさず、目を近づけた。棚の端に、擦れて光るところがあった。荷を動かすたびに触れた部分が、火の後にも残っている。
「時計を置くには、ここが空いていますね」
彼は言い、すぐに続けた。
「置いたという証拠ではありません。置ける場所です」
ミオが紙へ書いた。
*
イネは回収物を置いた箱から、小さな金具の包みを出した。
時計だけでなく、棚の近くにあった細かな物も番号をつけて分けてあった。小釘、輪金、焼けた紐の端、蓋の蝶番に似た小さな欠片。
「これは、時計の一部でしょうか」
アサはミオへ尋ね、蓋を布の上へ置いた。
欠片の穴と、残った蝶番の穴の幅は近かった。だが、折れ口を寄せると合わなかった。
彼は向きを一度変え、手を離した。ミオが身を寄せ、布の両側から二つの形を見た。アサは彼女の顔を見る前に、欠片のずれる先を指した。
「違います。似ているだけです」
現場の人が頷き、元の番号へ戻した。
ミオは小さく息を吐いた。
「合えば、一つ分かると思いました」
「僕も」
アサは蓋を包み直した。
無理に合わせれば、金属の柔らかなところは曲がっただろう。その後で、もともと合った形を説明することはできない。
棚の回収位置を確かめ、破断面の煤を見た。アサは、折れた後にも熱と煙を受けた可能性があると説明した。煤があることだけで、何時に折れたかまでは決められなかった。
時計の針を、誰も動かさなかった。
*
荷積み口から、鐘の綱が見えた。
正しくは、元の綱の残った位置だった。新しい綱は調査のために結んだものだと、トウマが確かめた。
彼は舟で来ていた。北の水路へ寄れる時刻になるまで、東側の安全なところで待つ。
「この口から、呼んだ人が乗ってきた。最初に女の人を乗せた場所も、ここだ」
トウマは荷積み口の端を指した。
ミオは自分の図の、東と書いた印を見た。
アサは現場の人に頼み、持参した銅皿を置く台を空けてもらった。水際から離れた、揺れない台だった。
「時計は、ここへ置かなくていいです」
ミオが言った。
「落としたくないので、安定した台で」
「はい。場所をそのまま再現しても、昔と同じにはなりません。壁も屋根も違います」
アサは安全な台を使った。
鐘三つ、水、布、欠けた声。
続いて、トウマが今の鐘を三つ鳴らした。
似ているところと、違うところがあった。屋根のない工場へ、音が長く広がった。
「ここで、決まりですか」
現場の一人が尋ねた。
アサは首を振った。
「鐘だけでは決めません。見つかった位置と、船を呼んだ人の動きと合わせると、ここで折れたと考えるのが自然です。ただ、音だけで場所が写るわけではないので」
ミオは、確かめたことの下に、考えられる順、と書いた。
窓から呼ぶ。時計が落ちて折れる。時計は棚の下に残る。姉が船へ乗る。
その先の北への往復は、時計の音ではなく、トウマの記録にある。
アサは線を二つに分けた。時計の線は、棚の下で止まった。ナギの線だけが、水路へ出た。
*
ミオは窓から水を見下ろした。
ここへ姉が立ったとき、母の店は見えなかったはずだった。間に倉と橋があり、夕方なら、荷を下ろす舟が何隻もいた。
「姉には、この高さが普通だったんですね」
ミオが言った。
アサは隣へ立たず、少し後ろで待った。
「私は、ここで荷を数える姉を見たことがありません。家に帰って、足が痛いと言うところしか」
彼女は棚を振り返った。
「地図の線も、実際に使っていた。私の描いた木を後回しにした人は、こっちでは急いで船を呼んでいたかもしれない」
アサは、何も足さなかった。
ミオは手を窓の敷居へ置こうとして止めた。表面が煤でざらついている。代わりに自分の膝を押さえ、少しだけ腰を曲げて、窓越しに舟の寄る場所を見た。そこからでも店は見えず、風に揺れる鐘の綱だけが近かった。
ミオは時計を箱へしまった。刻んだ三日月を見てから、蓋を横へ置く。
「音を聞いたことは、なくしたくないです」
彼女が言った。
「あなたがつけた説明は、取り消してほしい。でも、聞いたことまで、なかったことにはしたくない」
「はい」
アサは答えた。
「元の記録も、そのまま残します」
ミオが箱を閉じると、北のほうからイネが呼んだ。
作業が進み、扉の上の重さを外せたという。
ダンは先に歩き出した。右膝を伸ばすために一度止まり、それから長い歩幅で北へ向かった。アサは模型の箱を持ち、ミオは三枚の図を揃えて、その後を追った。
*
最後の壁板を外すと、扉の半分が現れた。
木は黒く、金具は赤茶けていた。北の石通路から見ると、扉はアサの背より少し高い。外側を胸の高さで横切る鉄の棒が、両端の受けに掛かっている。その上へ落ちた細い梁が、棒を斜めに押さえていた。
壁だと思っていた黒い面に、戸の縁が一本現れた。ここを押した人がいた。アサは自分の箱を下ろす場所を探し、膝を曲げてからようやく息を吐いた。
ダンは柵の外から見たまま、帽子を取った。
「俺の付けた形です」
イネは返事をせず、現場の職人と位置を確かめた。先に描く人が入り、前にもいた記録係が木箱の写真機を三脚へ据えた。黒い布に頭を隠し、顔を出してから、もう少し横の人に退くよう頼む。札を付けた部材の間で、誰も急いで鉄へ手を触れなかった。
外閂は曲がっていても、鉄がつながっていた。アサが音を鳴らせる折れ口はなかった。
アサは模型の箱を開けた。
小さな板の扉と、目の前の大きな扉は、同じ仕組みだった。だが、大きいほうには、押しても出られなかった人の高さがあった。
