表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/11

第4話 冗談にされた十五年

第4話 冗談にされた十五年


 翌朝、蓮は目覚まし時計が鳴る前に目を開けた。薄いカーテンの向こうでは、まだ六時だというのに強い日差しがベランダの物干し竿を白く光らせていた。昨夜たたまずに椅子へかけたTシャツと綿パンツが残っており、台所の小皿には、食べきれなかったたくあんが一切れ乾いていた。


 蓮は冷蔵庫から卵を一個取り出し、フライパンで目玉焼きを作った。いつもなら妙子の血圧や食欲を考えながら朝食を用意する時刻だったが、自分一人の皿には、焦げた目玉焼きと六枚切りの食パンをのせただけだった。コーヒーへ砂糖を入れたかどうかも分からなくなり、一口飲んでから、何の味もしないことに気づいた。


「今日は、行かなくてもいいのよね」


 誰もいない部屋で口にすると、冷蔵庫のモーター音だけが返ってきた。湊が帰っているのだから、妙子の朝食も薬も息子が見ればよい。そう考えて食パンをちぎったが、昨夜の湊が薬の帳面を数ページめくって閉じた姿を思い出し、蓮は椅子から立ち上がった。


 白い半袖ブラウスとベージュのパンツに着替え、髪を後ろで一つに束ねた。鞄には園芸店の制服と、自分の昼食にする小さな梅のおにぎりを入れた。妙子の家へ行く理由を探しているようで嫌になったが、青い印の薬を湊が覚えているか確かめるだけだと、自分に言い聞かせた。


 妙子の家へ近づくと、庭から水の流れる音が聞こえた。門は半分開いており、黒い日傘が昨日と同じように古いベンチへ立てかけられている。庭にいた妙子は、薄紫色のブラウスに黒いゆったりしたズボンをはき、ホースを持ったまま振り返った。


「蓮ちゃん、来てくれたの。今日は仕事でしょう」


「十時からです。朝の薬だけ確認しようと思って」


「ちゃんと飲んだよ。湊が食パンを焼いてくれたんだけど、片面を真っ黒にしてね。黒いところを包丁で削ったから、台所がパンくずだらけだよ」


「湊が朝食を作ったんですか?」


「作ったなんて大げさなものじゃないよ。食パンを焼いて、牛乳を出しただけ。でも、あの子が台所に立つなんて、中学生の家庭科以来じゃないかねえ」


 妙子は困ったように笑ったが、その声には少し張りが戻っていた。たとえ焦げた食パンでも、長く帰らなかった息子が用意したものなら、妙子には御馳走なのだろう。蓮は胸元へ浮いた皺を隠すようにブラウスの襟を直し、ホースを受け取った。


「水やりは私がします。お義母さんは、中へ入って休んでください」


「朝くらい私にもできるよ。蓮ちゃん、昨日は夕飯を食べたの?」


「目玉焼きを食べました。今朝も目玉焼きです」


「二日続けて卵じゃ、ひよこになっちゃうよ。冷蔵庫に鶏そぼろが残っているから、お昼に持っておいき」


「それは、お義母さんの夕飯です」


「湊も沙耶さんもいるんだから、何とかするでしょう。昨日だって、食べきれないほど御馳走があったじゃないか」


 妙子が家へ入ったあと、蓮は花壇へ水をまいた。乾いた土が濡れ、夏の朝特有の青い匂いが立ち上る。ミントの葉に水滴がたまり、朝日を受けて小さく光っていた。


 二階の窓が開き、湊が顔を出した。黒いTシャツを着て、寝癖のついた髪を片手で押さえている。昔は朝が苦手で、蓮が学校へ迎えに行くまで布団から出なかったことを思い出した。


「朝から誰かと思ったら、蓮か。母さんなら薬を飲んだぞ」


「確認しました。ありがとう」


「別に礼を言われることじゃないだろ。俺の母親なんだから」


 その一言に、蓮の手から伸びたホースがわずかに揺れた。それなら、なぜ今まで自分へ任せきりにしていたのか。喉まで出かかった言葉を飲み込み、蓮は蛇口を閉めた。


「湊、少し話せる?」


「今から?」


「十分でいいの。庭へ下りてきて」


「沙耶が起きる前に、コーヒーを淹れようと思ってるんだけど」


「十五年待ったんだから、十分くらいもらってもいいでしょう」


 湊の顔から眠そうな表情が消えた。蓮は返事を待たず、古いベンチの黒い日傘を閉じ、縁側のそばへ移した。十五年前に二人が座った場所を、他の女性の持ち物に覆われたまま話したくなかった。


 しばらくして、湊が庭へ下りてきた。Tシャツの裾には細かなパンくずがつき、足元には妙子が買った紺色のサンダルを履いている。湊はベンチへ座ろうとしたが、蓮が立ったままでいるのを見て、面倒そうに腕を組んだ。


