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第3話 台所に立つ二人

第3話 台所に立つ二人


 午後五時を過ぎても、庭の向こうには白い日差しが残っていた。蓮は妙子の家の台所で、薄緑色のスカートの上から黄色い花柄のエプロンをつけ、冷蔵庫から作り置きの鶏そぼろとナスの煮びたしを取り出した。台所には昼に煮ただしの匂いが残っていたが、二階から下りてきた沙耶の手には、銀色の保冷バッグが提げられていた。


「夕食でしたら、私も用意してきたんです。東京で人気のお店のお総菜なので、ぜひ皆さんで食べましょう」


「わざわざ東京から持ってきたんですか?」


「はい。湊さんから、お母様はおいしいものがお好きだと聞きましたから」


「母さんは何でも食べるからな。特に甘いものには目がないだろ」


 湊は紺色のTシャツと灰色のハーフパンツに着替え、冷蔵庫を開けた。麦茶のボトルを見つけると、コップを使わずに直接飲もうとしたため、妙子が離れた場所から手を叩いて止めた。湊は子供の頃から変わらないと言って笑い、青い縁取りのコップへ麦茶を注いだ。


「その癖、まだ直っていないのね。蓮ちゃんに見られたら叱られるよって、いつも言っていたでしょう」


「俺、蓮に叱られてたっけ?」


「水筒を忘れたときも、給食袋をなくしたときも、蓮ちゃんが世話を焼いてくれたじゃないの」


「そんな昔のこと、覚えてないよ」


 蓮は鍋の取っ手を握ったまま、湊の横顔を見た。忘れているという言葉が、台所の湯気よりも重く耳へ残る。蓮は何も言わず、煮びたしを弱火で温め始めた。


 沙耶が保冷バッグから取り出したのは、薄切りのローストビーフ、チーズをのせたテリーヌ、海老とアボカドのサラダ、小さなキッシュだった。どれも透明な容器に美しく並べられ、金色の店名が印刷された帯が巻かれている。最後に出てきた白い箱の中には、桃を半分そのまま使ったケーキが四つ入っていた。


「まあ、きれいねえ。これがケーキなのかい?」


「丸ごとの桃の中に、カスタードクリームが入っているんです。午前中に売り切れることもあるんですよ」


「桃一つで、いくらするの?」


「お母様、値段は聞かないお約束です」


「そう言われると、ますます気になるじゃないの。千円くらい?」


「母さん、そういうことを聞くなよ」


 妙子は肩をすくめ、食卓の上の眼鏡をかけ直した。白い箱の横には、昼に届いた町内会の回覧板と、読みかけの新聞が重なっている。蓮は邪魔にならないようにそれらを座布団の上へ移し、冷蔵庫の扉に貼られた薬の予定表を確かめた。


「お義母さん、桃のケーキは明日の昼にしましょう。夕食のあとだと、薬を飲む時間までに血糖値が上がりすぎるかもしれません」


「今日食べたら駄目なのかい?」


「半分だけなら大丈夫かもしれませんけど、今日は果物も食べていますよね。朝にスイカを二切れ、昼の冷や汁にもキュウリを入れましたから」


「キュウリまで果物に数えるのかい?」


「キュウリは野菜です。でも、そういう問題ではありません」


 妙子が子供のように口を尖らせると、蓮は小さく笑った。薬の予定表には、蓮の字で「夜七時・食後」「八時半・血圧測定」と書かれている。沙耶は予定表と蓮の顔を交互に見たあと、桃の箱をそっと閉じた。


「蓮さんは、そこまで管理されているんですね」


「管理というほどではありません。お義母さんは、食べたものを忘れてしまうことがあるので」


「忘れているんじゃないよ。もう一度食べたいだけ」


「それを世間では、食べたのを忘れたと言うんです」


「ひどいねえ。湊、聞いたかい。未来のお嫁さんは、お姑さんをいじめるよ」


 妙子が湊へ話を振ると、湊は携帯電話から目を上げずに笑った。沙耶も笑顔を作ったが、箱を押さえる指には少し力が入っている。蓮が妙子と自然に言葉を交わすたび、自分だけ会話の外側に立たされているように見えた。


「私にもできることがあれば、教えてください。これからは、お母様のお好みも覚えたいですから」


「それなら、まず塩分ですね。お義母さんは心臓のお薬を飲んでいるので、濃い味は避けています。このローストビーフとテリーヌは、今日は少しずつにしたほうがいいと思います」


