第2話 東京から来た婚約者
第2話 東京から来た婚約者
黒い日傘の下で、三好沙耶は形のよい眉を少し下げ、蓮へ丁寧に頭を下げた。白いワンピースの腰には細い紺色のベルトが巻かれ、手には小さな革のバッグが下がっている。庭仕事を終えたばかりの蓮は、土の入った爪を隠すように両手を握った。
「初めまして、三好沙耶と申します。湊さんから、こちらのご実家のお話は聞いています」
「実家の……話を?」
「はい。緑が多くて、とても静かな町だって。お母様がお一人で暮らしていらっしゃることも聞いています」
沙耶の声は明るく、蓮を傷つけようとしているようには聞こえなかった。それだけに、蓮は何と答えればよいのか分からず、石畳に落ちたラベンダーへ目を落とした。十五年間この庭へ通ってきた自分のことを、湊は一度も話していなかったらしい。
「蓮、母さんは家にいるんだろ」
「いるけど……。湊、本当に結婚するの?」
「まだ正式に決まったわけじゃないよ。だから、挨拶に来たんだ」
「そういうことを聞いているんじゃないの。どうして何も――」
「あら、湊なのかい」
妙子が縁側から庭へ降りてきたため、蓮の言葉は途中で止まった。妙子は朝から着ていた朝顔柄のワンピースの上に、薄い灰色のカーディガンを慌てて羽織っていた。片方の靴下がかかとまで下がっていたが、それにも気づかず、息子の顔を見つめている。
「母さん、久しぶり。元気そうだな」
「久しぶりじゃないでしょう。正月にも帰ってこなかったくせに、急にどうしたの。そのお嬢さんはどなた?」
「さっき蓮にも紹介したところだよ。三好沙耶さん。俺が結婚を考えている人だ」
妙子は、日差しがまぶしいときのように何度か目をしばたたいた。喜んでいるのか驚いているのか分からない顔のまま、カーディガンの前を両手で合わせている。庭ではアブラゼミが鳴き続け、台所の網戸からは、昼に作ったナスの煮びたしの甘いだしの匂いが流れてきた。
「結婚を……考えている?」
「初めまして、お母様。急に伺ってしまい、申し訳ありません。数日間お世話になります」
「数日間って、泊まるのかい?」
「そのつもりで来たんだ。部屋は空いてるだろ」
湊は悪びれずに答え、車の後部座席から紺色の旅行鞄と銀色のキャリーケースを降ろした。妙子の家には客用の布団が一組しかなく、もう何年も押し入れの上段へしまったままになっている。先月、蓮が虫干しをしようと話していたが、暑いから秋にしようと妙子が先延ばしにしたばかりだった。
「空いているけど、急に言われても布団の用意ができていないよ。それに、沙耶さんはどこで寝るんだい」
「俺の部屋でいいだろ。もう子供じゃないんだから」
「そういうことを、お母さんの前で平気な顔をして言うんじゃありません」
「今どき、それくらい普通だよ。母さんは考え方が古いんだ」
妙子の頬がこわばると、沙耶は黒い日傘を閉じ、二人の間へ入った。傘を留める指には淡い桃色の爪が並び、左手首には細い金色の腕時計が光っている。沙耶は湊の腕を軽くつつき、困ったように笑った。
「湊さん、そんな言い方をしたら駄目ですよ。お母様、私が近くのホテルを探します。今日はご挨拶だけでも十分ですから」
「いや、ホテルなんて金がもったいないだろ。母さんも気にしないよ」
「気にするかどうかは、お母さんが決めることですよ」
蓮が口を挟むと、湊は初めて蓮の姿を上から下まで見た。白いTシャツの裾にはラベンダーの葉が一枚つき、薄緑色のスカートには土の筋が残っている。湊は小さく息を吐き、昔から変わらない、面倒なことを早く終わらせたいときの顔をした。
「蓮は相変わらずだな。母さんのことになると、すぐ口を出す」
「それは……」
「まあいいじゃないか。沙耶も母さんとゆっくり話したいって言ってるし、二泊くらい何とかなるだろ」
「湊さん、こちらの方は、お母様のお手伝いをしている方なんですか?」
沙耶が遠慮がちに尋ねると、蓮は返事ができなかった。家政婦でもなければ、親戚でもない。しかし、十歳のときに交わした約束を説明するには、湊の隣に立つ沙耶の白いワンピースがあまりにもまぶしかった。
「蓮は近所の幼馴染だよ。母さんが一人だから、たまに様子を見に来てくれてるんだ」
「たまにじゃないわ」
妙子の声が庭を横切った。大きな声ではなかったが、湊の旅行鞄へ手を伸ばしていた沙耶が動きを止めた。妙子は息を整えるようにカーディガンの胸元を押さえ、それから蓮の隣へ立った。
「蓮ちゃんは、ただのご近所さんじゃないわ。この家を、ずっと守ってくれた人よ」
「母さん、守るなんて大げさだろ」
「どこが大げさなの。私が入院したとき、毎日病院へ来てくれたのは蓮ちゃんです。退院してからも薬を分けて、買い物をして、食事を作ってくれた。庭が荒れないのも、冷蔵庫に食べるものが入っているのも、全部この子のおかげなのよ」
「分かったよ。蓮が親切にしてくれたことは、俺も感謝してる」
湊はそう言ったものの、蓮の顔を見なかった。感謝という言葉は、畳んだハンカチを渡すように簡単に差し出され、十五年の月日には触れないまま地面へ落ちた。駅のホームで母親を頼むと言ったことも、仕事が落ち着いたら迎えに来ると言ったことも、湊の口からは一言も出てこなかった。
