第8話 もう結構です
第8話 もう結構です
そうめんを食べ終えたあと、沙耶は妙子に頭を下げた。白花夕顔を踏んだことだけでなく、両親へ見せる写真を撮ろうとしていたことも隠さずに話した。妙子はすぐには答えず、食卓にこぼれたミョウガを指先で一つずつ拾っていた。
「私は写真の背景になるために、この家で暮らしているんじゃないよ」
「はい。本当に申し訳ありませんでした」
「でも、話してくれたことは分かった。夕顔の根も残っているそうだから、これから大切にしてくれればいいよ」
「ありがとうございます。私、今度こそ、お母様のお役に立てるように勉強します」
「今度こそなんて、力まなくていいんだよ。嫁になる人に看護師も庭師も求めちゃいない。分からないことは、分からないと聞いてくれればいいの」
妙子がそう言うと、沙耶は何度もうなずいた。蓮は冷や汁の残った鍋へ蓋をしながら、これで少しは空気が変わるかもしれないと思った。ところが沙耶は失敗を埋め合わせようとして、妙子の言葉とは反対に、さらに熱心に「良い嫁」の役目を探し始めた。
午後三時ごろ、玄関のチャイムが鳴り、大きな荷物が二箱届いた。沙耶が東京から注文していたもので、中には健康食品の瓶や運動用のゴムバンド、小さな足踏み台が入っていた。瓶には外国語のラベルが貼られ、箱を開けると、柑橘類と香料が混じった強い匂いが居間へ広がった。
「これは何だい? また高そうなものを買ったのかい?」
「健康を支えるためのセットです。東京の有名なトレーナーが勧めているんですよ。こちらの粉を水に溶かして、朝晩飲むんです」
「薬だけでもおなかがいっぱいになるのに、まだ飲むのかい?」
「普通の薬ではありません。果物や野菜の栄養を濃縮した食品です。体の巡りを整えて、毎日を元気に過ごせるそうです」
沙耶は生成り色のブラウスの袖をまくり、台所からグラスを持ってきた。白いパンツには朝の泥が薄く残っていたが、袖口の汚れは洗い落としてある。付属のスプーンで桃色の粉末をすくい、冷たい水へ入れようとした。
「待ってください。その瓶を見せてもらえますか?」
「どうぞ。自然のものしか入っていませんよ」
「自然のものでも、お薬と合わないことがあります」
「これは健康食品です。病気を治す薬ではないので、大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、成分を見てからです」
蓮は瓶を受け取り、細かな文字で書かれた成分表示を確認した。柑橘類の濃縮成分が含まれており、妙子が飲んでいる薬について、薬剤師から避けるよう注意されたものと同じだった。以前、妙子が朝食にその果物を食べようとしたとき、蓮が止めたことがある。
「これは飲ませないでください。お義母さんの薬と相性が悪い成分が入っています」
「そんなはずはありません。お年寄りにも人気の商品だと書いてありました」
「人気があるかどうかではなく、お義母さんが飲んでいる薬との組み合わせです。心配なら、薬局へ電話して確認しましょう」
「蓮さんは、私が用意するものを全部否定しますよね」
「否定しているのではありません。お義母さんの体に関わることだから、確かめているんです」
「昨日の総菜も塩分が多い、今日は健康食品も駄目。では、私は何ならしていいんですか?」
沙耶はスプーンを瓶へ戻し、蓋を強く閉めた。食卓の端には、妙子が途中まで読んだ新聞と、冷めた麦茶が置かれている。扇風機の風で新聞の角が何度も持ち上がり、そのたびに瓶の底へ当たって乾いた音を立てた。
「何かして認めてもらおうとしなくていいんです。お義母さんが必要としていることを、先に聞いてください」
「聞いていたら、何もさせてもらえません。お母様は何でも蓮さんに頼んでしまうから」
「私は頼んでいないよ。蓮ちゃんが気づいてくれるんだ」