「こちらから見てください。触る前に、位置を」
イネに呼ばれ、三人は決められた足場へ進んだ。
ミオは地図を胸に抱いていた。アサは、彼女の歩幅に合わせようとせず、自分の足元を確かめた。足場を踏み外して、ここで仕事を止めることはできなかった。
*
外閂の受け金具には、棒の掛かった跡があった。
煤のつき方だけでなく、熱を受けて曲がった受けと棒の位置が噛み合っていた。上から落ちた梁は、その棒の上に乗り、重なったまま焼けている。
イネは二人の職人に、それぞれ見えることを説明してもらった。
「梁を後から持ち上げずに、この棒だけをここへ入れることはできません。火が残っている間、棒は受けの中にあったと見ます」
一人が言った。
「いつ、誰が下ろしたかは、この跡だけでは分かりません。少なくとも、火災の間ずっと開放されていた、とは言えません」
もう一人が続けた。
ミオは鉛筆を動かした。手の甲へ灰が一粒落ちても払わず、職人が言い終えるまで書き続けた。
ダンは棒の下を覗いた。指を出しかけ、引っ込めた。
「抜け止めの楔が付いています。これを上げないと、棒が跳ね上がらない」
「その楔も、ご自身の施工ですか」
「俺です。揺れて外れると困ると言われた」
ダンの声は、普段より低かった。
「これも、内側から動かせません」
イネが記録を取り、職人が楔を動かす前の状態を写した。
アサは出荷控えを開いた。「外閂を戻す」の行を見てから、目の前の棒へ視線を戻す。紙の横線より、ずっと太かった。下に続く夜勤の指示は、開かない戸の内側に残った。
*
内側を見るために、重さを別の支えへ移した。
何人もの手が、違う場所で動いた。綱を引く人が止めれば、横の人も止まる。合図を出す人は、全員の手元が止まったことを確かめてから、次を指示した。
ダンは手伝いを申し出なかった。ここでの仕事を知っている人が、既に必要な人数いた。
扉の内側が見えるようになると、ミオは一歩だけ近づいた。
錠前は、外閂よりずっと小さかった。扉を留める別の掛け金に鍵を使う。外へ渡された横棒には、つながる部品がなかった。
イネが模型を借りた。
「この鍵を開けても、外の棒は動かない。実物でも同じですね」
「同じです」
ダンと現場の職人が、それぞれ答えた。
アサは模型の内錠を外した。小さな扉を押すと、外の棒へ当たって止まった。
ミオは手を伸ばし、自分でも押した。
開かなかった。
彼女はもう一度、ゆっくり押した。力を強くするためではなく、何が止めているかを指先で確かめるようだった。
「姉が、鍵を持ってそこへ戻っても」
「外閂が掛かっていれば、開きません」
イネが答えた。
ミオは模型から手を離した。
「では、鍵がなかったから逃げられなかった、だけでは説明できない」
「できません。外側の閉鎖を、原因の検討から外していました」
イネは以前の報告の該当箇所を開いた。
アサはミオを見た。彼女は泣いていなかった。手に持つ模型を少し下げたまま、大きいほうの扉を見ている。親指は、開かなかった小さな板の縁に残っていた。
*
昼の休憩は、少し遅くなった。
皆が柵の外へ戻り、水を飲んだ。ミオはオトが持たせた包みを開いた。握った麦飯と、塩を振った野菜が入っている。
アサにも一つ差し出された。
「現場で食べる分です。人数を伝えたので」
「ありがとう」
彼は受け取った。
ダンは水だけ飲んでいた。ミオが残りの一つを示すと、彼は首を振りかけた。
「食べてください。午後にも、あなたの説明が要るので」
ダンは受け取った。しばらく持った後、一口食べた。
風が瓦礫の上を吹いていった。煤の匂いは、近づけばまだ残っていた。三人が座る石の外側では、今年伸びた草が麦飯の包みに触れていた。
「ナギさんが、外からこれを上げようとしたなら」
ダンが言い、止まった。
ミオは待った。
「熱い金具へ手を伸ばした。手に布を巻いていたという話と、つながる。ただ、俺はそこにいなかった」
「仮説として書きます」
ミオは答えた。
「姉が何をしたかと、どの程度まで分かるか。両方残します」
ダンは麦飯を食べ終えた。
*
午後、イネは外閂を外して別に保管する手順を決めた。
位置を示す印、熱で変わった部分、梁との重なり。記録を終えてから動かす。取り壊しを待っている工事の責任者も、それで進めると確認した。
ダンは工事控えの余白に、楔について説明を足した。自分に有利な注意書きだけでなく、安い案へ変えた経緯も別の紙へ書くと約束した。
「もう、ミオさんには話してあります。元の案も残っています」
イネが確認すると、ミオは二つの図を出した。
アサは自分の原記録をその隣へ置かなかった。今、確かめているのは音ではなかった。
荷物をまとめていると、現場の一人が彼へ尋ねた。
「あんたが、声を聞いた人か」
「音を鳴らしたのは、僕です」
「妹を頼むって、本当に」
「その説明は、僕が嘘をつきました。聞き取れていないのに、聞き取れたと言いました。撤回しています」
男は口を閉じた。
「そうか」
「今日の扉のことは、皆さんが現物を確かめたことです。僕の言葉を根拠にしないでください」
男は扉を見た。少しして、自分の持ち場へ戻った。
ミオはその会話を聞いていたが、アサを庇わなかった。
帰り道、彼女は模型の箱を指した。
「持てますか」
「持てます」
アサは箱を持ち上げた。実物の閂は、現場に残された。その場所と、誰が何を見たかを記した紙を、ミオが持っていた。