「でも、こちらは有名な料理人が監修したものなんです。素材にもこだわっていますし、体に悪いものではありませんよ」


「悪いものだとは言っていません。ただ、塩分表示を見ると、全部を一度に食べるのは――」


「せっかく沙耶が買ってきたんだから、今日くらいいいだろ」


 湊は携帯電話を伏せ、海老とアボカドのサラダを指差した。容器の裏にある表示を確認する様子はなく、沙耶の機嫌を直すように、どれもうまそうだと言った。蓮は反論しかけたが、妙子が胸元をゆっくり撫でているのに気づき、言葉を飲み込んだ。


「では、一人分を四人で分けましょう。残りは明日にします。煮びたしと冷や汁もあるので、十分ですよ」


「蓮さんが作ったものを減らせばいいんじゃないですか? そちらは明日でも食べられますよね」


「冷や汁は今日のために作りました。お義母さんは暑い日に食欲が落ちるので、少しでもご飯を食べられるように」


「母さん、そんなに食が細くなったのか?」


「去年の夏に三キロ減ったのよ。あなたには電話で話したでしょう」


「そうだっけ。仕事中だったから、ちゃんと聞いてなかったのかもしれない」


 妙子は湊を見つめたあと、何も言わずに自分の席へ座った。蓮は冷や汁の器に崩した豆腐とキュウリを入れ、すりごまを指でひねって散らした。味噌とだしの香りが広がると、妙子はようやく胸元から手を離した。


 四人分の料理が食卓へ並ぶと、古い木の天板がほとんど見えなくなった。蓮の煮びたしと鶏そぼろは、縁の欠けた普段使いの鉢に盛られ、沙耶の総菜は金色の模様が入った客用の皿へ移されている。扇風機の風が当たるたび、冷や汁に浮かべた青ジソと、ローストビーフに添えられた洋わさびの匂いが交互に流れてきた。


「すごい御馳走だねえ。お正月みたいだよ」


「お母様、こちらのテリーヌから召し上がってください。白身魚と帆立が入っているんです」


「じゃあ、一口いただこうかね」


「お義母さん、先にご飯を少し食べてください。そのあと、赤い印の薬です」


「はいはい。蓮ちゃんが見張っているから、悪いことはできないねえ」


 妙子は冷や汁をご飯へかけ、二口ほど食べてからテリーヌへ箸を伸ばした。沙耶は妙子が「おいしい」と言うのを待つように、背筋を伸ばしている。妙子はゆっくり噛んだあと、少し首をかしげた。


「上品な味だね。おいしいけれど、私は蓮ちゃんのナスのほうが食べやすいかな」


「母さん、比べる必要ないだろ」


「比べたつもりはないよ。年を取ると、慣れた味がいいって話さ」


「お口に合わなかったでしょうか。東京では、とても評判なんですけど」


「おいしいよ。ただ、私の舌が田舎者なんだろうね」


 沙耶は笑ったが、自分の皿のテリーヌを細かく切り始めた。ナイフが陶器へ当たり、乾いた音を立てる。蓮は妙子の薬袋を開けながら、沙耶に聞こえるように声をかけた。


「沙耶さんのおかげで、お義母さんも珍しいものを食べられました。ありがとうございます」


「いいえ。蓮さんは、ずいぶんこの家のことに詳しいんですね。食事の好みも、薬の時間も、食器の場所まで全部ご存じで」


「長く通っていますから」


「毎日のように来ているんですか?」


「仕事のある日は帰りに寄ります。休みの日は、病院や買い物があれば朝から来ます」


「ご自分の生活は、大丈夫なんですか?」


 沙耶の言葉は丁寧だったが、目元から先ほどまでの笑みが消えていた。どうして家族でもない女性が、そこまで他人の家へ入り込んでいるのか。問いかけの奥にあるものが分かり、蓮は薬袋を持ったまま返事を探した。


「蓮は昔から世話焼きなんだよ。母さんも便利だから頼ってるだけだろ」


 湊は面倒な話を終わらせるように笑い、ローストビーフを二枚まとめて口へ入れた。妙子の箸が、ナスを挟んだまま止まった。蓮は鍋の蓋を持ち上げ、残った煮びたしを保存容器へ移そうとしたが、金属の蓋が手の中で小さく震えた。