「だから、それではお母様のためにならないんです。いつまでも人に頼っていたら、体も弱ってしまいます。少しは運動もしないと」
沙耶は箱から黄色いゴムバンドを取り出し、妙子へ持たせようとした。妙子は手を伸ばさず、首に巻いていた手ぬぐいで額の汗を押さえた。昼食後から少し顔色が悪く、呼吸もいつもより浅くなっている。
「今日はやめましょう。お義母さんは朝から庭へ出て、十分に動いています」
「一日十分の運動では足りません。動画では、椅子に座ったままでも三十分は続けるように言っていました」
「動画の人は、お義母さんを診察していません」
「高齢者は多少厳しく管理しないと、楽なほうへ逃げてしまうんです」
「沙耶さん、言い方を考えてください」
「私は、お母様の将来を考えているんです。蓮さんが何でもしてあげるから、自分でできることまで減っているんじゃないですか?」
妙子は膝の上で両手を握り、顔を伏せた。蓮は健康食品の瓶とゴムバンドを箱へ戻したが、沙耶が再び取り出そうとして腕を伸ばした。二人の手が箱の上でぶつかり、足踏み台が床へ落ちた。
「何を騒いでいるんだよ」
二階から下りてきた湊は、薄い灰色のTシャツに黒いパンツをはき、手には携帯電話を持っていた。仕事相手との通話を終えたばかりなのか、眉間に皺が寄っている。床へ落ちた足踏み台と二人の顔を見比べ、深く息を吐いた。
「沙耶がお母さんに健康食品を飲ませようとしたので、止めました。薬と相性の悪い成分が入っています」
「まだ飲ませていません。蓮さんが、最初から全部駄目だと決めつけたんです」
「薬剤師へ確認すれば分かります。今から電話します」
「そこまで大ごとにしなくてもいいだろ。飲まなきゃ済む話じゃないか」
「湊さん、私はお母様のために用意したんです。それなのに蓮さんは、私が何をしても邪魔をします」
「蓮、お前も少し黙っていられないのか。沙耶だって慣れようとしてるんだぞ」
「体に関わることだから、黙れません」
「母さんは、もう飲んだのか?」
「まだです」
「だったら問題ないだろ。いちいち正しさを振りかざして、沙耶を追い詰めるなよ」
湊は箱の蓋を閉じ、部屋の隅へ押しやった。その口調は、沙耶を守っているというより、騒ぎを早く終わらせたいように聞こえた。妙子が胸元を撫でていることにも気づかず、湊は蓮へ向き直った。
「だいたい、どうしてお前が毎回ここにいるんだよ。俺も帰ってきたし、沙耶もいる。もう母さんの世話をする必要はないだろ」
「昨日までは、薬のことを私に任せると言いました」
「だから、必要なことは聞いたよ。これからは俺たちでやる」
「お義母さんの薬の名前を言えますか? 次の通院日はいつですか? 具合が悪くなったとき、どこの病院へ連絡するか知っていますか?」
「そんなもの、必要になったら調べればいい」
「必要になってからでは遅いこともあります」
「またそれか。何でもお前だけが知っているみたいに言うなよ」
「知ろうとしなかったのは、湊でしょう」
蓮の声が居間に残り、扇風機の首がゆっくり右から左へ動いた。湊は携帯電話を食卓へ置き、両手で髪をかき上げた。沙耶はゴムバンドを握ったまま、二人の間で視線を動かしている。
「母さんの家族になるのは沙耶なんだ。お前はもう関係ないだろ」
その瞬間、食卓が大きな音を立てた。妙子が両手で机を叩き、麦茶のグラスが倒れたのだった。水が新聞へ広がり、健康食品の瓶を濡らしたが、誰もすぐには動けなかった。
「もう結構です!」
妙子は椅子の背をつかんで立ち上がった。薄紫色の唇が震え、首に巻いた手ぬぐいが片方の肩へ落ちている。それでも息子から目をそらさず、一語ずつ押し出すように話した。
「湊、あなたに蓮ちゃんとの関係を決める資格はありません。私が入院したとき、あなたはどこにいたの。四十度近い熱を出した夜、誰が駆けつけてくれたと思っているの」
「仕事があったんだから、仕方ないだろ」
