第6話 踏みにじられた花
第6話 踏みにじられた花
翌朝、蓮はベランダへ出て、昨夜洗ったまま放置していた洗濯物を干した。夜通し洗濯槽に入っていた白いブラウスには細かな皺がつき、柔軟剤の匂いもほとんど残っていない。もう一度洗い直そうか迷ったが、今日は園芸店が休みなので、薄い黄色のTシャツと茶色の作業用パンツを着ればよかった。
食卓には、妙子が帰る前に切ってくれたトマトが、ラップをかけたまま置かれていた。昨夜の味噌汁は鍋の中ですっかり冷め、卵が汁を吸って膨らんでいる。蓮は味噌汁を温め直し、妙子から持たされた鶏そぼろをご飯へ少しだけのせた。
「食べられるだけでいいから、口に入れなさい」
妙子はそう言いながら、戸棚に残っていた米まで炊いてくれた。蓮が子供のように食事の世話をされるのは、何年ぶりだっただろう。温かいご飯を一口食べると、昨夜よりも味噌の味がはっきり分かった。
午前九時を過ぎたころ、蓮は妙子の家へ向かった。昨夜は雨がやんでから妙子を送り届けたが、玄関の灯りは消えており、湊も沙耶も妙子の外出に気づいていなかった。帰宅した母親へ「散歩にしては遅かったな」と言った湊の声を思い出すと、蓮の靴の中で足の指が縮まった。
門を開けると、庭先には大きな段ボール箱が三つ置かれていた。箱には東京の園芸用品店の名前が印刷され、中から白い陶器の鉢や新しいシャベルがのぞいている。古いベンチには黒い日傘が立てかけられ、その下で沙耶が薄桃色のつばの広い帽子をかぶっていた。
「おはようございます、蓮さん。今日はお休みなんですね」
「おはようございます。その箱は、どうしたんですか?」
「朝一番で近くのホームセンターへ行ってきたんです。せっかくなので、お庭をきれいにしようと思って」
沙耶は白いフリルのついたブラウスに、薄い水色の七分丈パンツを合わせていた。足元には新品の赤い長靴を履き、両手にも花柄の園芸用手袋をつけている。庭仕事のために一式そろえたらしく、値札を剥がした跡が手袋の手首に残っていた。
「この庭を作り直すんですか?」
「作り直すというほどではありません。古い鉢を新しいものに替えて、伸びすぎた草を整理するだけです。お母様も、明るくなるならうれしいって言ってくださいました」
「私は、きれいにしてくれるならありがたいと言っただけだよ。何を抜いていいかは、蓮ちゃんに聞いてからにしなさいとも言ったでしょう」
縁側に座っていた妙子が口を挟んだ。今日は白い木綿のシャツに紺色のもんぺをはき、首には水玉模様の手ぬぐいを巻いている。そばの盆には冷たい麦茶と、朝に食べきれなかった桃のケーキが半分、皿に残されていた。
「もちろん、勝手にはしません。蓮さんに教えていただこうと思って待っていたんです」
「それなら、まず鉢を動かす前に、どこへ何が植えてあるか説明します。この庭は、見た目より根が広がっている植物が多いので」
「はい。私、植物はあまり詳しくないんですけど、インターネットで勉強しました。古い庭は、色を三色くらいに絞ると洗練されて見えるそうです」
「ここは展示用の庭ではありません。季節ごとに、お義母さんが好きなものを植えてきたので、色をそろえる必要はないと思います」
「でも、せっかく手入れをするなら、おしゃれなほうがいいですよね。写真を撮ったときにも映えますし」
沙耶は黒い日傘の横に立ち、携帯電話の画面を蓮へ見せた。そこには白い鉢と淡い紫色の花で統一された、広い洋風の庭が映っている。妙子の庭とは広さも日当たりも違っていたが、沙耶はすでに完成した姿を思い描いているようだった。
「この庭は午前中しか日が当たりません。写真にある花は、ここでは育ちにくいものもあります」
「鉢植えなら移動できますよね?」
「お義母さん一人では、重い鉢を動かせません。毎日、水をやることも考えないと」
「これからは、湊さんや私が手伝えますから」
「東京から通うんですか?」
蓮が尋ねると、沙耶の笑顔が少しだけ固まった。結婚後に妙子を東京へ呼ぶつもりなら、この庭を手伝い続けることはできない。蓮はそれ以上追及せず、花壇の中を指差した。
「ミントは広がりすぎるので、この石より外へ出たものだけ抜きます。ラベンダーは花が終わった枝を切ります。でも、奥の白花夕顔には触らないでください」
「白花夕顔って、どれですか?」
「あの低い支柱に巻きついている蔓です。まだ若いので目立ちませんが、夕方になると白い花が開きます」
「分かりました。では、私は古い鉢を移動させますね」
「その前に、鉢の後ろにも蔓が伸びているので――」
「大丈夫です。鉢くらい、私にも運べますから」
