第7話 良い嫁を演じる理由
第7話 良い嫁を演じる理由
折れた白花夕顔の手当てを終えると、蓮は使った園芸ばさみを水道で洗った。刃についた土を古い歯ブラシで落とし、乾いた布で拭いてから物置へ戻す。庭には開封されていない白い植木鉢や新しいシャベルが残り、段ボール箱の底には、沙耶が外した花柄の手袋が片方だけ落ちていた。
「蓮ちゃん、お昼にしよう。朝の冷や汁が残っているから、そうめんを入れたら食べられるよ」
妙子は仏壇へ白いつぼみを供えたあと、縁側から蓮を呼んだ。昼近くになると湿った土の匂いに混じって、近所の家からカレーを煮る匂いが流れてきた。蓮のおなかも小さく鳴ったが、庭の後片づけを済ませてからにすると答えた。
「沙耶さんも食べるかしら。朝は桃のケーキを少し食べただけでしょう」
「湊と出かけたんじゃないんですか?」
「湊は仕事の電話があるからって、二階へこもっているよ。沙耶さんは部屋にいると思ったんだけど、返事がないんだ」
「私が呼んできます」
「さっきのこともあるし、無理に誘わなくていいよ。おなかがすけば、自分で下りてくるでしょう」
妙子はそう言いながらも、冷や汁へ入れるミョウガを三人分刻んでいた。責める言葉を口にしていない妙子のほうが、踏まれた花を何度も気にしている。蓮は段ボール箱を物置の前へ運び、片方だけの手袋を拾った。
縁側の角を曲がったところで、人の息を詰まらせるような音が聞こえた。軒下には、洗ったばかりの白いタオルや妙子の肌着が干され、その陰に沙耶が座っている。沙耶は帽子を脱ぎ、膝の上に置いた携帯電話を握ったまま、手の甲で頬を何度も拭っていた。
「沙耶さん」
「見ないでください」
「手袋が片方、庭に落ちていました」
「いりません。もう庭仕事なんてしませんから、捨ててください」
「買ったばかりでしょう。ここへ置いておきますね」
蓮は手袋を縁側の板の上へ置いた。家の中からは、湊が仕事相手へ謝っている声がかすかに聞こえる。庭で何が起きたのか知らないまま、湊は二階へ戻ってしまったらしい。
「お昼に冷や汁そうめんを作るそうです。食べられそうなら、台所へ来てください」
「どうして、そんな普通に話せるんですか?」
「普通には話していません。今も、何と言えばいいのか考えています」
「怒っているなら、怒ればいいじゃないですか。私は大切な花を踏んで、謝りもしなかったんですから」
「怒鳴っても、花の茎はつながりません」
「そういうところが、嫌なんです」
沙耶は顔を上げた。目の周りには化粧が薄くにじみ、白いブラウスの袖口には泥がついている。朝まできれいに巻かれていた髪も、汗で頬へ張りついていた。
「蓮さんは何でも知っていて、何でもできて、いつも正しいことを言うでしょう。私がお総菜を持ってくれば塩分が多いと言って、庭をきれいにしようとすれば育たない花があると言う。私が何をしても、蓮さんのほうがお母様に必要とされているんです」
「私は十五年、この家へ通っています。二日で同じようにできないのは当たり前です」
「でも、私には時間がないんです」
「時間がない?」
沙耶は携帯電話の画面を開き、一枚の写真を表示した。それは昨日の夕食前に撮られたもので、食卓に並ぶ東京の総菜と、その向こうに座る妙子が写っている。妙子はカメラを向けられた理由が分からなかったらしく、箸を持ったまま目を丸くしていた。
「この写真を、ご両親へ送るつもりだったんですか?」
「はい。でも、お母様が笑っていないから、送りませんでした。庭で一緒に作業をしている写真なら、うまくいっていると分かってもらえると思ったんです」
「どうして、そこまでしなければならないんですか?」
「私の両親が、湊さんとの結婚に反対しているからです」
沙耶は携帯電話を伏せ、つばの広い帽子を両手で折り曲げた。高そうな帽子の縁に皺ができても、直そうとはしなかった。遠くから救急車の音が聞こえ、軒先の風鈴が弱い風に一度だけ鳴った。
「父は、湊さんの実家が地方にあることを気にしています。お母様が一人暮らしなら、いずれ介護を押しつけられるんじゃないかって。母からは、古い家風のお姑さんとうまく付き合えるのか、結婚前に確かめなさいと言われました」
「それで、良いお嫁さんに見えるようにしようとしたんですね」
「お母様に歓迎されている写真を見せれば、両親も安心すると思ったんです。湊さんも、『母は気さくだから、適当に話を合わせれば大丈夫』って言ってくれましたから」
「適当に……」
「庭の手入れが好きだと話したら喜ぶとか、東京のお菓子を持っていけば機嫌がよくなるとか、そのくらいしか聞いていません。心臓の病気があることも、薬を何種類も飲んでいることも、私はここへ来て初めて知りました」
「湊は、何も話さなかったんですか?」
「お母様は元気だから心配ないと言っていました。いずれ東京へ来てもらえばいいとも。でも、お母様はこの家を離れたくないんですよね」
