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第5話 「お義母さん」と呼ばせた人

第5話 「お義母さん」と呼ばせた人


 その日の蓮は、園芸店で三度も値札をつけ間違えた。白いポロシャツと深緑色のエプロンを着て、入荷した鉢植えを売り場へ並べていたが、五百八十円のバジルへ千二百円の札を差してしまった。店長に声をかけられるまで気づかず、蓮は札を抜いて何度も頭を下げた。


「相沢さん、今日はもう上がっていいよ。朝から顔色がよくない」


「大丈夫です。閉店まで働けます」


「大丈夫な人は、ローズマリーとサボテンを同じ棚に並べないよ。水やりの回数が違うだろう」


「すみません。すぐに直します」


「直したら帰りなさい。余ったトマトも持っていっていいから」


 店長はそれ以上尋ねず、段ボール箱から形の悪いトマトを四個取り出して紙袋へ入れた。ひとつは皮が裂け、甘酸っぱい汁が袋の底へにじんでいる。蓮は礼を言い、店の裏で制服から白いブラウスへ着替えた。


 帰り道に商店街の総菜店へ寄ったが、揚げたてのコロッケの匂いを嗅いでも足が止まらなかった。昼に持ってきた梅のおにぎりも半分残っており、鞄の中で海苔がしんなりしている。妙子の夕食なら何がよいかすぐに考えられるのに、自分のためとなると、食べたいものが一つも浮かばなかった。


 アパートへ戻った蓮は、持ち帰ったトマトを流し台へ置き、仕事着を洗濯機へ入れた。洗剤を量らずに入れたため、蓋の周りへ白い粉がこぼれたが、そのまま電源を入れた。回り始めた洗濯槽を眺めながら、朝の湊の言葉を思い出した。


「そんな子供の頃の冗談、本気にしてたのかよ」


 蓮は両耳を手で塞いだ。しかし、聞こえた声は外から入ってきたものではないので、消えてはくれなかった。窓の外では夕立が始まり、ベランダの手すりへ大粒の雨が打ちつけていた。


 夕食には、店長からもらったトマトを一個切り、冷蔵庫に残っていた卵で味噌汁を作った。だしを入れ忘れた味噌汁は塩辛く、卵も鍋の底へ張りついている。蓮は二口だけ飲んだあと、冷めた椀を食卓の端へ押した。


 午後八時を過ぎたころ、玄関のチャイムが鳴った。宅配便を頼んだ覚えはなく、蓮は古いTシャツの裾を整えてから扉を開けた。そこには、透明なビニール傘を持った妙子が立っていた。


「お義母さん、どうしたんですか。こんな雨の中、一人で来たんですか?」


「傘を差してきたんだから、一人じゃないよ」


「そういう話ではありません。湊はどうしたんですか?」


「あの子には言わずに来た。沙耶さんと二階で話しているから、気づいてもいないだろうよ」


 妙子は紺色のカーディガンを羽織り、足元には雨で濡れた茶色い靴を履いていた。白髪にも細かな水滴がつき、右手には蓮の家へ持ってくる必要のない、薬の入った布袋を握っている。蓮は急いで玄関へ新聞紙を敷き、妙子の傘と靴を置いた。


「体が冷えるから、早く上がってください。何か温かいものを淹れます」


「冷たい麦茶でいいよ。歩いたら汗をかいたもの」


「雨の日に冷たいものは駄目です。カモミールのお茶にしますね」


「ここへ来ても、私の世話をするのかい」


 妙子の言葉に、蓮の手が止まった。湯を沸かすために持ち上げたやかんには、朝の水が少し残っている。蓮は新しい水へ入れ替え、ガス台へ置いてから、背中を向けたまま答えた。


「お茶を淹れるくらい、世話ではありません」


「その味噌汁、蓮ちゃんの夕飯かい?」


「卵も入っています。トマトも食べました」


「冷めているじゃないの。ご飯もないし、おかずもない。私には毎日、三品も四品も作ってくれるのに」


「今日は、あまりおなかがすかなかっただけです」


「また、大丈夫なふりをするのかい」


 やかんの底で、小さな泡が音を立て始めた。蓮は食器棚から二つのカップを出したが、片方は湊が高校の修学旅行で買ってきたものだった。青い海と赤い鳥居が描かれたカップを見た途端、指先から力が抜け、棚へ戻した。


「こちらを使ってください。少し欠けていますけど、飲むところは大丈夫ですから」


「蓮ちゃん、座って。お茶はあとでいい」


「でも、せっかくお湯が――」


「火を止めて、私の隣へ座りなさい」


 妙子は食卓の前へ座り、向かいではなく、自分の隣の椅子を引いた。蓮はやかんの火を止め、言われたとおりに腰を下ろした。洗濯機の回る音と、窓を打つ雨音が、狭い部屋の中で重なっていた。


「今朝、庭で湊と話していたね」


「聞いていたんですか?」


「全部ではないよ。でも、窓が開いていたから、あの子の大きな声は聞こえた。冗談だったなんて、よくもあんなことが言えたものだ」


「湊だけが悪いわけではありません。私が勝手に信じていただけです」


「違うよ。信じさせたのは、湊と私だ」


 妙子は布袋から薬の箱を取り出し、意味もなく蓋を開けては閉じた。箱の角は長く持ち歩いたために丸くなり、蓮が貼った曜日のシールも一枚剥がれかけている。妙子はそれを爪で押さえながら、十八歳の春のことを話し始めた。