沙耶は蓮の説明を最後まで聞かず、ラベンダーのそばに置かれた素焼きの鉢を持ち上げた。鉢には妙子が去年植えた小さな南天が育ち、土が水を含んで重くなっている。沙耶は腕に力を入れたが、鉢は予想より重かったらしく、赤い長靴を花壇の中へ踏み入れた。
「待ってください。そこには――」
「あっ」
鉢の底が傾き、土が少しこぼれた。沙耶は倒さないように足を踏ん張り、もう一歩後ろへ下がった。その長靴の下で、細い茎が乾いた音を立てた。
蓮は鉢を沙耶の手から受け取り、石畳へ置いた。長靴の下から現れたのは、途中で折れた白花夕顔の蔓だった。開きかけていた白いつぼみが泥の上へ落ち、花びらの先に赤い靴跡がついている。
「ああ……お父さんの夕顔が」
妙子は縁側から立ち上がり、片方のサンダルを履かないまま花壇へ近づいた。蓮は急いで妙子の腕を支え、石畳へ戻した。妙子の視線は、泥に伏した白いつぼみから動かなかった。
「お義母さん、足元が滑ります。そこへ座っていてください」
「今年も、もうすぐ咲くと思っていたんだよ。あの人が最後に植えた花だから」
「最後に?」
「入院する前の夏に、夫が種をまいたんです。亡くなってからも、こぼれた種から毎年芽が出るようになりました」
蓮は折れた蔓を両手でそっと持ち上げた。完全に切れてはいないが、茎の半分以上が潰れ、薄い皮一枚でつながっている。根元を確かめると、土の中にはしっかり根が残っていた。
「私、そんな大切な花だなんて聞いていませんでした」
「説明しようとしました。鉢の後ろにも蔓が伸びているから、待ってくださいと」
「でも、こんな端にあったら分かりませんよ。雑草みたいに小さかったし、支柱だって古くて目立たなかったんです」
「沙耶さん」
「そもそも、こんなところに植えておくほうが悪いですよ。通り道に伸びていたら、誰だって踏みます」
沙耶の声は次第に大きくなった。自分の失敗を打ち消すように、新しい手袋についた泥を何度もこすり合わせている。縁側の妙子は何も言わず、朝から残っていた桃のケーキへ皿の覆いをかぶせた。
「沙耶さん、知らなかったことは責めません」
「だったら、そんな目で見ないでください。わざと踏んだわけではありません」
「分かっています。私の説明を聞かずに鉢を動かしたことも、今は責めません」
「それなら――」
「でも、知らないまま価値がないと決めつけないでください」
蓮は沙耶を見上げた。いつもなら、場の空気を悪くしないように「大丈夫です」と言っていたかもしれない。だが、昨夜、妙子の肩へ顔を押しつけた自分を思い出すと、その言葉だけは口にできなかった。
「雑草に見えても、お義母さんには大切な花でした。沙耶さんが知らなかったからといって、その価値までなくなるわけではありません」
「私は、庭をきれいにしようとしただけです」
「きれいにしたいなら、ここで暮らしてきた人の話を聞いてください。写真に映える庭へ変える前に、どうしてこの花がここにあるのか、確かめてください」
「蓮さんは、私が何をしても気に入らないんじゃないですか?」
「今の話に、湊は関係ありません」
沙耶は唇を開いたが、言葉は出なかった。縁側の向こうから、湊が電話で仕事の話をしている声が聞こえる。沙耶は一度だけ家の中を振り返り、花柄の手袋を外した。
「もう、私には触らないほうがいいみたいですね」
「沙耶さん、待って。まだ話は――」
「結構です。どうせ私は、何も知らない東京の人間ですから」
沙耶は黒い日傘をベンチへ残したまま、赤い長靴で石畳を歩き、家の中へ入った。玄関の引き戸が閉まると、庭にはセミの声と、隣家の風鈴の音だけが残った。新しい白い鉢も、未開封の園芸用品も、段ボール箱の中へ入ったままだった。
「蓮ちゃん、あの花は、もう駄目かい?」
妙子の声に、蓮は折れた茎へ目を戻した。園芸用のテープと細い支柱を物置から出し、潰れた部分をそっとつなぎ合わせた。茎が折れた以上、すべてのつぼみを咲かせることは難しいかもしれなかった。
「元どおりにはできません。でも、根は生きています。折れたところから上を少し切って、負担を減らせば、また新しい芽が出るかもしれません」
「花は咲かないのかい?」
「今年は遅くなるかもしれません。それでも、根まで抜く必要はありません」
「そうかい。根は生きているのかい」
「はい。まだ、ちゃんと生きています」
蓮は一番大きなつぼみを切り、小さなガラスの器へ水を張って浮かべた。妙子はそれを両手で受け取り、亡夫の仏壇へ持っていくと言った。泥のついた白いつぼみは開かないかもしれなかったが、捨てる理由にはならなかった。
蓮は残った蔓を支柱へ結び、根元へ少しだけ水を注いだ。完全に元へ戻らないものは、庭にも、人の暮らしにもある。それでも生きている根まで、自分の手で引き抜く必要はなかった。