「仏壇も庭もあります。簡単には決められません」
沙耶は曲げていた帽子を膝へ置き、泥のついた袖口を指でこすった。汚れは乾いて布へ入り込み、こするほど広がった。蓮は洗濯ばさみの籠から濡れたタオルを取り、沙耶へ差し出した。
「水でたたけば、少し落ちると思います」
「どうして、私に親切にするんですか?」
「親切にしているつもりはありません。泥汚れは、乾く前のほうが落としやすいだけです」
「やっぱり、蓮さんは何でも知っているんですね」
「植物と洗濯のことだけです。人の気持ちは、何度間違えても分かりません」
沙耶はタオルを受け取り、袖口へ押し当てた。初めは軽くたたいていたが、やがて手を止め、濡れた布を握った。庭のミントの匂いと、干してある洗濯物の石けんの匂いが、風に乗って二人の間を通り抜けた。
「私、蓮さんを恋敵だと思っていました」
「そうでしょうね」
「否定しないんですか?」
「台所で昔付き合っていたのかと聞かれたときに、気づきました」
「湊さんは、ただの幼馴染だと言いました。でも、蓮さんは毎日のようにここへ来て、お母様からお義母さんと呼ばれている。私が知らない話をたくさん持っている。だから、湊さんを取り戻したくて、わざと私の邪魔をしているんじゃないかと思いました」
「私が、お義母さんと呼び始めたのは十八歳のときです。妙子さんから、いずれ湊の嫁になるのだから、そう呼んでほしいと言われました」
「十八歳……」
「湊が東京へ行く日に、母さんを頼むと言われました。仕事が落ち着いたら迎えに来るとも言われました」
「そんな話、聞いていません」
「上京してからも、二人で住む部屋や結婚指輪の話をしました。けれど昨日、湊から、全部子供の頃の冗談だったと言われました」
沙耶の手から濡れたタオルが膝へ落ちた。携帯電話の画面が光り、湊から「昼は外で食べる?」というメッセージが届いたが、沙耶は読んだだけで返事をしなかった。唇を結び、何度か庭のほうを見た。
「私と付き合い始めてからも、蓮さんに連絡していたんですか?」
「二年前の誕生日に電話がありました。仕事が落ち着いたら、こちらへ戻ることも考えていると言われました」
「二年前なら、もう私と付き合っていました」
「私は、沙耶さんの存在を知りませんでした」
「私も、蓮さんのことを知りませんでした」
二人の間に、風鈴の音が落ちた。沙耶は湊から届いたメッセージを閉じ、妙子と撮った写真をもう一度開いた。写真の中の食卓には高級総菜が並んでいるが、妙子の前には蓮が作った冷や汁が置かれていた。
「私は、蓮さんから湊さんを奪ったんでしょうか」
「それは違います。湊は物ではありませんし、自分で沙耶さんを選んだんです」
「でも、蓮さんとの約束があったのに」
「私には、待っていてほしいと言い続けました。沙耶さんには、ただの幼馴染だと話した。どちらにも、自分に都合のよいことだけを伝えたんです」
「そんな……」
「ただし、湊に何も知らされていなかったことと、沙耶さんがこの家でしたことは別です」
沙耶が顔を上げると、蓮は目をそらさなかった。桃のケーキや総菜を持ってきたことは、妙子に喜んでもらおうとした行動だった。しかし、白花夕顔を踏んだあとに価値のないものとして扱った言葉まで、湊のせいにはできなかった。
「不安だったからといって、誰かの大切なものを踏んでもいい理由にはなりません」
「はい」
「良いお嫁さんだと証明するために、お義母さんを写真の道具にするのも違うと思います」
「はい。ごめんなさい」
「謝る相手は、私ではありません」
「お母様と、あの花ですね」
「花は言葉を聞けません。でも、これからどう扱うかは見せられます」
沙耶は縁側から下り、黒い日傘のそばへ置かれていた新しい支柱を一本手に取った。すぐに花壇へ入らず、どこへ置けばよいかを蓮に尋ねた。蓮は折れた蔓に触れない位置を示し、二人で支柱を土へ差し込んだ。
「お母様にも謝ります。写真のことも話します」
「ご両親へは、どう説明するんですか?」
「分かりません。でも、笑っている写真一枚で認めてもらっても、そのあと何年も演じ続けることになりますよね」
「そうですね。良い嫁を演じるより、分からないことを聞ける人になったほうが、長く続くと思います」
「蓮さんも、ずっと何かを演じていたんですか?」
蓮は答える前に、支柱へ結んだ白花夕顔を見た。新しい芽の先には、昨日までなかった小さな葉が開きかけている。完全に元へ戻らなくても、根が生きていれば、伸びる方向を変えることはできた。
「私は、何を言われても大丈夫な人を演じていました。でも、もうやめようと思っています」
縁側の奥から、そうめんを茹でる湯気とミョウガの匂いが流れてきた。妙子が二人を呼び、麺が伸びる前に来なさいと声を張り上げている。沙耶は目元を濡れたタオルで拭き、花柄の手袋を拾ってから、蓮と並んで台所へ向かった。