「深夜二時に電話をしたときも、会議中だったのかい? 朝になってから折り返すと言って、三日も連絡をくれなかったでしょう」
「東京からすぐ来られる距離じゃないんだ」
「来られなくても、心配することはできたはずだよ。薬の名前を聞くことも、病院へ電話することもできた。あなたは何もしなかったんじゃない。しようとしなかったの」
「俺だって、生活があったんだよ」
「蓮ちゃんにも生活があった!」
妙子の声がかすれ、蓮は支えようと手を伸ばした。しかし妙子は自分で椅子へ座り、濡れた新聞を見つめながら呼吸を整えた。沙耶が麦茶を拭こうと布巾を取ったが、妙子は今は触らなくていいと言った。
「蓮ちゃんが家族ではないと言うなら、家族とは何なの。血がつながっているだけで、何もしなくても家族を名乗れるのかい? 蓮ちゃんは、あなたが捨てたこの家と私を、十五年も守ってくれたんだよ」
「捨てたなんて言うなよ。俺は仕事のために東京へ行ったんだ」
「その仕事ができたのも、蓮ちゃんが私を支えてくれたからでしょう。私の病気を理由に、東京を諦める必要がなかった。それを便利だから頼っただけだなんて、よく言えたね」
「母さんまで蓮の味方をするのかよ」
「味方ではありません。本当のことを言っているだけです」
湊は何か言い返そうとしたが、妙子の顔を見て口を閉じた。代わりに食卓の端をつかみ、蓮へ顔を向けた。逃げ道を探すように目を動かしたあと、床へ落ちた足踏み台を蹴らないよう脇へ押した。
「結局、蓮が母さんに取り入ったから、こんな話になったんだろ。毎日家へ来て、料理を作って、俺が悪い息子みたいに吹き込んだんじゃないのか」
「湊!」
「そうじゃなきゃ、母さんが俺にこんなことを言うはずがない。蓮がいつまでも昔の約束にこだわって、沙耶を追い出そうとしてるんだ」
「私は今、湊と結婚したいとは一言も言っていません」
「じゃあ、何がしたいんだよ。俺たちの邪魔をして、母さんまで奪って、それで満足なのか?」
蓮は返事をせず、腰に巻いていた黄色い花柄のエプロンへ手をかけた。紐は十五年間、何度も結んできたために毛羽立ち、ポケットには妙子の薬袋を切った小さな紙片が入っている。蓮は結び目をほどき、エプロンを丁寧に畳んで食卓へ置いた。
次に鞄から庭と玄関の合鍵を取り出した。銀色の鍵には、蓮が目印につけた緑色の紐が結ばれている。鍵は何度も使ったため、持ち手の角が白く擦れていた。
「蓮ちゃん、何をするの」
「お義母さん、鍵を返します」
「返さなくていい。私はそんなことを望んでいないよ」
「私も、ずっと返したくありませんでした。この鍵を持っていれば、いつか本当にこの家の家族になれると思っていたから」
蓮は鍵を食卓の中央へ置いた。濡れた新聞のそばで、金属が硬い音を立てた。十五年間で初めて、蓮は目をそらさずに湊の顔を見た。
「その言葉を、ずっと待っていました」
「何のことだよ」
「もう関係ない。世話をする必要はない。湊がそう言ってくれれば、私は役目を終えられます」
「嫌味のつもりか?」
「いいえ。迎えに来ると言った湊を、私は待っていました。お義母さんを頼むと言われたから、この家を守ってきました。でも、もう必要ないと、あなた自身が言いました」
湊は何も答えなかった。沙耶は濡れた布巾を握り、食卓の鍵を見つめている。妙子は両手で口元を覆ったが、蓮を引き止める言葉は口にしなかった。
「これで私は、この家を守る役目から降りられます」
蓮は畳んだエプロンの上へ手を置き、一度だけ撫でた。それから妙子の薬の帳面、通院予定、緊急連絡先の場所を湊へ伝えた。湊は返事をしなかったが、蓮は最後まで説明を終えた。
玄関を出ると、午後の日差しが白い石畳へ照り返していた。庭では、折れた白花夕顔が新しい支柱に支えられ、風の中で小さな葉を揺らしている。蓮はいつもの癖でじょうろへ手を伸ばしかけたが、指を引き、庭の外へ向かって歩き出した。