「便利だからですって?」


「悪い意味じゃないよ。蓮も好きでやってるんだろ。母さんだって助かってる。それでいいじゃないか」


「蓮ちゃんがどんな思いで――」


「お義母さん、薬を飲みましょう。麦茶でいいですか」


 蓮は妙子の言葉を遮り、赤い印の薬を手渡した。今ここで妙子に十五年前の約束を語らせれば、自分が湊へ縋っているように沙耶から見られる気がした。薬を飲み込んだ妙子の背中を撫でながら、蓮は鍋の蓋をきちんと閉じた。


 食事が終わると、沙耶は台所へ食器を運び、自分が洗うと言った。蓮と二人で流し台に立つと、肩が触れそうなほど狭く、どちらが蛇口を使うかも決められなかった。沙耶のワンピースからは甘い香水の匂いがし、蓮のエプロンには味噌とごま油の匂いが染みついていた。


「蓮さん、洗剤はこれでいいですか?」


「はい。スポンジは緑が食器用で、黄色が鍋用です」


「本当に何でもご存じなんですね」


「長く使っていますから」


「湊さんとは、ずっと幼馴染なんですよね。昔、お付き合いされていたこともあるんですか?」


 蛇口から流れる水が、青い小鉢の底へ当たった。蓮は小鉢を受け取ろうとしたが、ぬれた指が縁を滑り、流し台へ硬い音を立てて落ちた。幸い割れなかったものの、欠けていた縁から細いひびが一本伸びていた。


「気をつけてください。けがをしたら大変です」


「すみません。手が滑りました」


「質問しづらいことを聞いてしまいましたね。でも、これから私が湊さんと結婚するなら、知っておいたほうがいいと思ったんです」


「沙耶、何をこそこそ話してるんだ?」


「何でもありません。昔のお話を聞いていただけです」


「蓮と俺はただの幼馴染だよ。それ以上でも以下でもない」


 居間から届いた湊の声に、蓮は割れかけた小鉢を両手で持った。十歳の指切りだけではない。十八歳の駅でも、二十歳の誕生日の電話でも、湊は迎えに行くと言った。それでも今の湊にとっては、口にする必要すらない過去になっていた。


「そうですよね。変なことを聞いて、ごめんなさい」


「いいえ。洗った食器は、そこの籠へ伏せてください」


 蓮はそれだけ答え、ひびの入った小鉢を布巾で包んだ。妙子が気に入っていた食器なので捨てずに直せないか調べようと思ったが、ひびは底近くまで続いていた。水を入れれば、きっと少しずつ漏れてしまう。


 片づけを終えた蓮は、翌朝の薬を食卓へ置き、庭の鍵を鞄へしまった。妙子は玄関まで見送りに出ようとしたが、湊がいるのだから大丈夫だと伝えた。湊と沙耶は二階の部屋について話しており、蓮が帰ることに気づいているのかどうかも分からなかった。


「蓮ちゃん、本当に一人で帰れる?」


「すぐそこですよ。お義母さんは、九時になったら青い印の薬を飲んでくださいね」


「分かったよ。蓮ちゃんも、ちゃんと夕飯を食べるんだよ」


「さっき少し味見をしましたから、おなかがいっぱいです」


 妙子は納得していない顔をしていたが、蓮は笑って玄関を出た。外には昼間の熱が残り、アスファルトから生ぬるい匂いが上がっている。近所の家から焼いたアジの匂いと、テレビの野球中継を応援する男性の声が聞こえ、蓮は自分の鞄だけが妙に軽いことに気づいた。


 自宅のアパートへ戻ると、朝に干した洗濯物はすっかり乾いていた。蓮はTシャツを取り込み、畳まずに椅子の背へかけてから、台所の冷蔵庫を開けた。中にあったのは、麦茶のボトル、卵が二個、たくあん、味噌、使いかけのマヨネーズだけだった。


 妙子のために塩分を計り、食べやすい献立を考え、薬の時間まで気にしてきた。湊が帰れば何を食べさせようかとも考えていたのに、自分の夕食については何も用意していなかった。蓮は卵を一つ取り出したが、フライパンを洗う気力が起きず、冷蔵庫へ戻した。


「便利だから、頼っているだけ……」


 口に出すと、湊の言葉は狭い台所の壁へぶつかり、そのまま残った。蓮は冷えた麦茶をコップへ注ぎ、たくあんを二切れだけ小皿へ並べた。窓の外では、隣の部屋の洗濯物が夜風に揺れ、妙子の家がある方角から、遠くセミの声が聞こえていた。



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