「そんなにお世話になっていたんですね。何も知らなくて、すみませんでした」
沙耶は蓮へ向き直り、もう一度深く頭を下げた。黒い日傘から、化粧品と新しい布が混じったような匂いが漂う。蓮は礼を言われるたび、自分がこの家でしてきたことを、東京から来た未来の嫁へ引き渡しているような気がした。
「謝らないでください。沙耶さんは、何も知らなかったんですから」
「湊さんって、実家の話をほとんどしないんです。お母様がお一人で暮らしているから、将来は私たちが何とかしないとねって話していたんですけど……こんなに親しい方がいらっしゃるとは知りませんでした」
「将来は、二人で何とかするって?」
「はい。結婚したら、東京へ来ていただくことも考えています。お母様を一人にしておくのは心配ですから」
妙子は何かを言おうとしたが、ひどく乾いた唇を一度閉じた。東京へ移る話など、息子から聞かされたことはなかった。仏壇には夫の位牌があり、庭には夫が植えた白花夕顔があり、この家を離れるつもりがないことを、湊は知っているはずだった。
「立ち話も暑いでしょう。とにかく、中へ入りなさい。沙耶さんも、遠いところを来て疲れたでしょう」
「ありがとうございます、お母様。これ、ほんのご挨拶の品なんです。東京で人気のお店のお菓子で、予約しないと買えないんですよ」
「まあ、それはご丁寧に。でも、お母様はよしてちょうだい。まだ何も決まっていないんでしょう」
「母さん、細かいことを気にするなよ。沙耶は未来の嫁になるんだから」
その言葉に、蓮の指先から力が抜けた。手に持っていたラベンダーが再び石畳へ落ち、紫色の小さな花が二つに折れた。妙子は息子をにらんだが、湊は旅行鞄の持ち手を握り、玄関へ向かって歩き始めていた。
居間へ入ると、昼食に使った青い小鉢が食卓の隅へ伏せてあり、妙子の飲みかけの麦茶には氷が一つも残っていなかった。扇風機の前には朝からたたんでいない洗濯物の籠が置かれ、湊は自分の靴下を一枚見つけると、懐かしいと言って笑った。それは湊のものではなく、先週、妙子が冷え対策に買った男性用の厚手の靴下だった。
「本当に、昔のままだな。この家」
「昔のままじゃないわよ。あなたがいない間に、変わったことはいくらでもあります」
「そうか? 冷蔵庫の位置まで同じじゃないか」
「去年、新しくしました。前のは夜中に大きな音がするようになったから」
「へえ。母さんが一人で買ったの?」
「蓮ちゃんが電器店へ連れていってくれたの。古い冷蔵庫を出すために、中の食べ物まで全部預かってくれたわ」
妙子が答えるたび、湊は曖昧にうなずいた。沙耶は菓子箱を食卓へ置き、部屋の中を珍しそうに見回している。仏壇の花は今朝、蓮が取り替えたばかりで、花瓶の水には庭から摘んだミントの葉が浮かんでいた。
「蓮さんは、本当に何でもなさるんですね。お料理も、お庭のお手入れも、家のことも。お仕事はされていないんですか?」
「町の園芸店で働いています。今日は午後から休みだったので」
「そうなんですね。てっきり、住み込みでお手伝いをされているのかと思いました」
「沙耶、失礼だろ」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりではなくて、あまりに自然に台所を使っていらしたから」
沙耶は頬を赤くして謝ったが、蓮には責める気持ちが起こらなかった。この家に蓮がいる理由を説明しなかったのは湊であり、沙耶は与えられた話を信じて来ただけだった。そう分かっているのに、胸元へ冷たい水を流し込まれたように、呼吸が浅くなった。
「お茶を淹れますね。冷たい麦茶でいいですか」
「蓮ちゃん、今日はもう帰っていいのよ」
「でも、夕飯のそぼろを冷蔵庫へ入れて、薬も分けておかないと」
「それくらい、俺がやるよ。久しぶりに帰ってきたんだからさ」
「薬は朝と夜で違うの。赤い印の袋は食後、青い印は寝る前よ。血圧を測ったら、この帳面にも書いて」
「そんなにあるのか。母さん、薬を飲みすぎじゃないの?」
「あなたが知らなかっただけです」
蓮は台所の棚から薬の帳面を取り出した。表紙には妙子がこぼした醤油の染みがあり、日付の横には、蓮の丸い字で血圧と体温が記録されている。湊は数ページめくっただけで帳面を閉じ、食卓へ戻した。
「じゃあ、今日は蓮に頼むよ。明日から俺が覚えるから」
「分かりました。説明しますから、ちゃんと聞いてください」
「あとでいいだろ。沙耶も疲れてるんだ。まずは荷物を片づけたい」
蓮は帳面を胸に抱え、黙ってうなずいた。湊は二階の自分の部屋へ旅行鞄を運び、沙耶も銀色のキャリーケースを引いてあとに続いた。階段を上がる二人の足音が重なるたび、蓮は薬の袋を一つずつ曜日ごとの箱へ入れた。
庭では、閉じられた黒い日傘が古いベンチへ立てかけられていた。風が吹くと日傘がわずかに開き、二人で指切りをした座面へ黒い影を落とした。蓮は窓越しにそれを見つめたあと、十五年間持ち歩いてきた庭の鍵を、エプロンのポケットの中で強く握った。