「湊が東京へ行った次の日だったね。蓮ちゃんは駅で泣いた顔を隠して、うちの台所で肉じゃがを作ってくれた。ジャガイモが煮崩れて、鍋の中がどろどろになったのを覚えているかい?」


「覚えています。お義母さんは、味は同じだから大丈夫って全部食べてくれました」


「そのとき、私が言ったんだよ。どうせ湊の嫁になるんだから、今日からお義母さんと呼んでって」


「はい」


「蓮ちゃんは、顔を真っ赤にして、三回も練習したね。妙子さん、おばさん、お義母さんって」


「最初は、恥ずかしくて呼べませんでした」


「呼んでくれたとき、私はうれしかった。夫を亡くして、湊まで東京へ行って、この家で一人になるのが怖かったんだろうね。蓮ちゃんが娘になってくれると思ったら、急に家の中が明るくなったような気がしたよ」


 妙子は薬の箱を食卓へ置き、膝の上で両手を重ねた。細い指には洗剤で荒れた跡があり、結婚指輪を外した部分だけ皮膚の色が薄い。蓮はその手で何度頭を撫でてもらったかを思い出し、自分の膝を見つめた。


「湊から連絡が来なくなっても、私はいつか戻ると言い続けた。あの子が結婚の話をしなくなったことにも気づいていたのに、仕事が忙しいだけだと言った。蓮ちゃんがこの家へ来なくなるのが、怖かったんだよ」


「私は、お義母さんに言われなくても来ました」


「だから余計に、甘えたんだ。病院へ連れていってくれることも、冷蔵庫に食べ物を入れてくれることも、庭を守ってくれることも、いつの間にか当たり前にしてしまった」


「当たり前だなんて思っていなかったでしょう。いつも、ありがとうと言ってくれました」


「ありがとうと言えば、若い娘の時間をもらっていいわけじゃないよ」


 妙子の声が途中でかすれた。蓮は水を持ってこようと立ち上がりかけたが、妙子に手首をつかまれた。介護を始めた頃より細くなった手なのに、その力は蓮を椅子へ戻すには十分だった。


「あの子を待たなくていい。私のことも、もう背負わなくていいの」


「そんなこと、急に言われても困ります」


「買い物は配達を頼める。通院も福祉の人に相談するよ。庭だって、少しくらい草が伸びても死にはしない」


「薬を飲み忘れたら、どうするんですか。暑い日に食欲がなくなったら、誰が冷や汁を作るんですか」


「それを考えるのは、私と息子の役目だよ。蓮ちゃんの役目じゃない」


「でも、私がやってきたんです。ずっと私が――」


 言葉を続けようとすると、喉が狭くなった。妙子の世話をやめたら、十五年間に自分がしてきたことまで、必要のないものになる気がした。湊を待つために残った町で、妙子を支えることだけが、自分の時間に意味を与えていた。


「私、お義母さんのためにしたことを、なくしたくありません」


「なくならないよ」


「湊は全部、冗談だったと言いました。私が勝手に待って、勝手に世話をしたみたいに言いました。お義母さんのことまで必要なかったと言われたら、私の十五年には、何が残るんですか?」


「蓮ちゃんが作った御飯を、私は食べたよ。病院へ行くときに手を握ってもらった。庭の花も、蓮ちゃんが水をやったから咲いた。それは誰にも冗談にはできない」


「でも、私は……」


 蓮は唇を噛み、何度も息を吸った。大丈夫だと言えば、妙子は安心して帰れる。いつものように笑い、明日の薬を確認し、雨がやむまでお茶を飲めばよかった。


 それでも、その夜は言えなかった。


「私は待っていました。ちゃんと待っていたんです。十五年も、湊の言葉を信じて待っていたんです」


 妙子はうなずき、蓮の言葉を遮らなかった。雨に濡れたカーディガンから、柔軟剤と古い箪笥が混じった匂いがした。蓮は妙子の袖を握り、子供の頃に転んだときのように、顔をその肩へ押しつけた。


「だから、今すぐ平気な顔はできません。沙耶さんに笑って挨拶することも、湊を祝うこともできません。そんな自分を、嫌な女だと思いたくないんです」


 妙子は「そんなことはない」と急いで慰めなかった。背中を軽く撫でることもせず、ただ蓮の隣に座り、握られた袖をそのままにしていた。やかんの中で、沸かした湯が少しずつ冷めていった。


 蓮の目から落ちたものが、妙子の紺色のカーディガンへ丸い染みを作った。一度こぼれると止められず、蓮は声を抑えるために何度も息を飲み込んだ。妙子は黙ったまま、食卓の端に置かれた冷めた味噌汁を見つめていた。


 洗濯機が終了を知らせる音を鳴らしたが、蓮は立ち上がらなかった。濡れた洗濯物も、冷めたお茶も、今夜だけは後回しでよかった。蓮は初めて「大丈夫です」と言わず、妙子の肩で十五年分の声をこぼし続けた。



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