「それで、話って何だよ」


「沙耶さんと、いつから付き合っているの?」


「二年くらい前から。会社の後輩だったんだ」


「二年前……。その頃、私に連絡をくれたことがあったよね」


「たまには連絡するだろ。幼馴染なんだから」


「誕生日に電話をくれた。仕事が落ち着いたら、こっちへ戻ることも考えているって言ったよね」


「そんなことまで覚えてるのかよ。仕事の愚痴を言っただけじゃないの」


 湊は視線をそらし、ベンチの剥がれたペンキを爪でこすった。白い粉が黒いTシャツの裾へ落ちたが、気づく様子はなかった。蓮は握った手を開き、指に残った庭の鍵の跡を見た。


「私は、十歳の指切りだけを信じて待っていたんじゃないよ」


「その話を今するのか?」


「十八歳の春、駅で言ったでしょう。『母さんを頼む。仕事が落ち着いたら迎えに来る』って」


「十八の男が言ったことだぞ。進学で離れるのが寂しくて、何となく言っただけだろ」


「何となく、私へお義母さんを任せたの?」


「母さんと仲がよかったのは本当だろ。蓮だって嫌なら断れたじゃないか」


「上京してからも話したよね。二人で住むなら、駅に近い部屋がいいって。私は園芸の仕事を続けたいから、ベランダが広い部屋を探そうって」


「夢みたいな話をしただけだよ。若い頃は誰だって、その場の勢いで将来の話くらいする」


「二十二歳の誕生日には、指輪は給料三か月分じゃなくてもいいかって聞いたでしょう」


「声が大きい。沙耶に聞こえるだろ」


 湊は二階の窓を見上げ、低い声で蓮を止めた。その仕草を見た瞬間、蓮の中で散らばっていたものが一つにつながった。湊は約束を忘れていたのではなく、覚えていたからこそ、沙耶に聞かれることを恐れていた。


「やっぱり、覚えているんだね」


「何がだよ」


「本当に忘れていたなら、沙耶さんに聞かれても困らないでしょう」


「昔のくだらない話を聞かせて、余計な誤解をされたくないだけだ」


「誤解って、何を誤解するの? 私たちは結婚しようって話していた。それは事実でしょう」


「結婚したわけじゃない。婚約届を出したわけでも、指輪を渡したわけでもないだろ」


「だから、何もなかったことになるの?」


「そんな子供の頃の冗談、本気にしてたのかよ」


 庭の外で、自転車のベルが二度鳴った。近所の女性が買い物袋を前籠に入れて通り過ぎ、向かいの家からは、朝食に焼いている塩鮭の匂いが流れてきた。いつもと変わらない朝の中で、湊の言葉だけが、聞き間違えようのない形で残った。


 蓮は何も言い返さなかった。湊の顔を見れば、約束を忘れていないことは分かった。自分が悪者にならないために、十五年間続いた言葉を、今ここで子供の冗談へ変えようとしているだけだった。


「何か言えよ。黙られると、俺だけが悪いみたいじゃないか」


「私に、何を言ってほしいの?」


「お互いに若かったんだから仕方ないって、分かるだろ。俺には東京での生活があるし、蓮にも蓮の人生がある」


「私の人生が、いつから始まるのか教えて」


「どういう意味だよ」


「あなたを待って、お義母さんを支えてきた時間は、私の人生じゃなかったの?」


 湊は口を開いたが、答えなかった。家の中から目覚まし時計の電子音が聞こえ、すぐに止まった。沙耶が起きたのだろうと気づいた湊は、落ち着かない様子で玄関のほうへ目を向けた。


「もう、この話は終わりにしよう。今さら蒸し返したって、誰も得をしない」


「湊は、それで終われるんだね」


「俺だって悪かったと思ってるよ。でも、十五年も待てなんて頼んでない」


「母さんを頼む。迎えに来る。それは、待てという意味じゃなかったの?」


「勝手に重く受け取ったのは蓮だろ」


 湊は吐き捨てるように言い、ベンチから離れた。玄関の引き戸が開き、白い部屋着を着た沙耶が顔を出した。湊を見つけると、朝食をどうするのかと明るい声で尋ねた。


「今行くよ。母さんがパンを買ってあるから」


「コーヒー、私が淹れましょうか?」


「頼む。蓮とは、庭のことで話してただけだから」


 湊は蓮の返事を待たず、沙耶のもとへ歩いて、いった。庭のことを話していただけだという嘘に、沙耶は何も疑わずうなずいた。二人が家へ入ると、玄関の引き戸が乾いた音を立てて閉まった。


 蓮はベンチの下に置いてあった古いじょうろを持ち上げた。昨日の水が少し残っていたので、白花夕顔へまこうとしたが、指に力が入らなかった。じょうろが傾き、水は花壇へ届かず、蓮の靴とベージュのパンツの裾を濡らして、乾いた土に大きな黒い染みを作った。


「冗談だったんだ……」


 蓮はじょうろを地面へ置き、右手の小指を左手で握った。十歳の湊が絡めた小指も、十八歳の駅で握られた手も、二十二歳の誕生日に聞いた指輪の話も、自分一人が作ったものではない。それでも約束した本人が冗談だったと言えば、証明してくれる人はどこにもいなかった。


 縁側には、妙子が脱いだ薄紫色のカーディガンが置かれていた。台所からはコーヒー豆をひく音と、沙耶が砂糖の場所を尋ねる声が聞こえる。蓮は庭の鍵を鞄の内ポケットへしまい、濡れた裾を手で払って、仕事へ向かうために門を出た。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